テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
━━季節は進み、寒さに振るえる頃合いに入る。
岩崎と月子は、結局、神田旭町から、本宅である岩崎男爵邸へ住居を移した。
男爵家のしきたりや、社交界の諸々に慣れるという、遅ればせながら月子にとって花嫁修行兼ねてのことだった。
それだけではなく、男爵家で養生している母と、月子が共に暮らせるようにと言う岩崎の采配もあった。
「いってらっしゃいませ」
男爵邸の玄関車寄せには、女中達が並び、軽やかな見送りの声を岩崎へかけている。
「うん、行ってくる」
外套《コート》の襟を立て、どこか寒そうに身震いしながら、岩崎は返事をすると、迎えの車に近寄るが、ぴたりと足を止めた。
「先生、早く乗ってくださいよ」
岩崎を迎えに来た新聞社の車から、沼田がひょっこり顔を覗かせ、外に出るのは寒いからとばかりに車中から岩崎へ小言を言う。
初めての演奏会から岩崎は、週末になると定期的に花園劇場で演奏会を開くようになっていた。さらに、夢でもある、学校を巡って子供達へ西洋音楽を聴かせるという話も進んでいる。
演奏家として、岩崎京介の名前が、世に広まり始めたのだ。
今日も日曜日ということで、花園劇場での演奏会に向かへと、主催である新聞社の迎え、沼田が、男爵邸にやってきているのだった。
「先生!間に合わなくなりますよ!なにぼっと突っ立ってんです?」
沼田が早く車に乗れと催促する。
「いや……お咲が、来ていない……」
岩崎が、静かに言った。
「あーー、きてませんねーー!なにしてんだろか?間に合わなくなっちまうって言うのに」
お咲は、今や花園咲子の芸名で少女歌手として人気を博していた。岩崎の前座ではあるが、童謡や、流行歌まで歌いこなす天才少女歌手と巷で噂になっているほどだ。
「先生ーー!!おくれちゃった!!だってね!芳子さまが、なかなか、お着物きめてくれなかったんだよーー」
バダバタと、お咲が駆け出してきた。
「あっ、お咲ちゃん!走ると危ないよ!」
「でも!月子さま!しんぶん屋さんのおじちゃんが待ってるからっ!」
小花が飛んだ淡い桃色の着物を纏い、花飾りを頭に付けたお咲が慌てながら車寄せに出て来た。
「あっ、京介さん!すみません!お待たせしてしまって!」
後から追いかけてきた月子が、遅れたことを申し訳無さそうに言う。
「い、いや、そ、それは、いい……いいんだけど、月子……」
「はい?どうしました?」
どこか挙動不審な岩崎に、月子も答えながらハッとする。
お咲を追って走ってきた。ここは、男爵家。もう、下町ではない。廊下を走るなど、はしたない。それも、時間に遅れそうになったからと……。
完全にしくじったとばかりに、月子は俯いた。
「いや、なんだ、その格好は。いったい……」
岩崎が、ちらちらと月子へ視線をやり口ごもる。
「ええ、本日は、私が月子様にテーブルマナーをご指導するため、洋装に着替えていただきました」
執事の吉田が、事の次第を説明するが、岩崎の目は泳いでいる。
「い、いや、だからといって、ドレスに着替えなくても!な、なにより、日曜日だぞ!なにも、休みの日まで稽古しなくとも!!」
「ですが、月子様のご希望ですから、私も致し方なく。命じられれば動くのが執事でございます」
なんとなく、芝居がかった口調で、吉田は、自分の責務だと言い放つ。
「それに、月子様は覚えがよろしゅうございますから、私としても教え甲斐がございますよ?」
ククッと、含み笑う執事に、岩崎は、まだ食っってかかろうとする。
「あー、なんでもいいから、お願いしますよー!時間がないんですから!」
沼田が、口を挟んできた。いつの間にか、お咲は後部座席に乗り込んでおり、文字通り岩崎が出発の足を引っ張っている状態だった。
「わ、わかってるがなっ!月子がっ!ドレスでっ!」
「はい、京介様。月子様がお召しになられている深緑色のフラノの普段着、よくお似合いですわねぇ。近頃、洋装にもお慣れになられたようで……」
岩崎の叫びに近い言葉に、見送りに立ち会っている女中頭の清子が、空々しく答える。
テーブルマナーの練習ということで洋装で挑むらしく、月子は、略式のドレスを纏っていた。
「あっ、おかしいですか?やはり、洋装は。慣れなくて着こなせてないですよね……」
俯きながら、月子が、恥ずかしげに言う。
「ちがうっ!!そんなことはないっ!!似合ってる!似合ってるぞっ!月子!!」
どこか、自信なさげにしょんぼりする月子の様子に、岩崎は焦りの声をあげた。
たちまち、見送り勢の女中達がグズグズ笑い、ついに、沼田が苛立った。
「あのですねっ!遅れるっていってんでしょーーがっ!!その、新婚ごっこみたいなの、いい加減にしてくれませんかねぇ!!」
沼田の呆れに、皆は肩を揺らして笑いを必死にこらえている。
「さあさあ、京介様、お待たせしては……」
清子が、見送り代表として岩崎を急かす。
「あっ、あっ、い、いってらっしゃいませ!」
月子も慌てた。出かける岩崎を見送ってないからだ。
「あ、うん、行ってくる」
プイと、そっぽを向く岩崎の頬は少し染まっていた。
その様子に、女中達は益々含み笑い、当の岩崎はと言うと、眉間にシワを寄せ、ふんと、鼻を鳴らしながら車へと歩んで行く。
不機嫌だか、なんだかわからない岩崎の様子に月子はオロオロしたが、つと、纏う外套《コート》の衿が乱れているのに気がついた。
「京介さん!待ってください!衿が!」
言って駆け寄ると、月子は、立っている襟を直してやる。
その様子に、あっと、女中達がざわめいた。それでも、岩崎は、満足げに、月子のなすがままになっている。
「京介さん、衿が立っていましたよ?」
「ああ、すまんな、月子」
応じる岩崎は笑みすら浮かべ、二人のあいだには、どこなく甘い空気が流れた。
「チュッチュしないのかなぁ?」
「なんだ?お咲?」
車の中から、お咲が不思議そうに見つめながらポツリと言い、沼田がそれに反応した。
「先生と、月子様は、チュッチュするんだよ」
へっ?!と、沼田が声を裏返す。、
「岩崎先生!もうね、ほんと時間が押してんですから、いちゃつくのよしてくださいよ!早く車に乗って!」
怒鳴り声に近いそれに、岩崎もハッとして、慌てて車に乗り込むが、ハクションと、大きなくしゃみをした。
「やっぱりねぇ」
「京介様、寒がりだからねぇ」
清子含め、女中達がぼやく。
「あ、あの?それは?」
月子は、話が見えないと清子へ近寄りそっと、事の次第を聞いてみるが、バタンとドアの閉まる音と共にエンジン音が鳴り響き、岩崎とお咲を乗せた車は走り去って行く。
皆、とっさに頭を下げ、いってらっしゃいませと、再び見送った。
月子も、慌てて頭を下げるが、清子の視線に気がついて、話の続きを聞かうと耳を傾ける。
「あー、京介様、首元が冷えるからと、あえて外套《コート》の襟を立ててお召しになるんですよ」
「まあ!じゃあ、私……」
襟を直したのは余計なことだったのかと、月子はがくぜんとしたが、首元が冷えるからという理由を聞いて、ふと、あることを思いつく。
「清子さん、お願いがあるのですが……」
「はい、なんでしょうか?」
清子は答えつつも、何やら決意を固めたかのような、真顔の月子に首をひねった。