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深夜二十三時を回った東京のオフィス街は、まるで巨大な墓標のように静まり返っている。
カチ、カチ、と規則正しい壁掛け時計の秒針の音だけが、神崎ホールディングス本社ビル最上階、広々とした社長室前の秘書デスクに冷たく響いていた。
社長室筆頭秘書である私、白石琴音(しらいしことね)は、ブルーライトを反射するトリプルモニターを睨みつけながら、キーボードを叩く手を止めない。
(あと……少し。この最終ページの財務数値の照合さえ終われば、明日の百億円規模の海外医療ファンド提携プレゼン資料は完璧になるわ)
キーボードの上を滑る指先は氷のように冷え切っているというのに、体の芯はマグマのように熱かった。
喉の奥がカラカラに張り付き、呼吸をするたびに肺が熱を持ったように痛む。三日前から感じていた微かな悪寒は、今夜ついに無視できないレベルの高熱となって私の体を容赦なく蝕んでいた。
視界の端がぐらりと揺れる。それを頭を振って無理やり追い出し、私は手元の資料に赤いペンでチェックを入れていく。袖口から覗く手首には、昨日の夜に救急外来で打ってもらった点滴の絆創膏の跡を隠すため、濃いコンシーラーが塗り重ねられていた。
「……っ、集中、しなきゃ。絶対にミスは許されない」
掠れた声で自分自身を鼓舞し、私はデスクの引き出しから『10秒で速攻チャージ!』と大きく印字されたマスカット味のゼリー飲料を取り出すと、キャップを捻って開け、無造作に喉へ流し込んだ。
これが、本日の私の「夕食」だ。ちなみに昨日の夕食はカフェイン入りの栄養ドリンクとマルチビタミンのサプリメントである。
会社では「氷の秘書」「精密機械のように完璧で隙のない女」と社員たちから恐れられ、一目置かれている私だが、その実態は、自分の人生のすべてを「仕事」という一点に全振りしているだけの不器用な女だった。
家事能力は皆無。自炊などこれまでの二十六年の人生で片手で数えるほどしかしたことがなく、自宅の冷蔵庫にはミネラルウォーターと美容パックしか入っていない。生きるためにどうしても必要だから栄養補助食品を口に入れているだけで、自分の食事への関心もゼロだった。
どうしてそこまで身を粉にして働くのか。
すべては、たった一人の「推し」――いや、愛してやまない直属の上司の隣に立ち続けるためだ。
私が仕える神崎蒼(かんざきあおい)社長は、弱冠二十九歳にしてこの巨大グループを牽引する敏腕経営者だ。
一切の無駄を嫌い、結果を出せない人間には容赦がない冷徹な仕事人間であり、社員からは「魔王」と影で恐れられている。しかし、誰もがすれ違いざまに振り返るほどの、彫刻のように端正な容姿と圧倒的な威厳を放っている。
私は新卒で入社した時から彼の仕事ぶりと横顔に惹かれ、密かに熱烈な片思いをしているのだが、同時に強い恐怖も抱えていた。
(神崎社長が私を隣に置いてくださっているのは、私が誰よりも有能で、決して弱音を吐かない便利な秘書だからだわ。もし体調管理もできない無能だと知られたら、すぐに失望されて切り捨てられてしまう……)
そんな見捨てられ不安があるからこそ、どんなに胃が痛くても、どれほど熱があっても、分厚い鉄仮面を被り続けてきたのだ。
明日は、社運を懸けた一大プロジェクトの最終プレゼン当日。神崎の右腕として、彼の完璧な盾となるために、ここで倒れるわけにはいかなかった。
「よし……これで、完璧……」
最後のページを保存し、印刷ボタンを押した瞬間だった。
張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れたように、全身から一気に力が抜けた。
同時に、ガチャリ、と背後の重厚な社長室の扉が開く音がした。
「――白石。まだ残っていたのか」
不意に背後からかけられた声に、私の心臓が大きく跳ねた。
低く、どこまでも響くような、重厚で静かなバリトンボイス。私が愛してやまない、この会社の絶対君主の声だ。
「神崎社長……っ」
彼はとっくに帰宅したと思っていた。慌てて椅子を回転させ、立ち上がろうとする。
だが、急な動作に三半規管が悲鳴を上げ、視界がぐにゃりと歪んだ。天地がひっくり返ったような強烈な目眩。
「お疲れ様です。はい、最終点検が、たった今……っ」
言葉の途中で、膝の力がカクンと抜けた。
まるで糸の切れたマリオネットのように、私の体が床へと傾く。
(あ、ダメ……倒れる)
大好きな人の前で、完璧な秘書であるはずの自分が、こんな無様な姿を晒すなんて。
冷たい床に叩きつけられる。そう覚悟して、ギュッと目を閉じた瞬間。
「白石ッ!」
強い力で、腕をぐいと引き寄せられた。
ドン、と硬くて温かい胸板にぶつかり、ふわりと上質なシトラスと微かな白檀の香りが私の鼻腔をくすぐる。
床に倒れ込む寸前で、神崎が力強い腕で私の体をしっかりと抱き留めていたのだ。
「しゃ、ちょう……?」
見上げると、いつもは氷のように冷静なはずの神崎の端正な顔が、見たこともないほど険しく歪んでいた。
「おい、どうした。呼吸が浅いぞ……っ、なんだこの異常な熱は」
彼の手が、私の前髪をかき分け、直接額に触れる。
そのひんやりとした大きな手のひらの心地よい温度に、張り詰めていた私の意識の底が抜けそうになる。さらに彼の鋭い琥珀色の瞳は、私のブラウスの袖口から覗いたコンシーラーのヨレと、その下の点滴跡を一瞬で見抜いた。
「申し訳、ありま……せん。プレゼン、資料は……デスクの、上に……明日の、朝には必ず……」
「まだそんなことを言っているのか。仕事などどうでもいい、今は黙って俺に体重を預けろ」
怒鳴り声ではなかった。だが、普段の彼からは想像もつかないような、切迫した熱を孕んだ低い声が頭上から降ってきた。
呆れられてしまっただろうか。自己管理もできない失格秘書だと、明日からクビを宣告されるだろうか。
そんな恐怖が胸をよぎるが、それを口に出す気力すらもう残っていなかった。
朦朧とする意識の中で、私は神崎の腕の中にすっぽりと包み込まれるのを感じた。
そのまま体がふわりと宙に浮く。彼に横抱きに抱き上げられたのだと理解する前に、私は抗えない深い闇の中へと落ちていった。
◆
「……ん、っ……」
次に目を覚ました時、私は自分がとてつもなく柔らかく、沈み込むような感触の中にいることに気がついた。
重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
ぼんやりとした視界に入ってきたのは、見慣れない高い天井と、間接照明の温かい光。そして、肌に触れるシーツは、自宅の安物とは比べ物にならないほど滑らかな高級シルクの感触だった。
ほんのりと、あのシトラスの香りが漂っている。
(……ここ、どこ……?)
熱は少し下がったようだが、まだ頭の芯がぼんやりとしている。
体を起こそうとした時、カチャリ、と陶器のぶつかる小さな音がして、部屋のドアが開いた。
「――気がついたか」
低く響く声にビクッと肩を震わせ、声のした方を見る。
そこに立っていたのは、神崎だった。
しかし、いつもの隙のないスリーピースのスーツ姿ではない。ネクタイは外され、白シャツの第一ボタンは開けられ、袖口は肘まで無造作に捲り上げられている。そして何より私を驚かせたのは、彼が片手に、湯気の立つお盆を持っていることだった。
「しゃ、社長……!? あの、私、ここは……」
「俺の自宅のペントハウスだ。君はあのまま社長室の前で意識を失った。救急車を呼ぼうとしたが、うわ言で『病院は嫌だ、社長に捨てられる、明日の仕事が』と君が泣いて暴れるものだから、俺の部屋へ連れ帰って専属医に診せた」
神崎はベッドサイドのテーブルにお盆を置くと、静かな、しかしどこか深い溜息をついた。
「社長の、ご自宅……っ!?」
私の顔が、熱とは別の理由でボッと赤くなる。
自分が憧れてやまない上司の、プライベートな寝室のベッドに寝かされている。その事実にパニックになりかけ、慌てて飛び起きようとしたが、神崎の大きな手が私の肩を優しく、けれど決して逃がさない力で押し留めた。
「動くな。熱は三十八度五分まで下がったが、まだ安静が必要だ」
「で、でも、今日の最終プレゼンが……!」
「プレゼンなら、君が完璧に仕上げてくれた資料を使って、俺が一人で無事に終わらせてきた。今はもう翌日の夕方だ。君は丸一日、俺のベッドで眠り続けていたんだぞ」
「えっ……夕方……?」
私は絶句した。社運を懸けたプロジェクトの当日に、自分は社長の家で丸一日眠りこけていたというのか。
血の気が引いていく私を見下ろし、神崎はベッドの端に腰を下ろした。
「白石。君は昨夜、倒れる前に何を食った」
「え……?」
「俺の部屋に連れ帰った後、君のバッグから保険証を探そうとしたら、信じられないものが出てきた。……これだ」
神崎が空いている方の手で静かに掲げてみせたのは、私が昨夜飲んだ『10秒で速攻チャージ!マスカット味』の空容器と、サプリメントのケース、そして胃薬の空きシートだった。
「腕にはコンシーラーで隠した点滴の跡。バッグの中には人工的なゼリーと胃薬だけ。……白石、俺の目を見て正直に答えろ。ここ数日、まともな食事を摂っていたのか?」
神崎の琥珀色の瞳が、言い逃れを許さない静かな光を帯びて私を射抜く。
怒鳴られるよりもずっと恐ろしい理詰めの威圧感に、私はギュッとシーツを握りしめ、視線を泳がせた。
「あ、あの……そのゼリーが、昨日の、夕食で……」
「一昨日は?」
「栄養ドリンクと……マルチビタミンの、サプリ……」
「その前は?」
「……コンビニの、プロテインバー……です」
消え入りそうな声で白状すると、神崎は眉間に深い皺を寄せ、長く息を吐き出した。
「呆れたな。社内では完璧な秘書を演じておきながら、裏では自分の身体を削り取るような真似をしていたとは。なぜ体調が悪いと一言俺に言わなかった」
「だ、だって……弱音を吐いて、使えない秘書だと思われたら……社長の隣に、いられなくなると思って……っ」
張り詰めていたものが決壊し、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
すると、神崎の険しかった表情がふっと和らぎ、彼の大きな手が私の頭を包み込むように撫でた。
「馬鹿だな、君は。俺がいつ、君を使い捨ての道具だと言った。君が倒れた瞬間、俺がどれほど肝を冷やしたか……ッ」
神崎は言葉を飲み込むと、テーブルに置いていたお盆から、温かい湯気を立てるお椀を取り出し、私の目の前に差し出した。
「……泣くのは後だ。まずはこれを食え。俺が作った」
「えっ? 社長が、お料理を……?」
「有機野菜と鶏肉を朝からじっくり煮込んだ参鶏湯風の生姜雑炊だ。胃腸が弱り切っている君の胃袋でも無理なく消化できるように、米は限界まで柔らかくしてある」
スプーンですくわれた黄金色のスープからは、信じられないほど食欲をそそる優しい出汁の香りが漂ってきた。
私の胃袋が、その匂いに反応して「きゅるり」と情けない音を立てる。
「あ、あの、自分で食べられます……っ!」
「いいから大人しく口を開けろ。今の君はスプーンを持つ手も震えているだろう。それとも、自分の身体を粗末にして俺に心配をかけた身で、まだ意地を張るつもりか?」
低く穏やかな、けれど有無を言わさぬ甘い圧力。
私は耳まで真っ赤になりながらも、恐る恐る口を開けた。
神崎がふーふーと息を吹きかけて冷ましたスプーンが、そっと私の唇に触れ、温かい雑炊が口の中に広がる。
「――っ! おい、しい……」
それは、ゼリー飲料やサプリメントしか摂っていなかった私の細胞の隅々にまで染み渡るような、優しくて奥深い極上の味わいだった。
鶏の旨味と生姜の温もりに、私の目から再び熱い涙がこぼれ落ちた。
「……美味いか。ほら、お腹が空いていたんだろう。ちゃんと言葉にして言ってみろ」
「はい……っ、すごく、美味しいです……。もっと、食べたいです……」
「いい子だ。まだたっぷりあるから、急がずゆっくり食べろ」
神崎は満足そうに目を細めると、次の一口をすくい、再び私の口へと運んだ。
やがてお椀の中身が綺麗に空になると、神崎は私の口元をナプキンで優しく拭い、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「白石。君に一つ、新しい契約を申し渡す」
「け、契約……でしょうか」
「君が一人で無理を重ねて自滅するのを防ぐためだ。今日この瞬間から――君の健康と食事、そして生活のすべては、俺が二十四時間、徹底的に管理する」
神崎はそう言うと、ポケットから黒い洗練されたスマートウォッチを取り出し、私の細い左手首にカチャリと巻き付けた。
「君の口に入れるものは、今後すべて俺が用意する。さらに睡眠時間、心拍数、体表温度に至るまで、君の生体データはすべて俺の端末で常時把握させてもらう」
「ちょ、ちょっと待ってください! いくらなんでも、社長にそこまでしていただくわけには……!」
「拒否権はない。自分の身体を後回しにして嘘をついた君への、これは当然の措置だ」
神崎の顔が、私の吐息が触れそうな距離まで迫る。
彼の琥珀色の瞳の奥には、普段の冷静さの下に隠されていた、底知れないほど重く熱い「執着」の光が揺れていた。
「もう俺の前で無理を隠すことは許さないぞ、琴音。君の胃袋も、生活も……すべて俺の手のひらの上だ。覚悟しておけ」
初めて下の名前で呼ばれ、私の心臓が警鐘を鳴らすように激しく跳ねた。
左手首のスマートウォッチが、急上昇した心拍数を感知して小さく振動する。
これが、冷徹な社長による「甘くて過保護すぎる、二十四時間の徹底管理ライフ」の幕開けだった。
コメント
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ひええ〜第1話からすでに尊すぎて頭爆発しそうなんだけど!!!💥💥💥 「氷の秘書」が実は栄養ゼリーしか食べてない超♡♡♡生活してたとか、そのギャップがもうキュン死必至なんですけど…😭💕 しかも倒れた先輩を抱きとめる神崎社長、あの冷静な人が焦ってるの最高すぎる〜! 「俺が作った」の一言で運ばれてくる手作りの生姜雑炊、しかもスプーンで食べさせるとか…これは契約という名のプロポーズでは?!👑✨ 次の話、秒で読みたいです!!連載楽しみにしてますね、kirisuさん🔥