テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
力の家の二階の部屋は昔と変わらずそのままの力の部屋だったが、今やそこはまるで音楽の坩堝と化していた
狭いスペースにアンプやミキサー、キーボードが雑然と積み重なり、かつて力の安らぎだったベッドの上や床にもノートパソコンや機材が無造作に置かれていた
力は、その隙間に体を滑り込ませ、機材に囲まれるようにして眠っていた
床には空のコーヒー缶やエナジードリンクがいくつも転がり、足の踏み場もないほどだった、その合間を縫うように音符や歌詞が殴り書きされたコピー用紙が散乱していて、紙には力の情熱と苛立ちが交錯したような乱雑な筆跡が並び、所々にコーヒーの染みや折り目がついていた
週末に迫った雄介のライブハウスでの単独ライブに向け、力は新曲を仕上げるのに必死だった。ギターを手に、弦を弾いては止まり、延々音楽ソフトと睨めっこした、時折、ものすごい良いフレーズが浮かんだ!と思ったら誰かの楽曲の真似だったりして、力は髪をかきむしった
そんな光景を、部屋のドアの隙間から力の父親、健一がそっと覗き込んでいた
「バカ息子が・・・いったい何をするつもりなんだ・・・」
健一は低くポツリとつぶやいた
8年間・・・音信不通だった息子が突然帰ってきた、健一はドアをそっと閉め、階段を下りてキッチンに向かった
キッチンのテーブルには夕食用に用意された食材が並んでいた、サバの切り身、じゃがいも、玉ねぎ、そして力の好物だった肉じゃが用の牛肉・・・健一はエプロンを腰に巻き、慣れた手つきでいそいそとじゃがいもの皮を剥きだした
独り住まいだった健一はこの日、8年ぶりに二人分の夕食を作った
・:.。.・:.。.
「お茶づけの素もう1個入れてもいい?」
朝日が射す沙羅の家のリビング、ハローキティの丼に音々の好きなご飯とお茶漬けの素を入れた朝食を前に沙羅に聞く
「ダ~メ!塩分過多よ、一つで充分美味しいでしょ?」
沙羅が具材の焼きシャケとうめぼし、昆布、針海苔の入った瓶をテーブルに並べながら言う、お茶づけトッピングバイキング朝食は音々の大好きなメニューだ
「だって濃くて美味しいんだもん」
「だいたいが、美味しいものは食べ過ぎると体に悪いのよ」
「ねぇ!ままぁ~!おねがぁ~い」
可愛い顔が迫って来る、この子に迫られたら、つい手が伸びて抱きしめずにはいられない、私のかわいい子・・・何でも言う事を聞いてあげたくなる
穢れを知らない自分に向けての全信頼の瞳は可憐で、屈託のない笑みには、心がとろけそうになり、一日のエネルギーをこの子から貰う
「もう~~じゃぁ・・・ちょっとだけね!」
「わぁ~~い」
音々がもう一つのお茶づけの素をビリッと破ってシャカシャカご飯に振りかけている
フフフッ
「音々ちゃんは本当に濃い味が好きなのよね~そういう所、り・・・・」
そこでハッと声が詰まった
「どうしたのぉ~ママぁ~~」
「ううん・・・何でもない・・・」
―そういう所、力そっくり―
と危うく言ってしまう所だった
沙羅は思った・・・
高校一年から大学卒業まで、力と沙羅は彼氏・彼女だったけど兄弟のように育った
お互い共働きの両親を持ち、放課後はいつも親のいないお互いの家に行き来していた、同じ環境で毎日二人で同じ物を食べた
特に沙羅の作ったオムライスが大好きだった力・・・そしてそのオムライスにケチャップを卵が見えなくなるまでドバドバかけるのが好きだった
力の味覚は少しおかしくて、刺身も醤油をジャバジャバにして食べていたし、白飯が食べられない力はいつもフリカケをかけて食べていた、そしてそれを見た沙羅が力に注意するという所までがセットだ
生理痛がひどくてデートを断った時、彼は町一番のケーキを手土産に沙羅の家に押しかけて来た、生理中の女ほど近づかない方が良いジンクスを力は知らない、イライラした沙羅が力に当たり散らしても嫌な顔一つしないでずっとベットで抱きしめてくれていた
反対にすぐおなかが緩くなる力が、悪友からしこたま飲まされて酷い下痢になった日、親すらも呆れて力を見放して仕事に行ったのに、沙羅だけは温かいお粥を力に作り、何度も排便をするのでお尻の穴が真っ赤になって痛くてウォシュレットを使えないと泣く力に、そっと沙羅が軟膏を塗って、腹巻をつけて看病した
初めて愛を交わした日から、あんまり二人があの行為を熱心に練習するものだから、やがて力の亀頭は最初は綺麗な肌色をしていたのに赤黒く変色した
沙羅の女性器も変色したのか気になって力に確認して欲しいと調べさせたが、色が変わろうと形が変わろうと自分しか見ないから平気だと力は笑った
真由美は「学校一のさわやかカップル」が実は影でヤリまくっているのが一番エロいと笑った
二人の間にはいつも愛と信頼しかなく、不思議な魔法が生まれていた
それを壊したのは他でもない・・・力・・・・
しっかりしなさい!沙羅・・・
沙羅はじっと音々を見た・・・この子の瞳が力にそっくりだと、今までは見て見ぬフリをしていた、この子の髪がゴムでしばっても跡が付かないほど太くて黒くて、真っすぐでサラサラなのが、母親の自分とはまったく違うのを知らないフリをしてた
胴の割には長い手足も、音楽家の様な細い指も、全部自分が与えた以外の強烈なDNAが働きかけ、日々この子の細胞を作り上げているのを今まで全部見て見ぬフリをしていた
しかし音々は音々だ!自分のたった一人の大切な存在、沙羅は衝動的に娘の小さな体をぎゅっと抱きしめ、頭のてっぺんにキスをした
「ママは「ぎゅ~」の時間なの?」
「うん・・・」
クスクス・・・
「しょうがないなぁ~ちょっとだけだよ」
大人しく抱かせてくれる音々を心から愛おしく思った
この子はいつも私に優しくて、我が子ながら天使の様に愛くるしい・・・
もっとも身内びいきであることは自分自身充分わかっている、力がもたらしたものは、失望と憎しみと怒り・・・
そして複雑だが沙羅の人生の最大の宝物を授けてくれたのもまた、彼である
辛く複雑な妊娠期間の後で音々の誕生は、多くの意味で沙羅に元気と活力を取り戻させた、実際に我が子と対面を果たすまでは、この存在によってこれほどまでに世界の見え方が変わり、かつて抱いたことのない無条件の愛に満たされるとは思ってもみなかった
この子のために出来ない事は何一つない・・・今ではそう確信している
「さぁ!音々ちゃん!学校に行きましょう!今日は雨だから車で送って行くわ、ママ着替えて来るね」
「新しい長靴履いてもいい?」
「いいわよ」
「わぁ~い」
沙羅は自室に入ってスゥエット着を脱ぎ、ベッド脇にある色あせたジーンズに手を伸ばした
真由美にLINEをし、真由美の息子浩紀を店に連れてきたら、沙羅が二人を学校に送って行くとメッセージを入れた、すかさず真由美のOKのLINEスタンプが帰って来た
ゴソゴソ・・・
「え~っと・・・あのTシャツは・・・どこにやったかな?」
クローゼットに頭をつっこんでハンガーを順番に横にやって探している時、一番奥に目が行ったのはたまたまだった、でもその服がまだそこにあるのは初めから分かっていた
8年前に新婚旅行の時に着て行こうと買ったバイト代を叩いて買ったプラダのブラックのワンピース・・・
襟ぐりが胸元までVの字に深く、切れ込みが入ったノースリーブの膝上ミニだ
沙羅がこれを着ると体のラインがとても綺麗に見えるので一目で気に入って購入した
あの時の沙羅は力が自分にうっとりとなってこのドレスの背中のファスナーを外してくれるのを夢見ていた
一度も袖を通していないのになぜこれを取っておくのだろう・・・
沙羅はため息をついた、ましてや流行も戻ってきそうもないのに・・・
沙羅には忘れようとも忘れられない服になっていた
二人の魔法は力が去ったあの日でとっくに切れたと思っていた
沙羅は思い出を断ち切るようにクローゼットを閉め
心を乱す記憶を即座に再び締め出した
過去を蒸し返しても意味がない、八年経った今でも驚くほど鮮明な記憶も・・・思い出も固くここに閉じ込めて、元あった場所に戻してそっとしておけばいい
上手くいけば、今度こそ・・・
永遠に思い出さなくなるだろう