テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
2,687
59
第5話 違いません
銀翼の人型霊獣が備品倉庫の前を通りかかると、中から後方支援担当の職員の声が聞こえた。
「ですから、もう出てください」
声は穏やかだったが、普段より硬い。
半開きの扉から中を見る。
棚卸し中の職員と、運搬訓練に来ていた人型霊獣が向かい合っていた。霊獣は肩幅が広く、職員より頭一つ大きい。その身体が、職員と出口の間に立っている。
「俺みたいな体格が好みだと聞いた」
「どこで聞いたか知りませんが、好みと、あなたに応じるかどうかは別です」
「話くらいいいだろう」
「勤務中です。作業も残っています」
「なら、終わるまで待つ」
「待たなくて結構です」
職員は明確に断っていた。
それでも霊獣は退かない。職員が横から抜けようとすると、同じ方向へ一歩動いた。
「そんなに警戒しなくていい。好みなんだろう?」
「だから、それとこれは――」
職員の背が、棚へ近づく。
銀翼の霊獣の羽根が、一斉に硬くなった。
倉庫の奥行きが、急に伸びたように見えた。棚の輪郭がぼやけ、耳の奥で自分の鼓動だけが大きくなる。
大きな身体が出口を塞いでいる。
その向こうで、職員がわずかに身を引いた。
見ているのは今の光景のはずなのに、別の声が重なった。
《綺麗な翼だな》
《少しくらい、いいだろう》
《見るだけだ》
《触れただけで、そんな顔をするな》
顔から首へ、首から身体へ、最後には翼の付け根へと滑っていった視線。
断っても縮まった距離。
逃げようとした腕をつかまれ、銀の羽根を指で挟まれた感触。
離せと言ったはずだった。
だが、相手は笑っていた。
冷たい汗がこめかみから頬へ流れた。首筋を伝った汗が衣の中へ入り、背へ張りつく。
畳んだ翼へ力が入り、付け根が痛んだ。指先は小刻みに震え、何度握り直しても感覚が戻らない。
息を吸おうとするたび、喉が狭くなる。
倉庫へ入らなければならない。
自分が止めなければ。
そう思うのに、膝が固まり、一歩も前へ出なかった。
怖かった。
自分が迫られているわけではない。それでも身体は、今と過去の違いを聞いてくれなかった。
その時、震える視界へ、別の光景が浮かんだ。
自分と男たちの視線との間へ、何も言わずに立った後方支援担当の職員。
翼にも肩にも触れず、一歩分の距離を残したまま、ただ視線を遮っていた背中。
《嫌そうだったので》
あの男は、自分が言葉にする前に気づいた。
今、その男も出口を見ている。
声は穏やかなままだが、肩が強張っている。
嫌そうだった。
銀翼の霊獣は、震える唇を噛んだ。
倉庫へ入ることはできない。
けれど、ここに置いていくこともできない。
《困ったことがあるなら、俺に言え》
以前、大型霊獣があの職員へ向けた言葉が蘇った。
自分への約束ではない。
それでも、誰へ知らせればよいのかは分かった。
あの大型霊獣なら、職員の《嫌だ》を聞く。断られれば止まる。そして今の自分よりも早く、塞がれた出口を開けられる。
銀翼の霊獣は震える指を握り込み、踵を返した。
最初の一歩は、逃げる時と同じだった。
それでも今は、逃げる先を自分で選んだ。
銀の翼を硬く閉じたまま、訓練場へ向かって走った。
大型霊獣は、荷運びの訓練を終えたところだった。
銀翼の霊獣は訓練場の入口へ手をついた。息が整わない。額には冷たい汗が浮かび、指も翼もまだ震えている。
「来てくれ」
絞り出した声は掠れていた。
大型霊獣がすぐに振り向く。銀翼の様子を見ると、支えようとはせず、その場で立ち上がった。
「何があった」
「あの職員が……倉庫で、体格の大きな霊獣に出口を塞がれている」
大型霊獣の表情が変わった。
そのまま倉庫へ向かおうとする背を、銀翼が呼び止める。
「待て」
「まだ何かあるのか」
「俺には、あの職員が嫌がっているように見えた」
震える指を、もう一方の手で押さえる。
「だが、俺にそう見えただけかもしれない」
「分かった」
大型霊獣は短く答えた。
「本人に聞く」
二人が倉庫へ戻った時、状況はさらに悪くなっていた。
職員は棚際で、大柄な霊獣の胸を両手で押し返していた。だが、体格差のために十分な距離を作れない。顔を背けた職員の首筋へ、霊獣の牙が近づいている。
「やめてください!」
職員が身を捩る。背後の棚が大きく揺れた。
「怖がらなくていい。少し印をつけるだけだ」
「そこから離れろ」
倉庫へ、低い声が響いた。
大柄な霊獣の動きが止まる。
大型霊獣は相手へ手を出さず、塞がれていた扉を大きく開いた。そのまま出口を確保し、職員へ尋ねる。
「俺に、ここにいてほしいか」
職員は乱れた呼吸を整えながら、はっきりと頷いた。
「……はい。お願いします。それから、担当の方を呼んでください」
「聞いたな。外へ出ろ」
「まだ噛んでいない。少し話をしようとしただけだ。それに、あんたが言っていたんだろう。こいつは、あんたみたいな体格が好みだって」
大型霊獣の表情が、一瞬だけ止まった。
「俺はそう言った」
大型霊獣の声が低くなる。
「だが、こいつがお前を望んでいるとは、一言も言っていない」
「出てくれと言われた時点で終わりだ。今すぐ離れろ」
騒ぎを聞きつけた担当職員が駆けつけ、もう一人の霊獣を倉庫から連れ出した。
大型霊獣は追わず、後方支援担当の職員へ振り返る。
「怪我は」
「ありません。助かりました」
大型霊獣は、連れ出された霊獣の背を見た。
「俺が言い回ったせいか」
「……あの人が、あなたから聞いたと言っていた以上は」
「悪かった。止められてからは言っていない。だが、余計な男を遠ざけるつもりで、逆にお前へ近づく理由を与えた」
大型霊獣は視線を逸らさず、職員へ頭を下げた。
「助けてくれたことには礼を言います。でも、それで原因を作ったことまでなくなりません」
「分かっている。俺が広めた分は、俺が訂正する」
「何を、どう訂正するんですか」
「お前が俺みたいな体格を好んでいても、誰に触られたいわけでも、噛まれたいわけでもない。俺が広めた相手には、断られたら離れろと訂正して回る」
「……それなら、お願いします」
大型霊獣は頷いた。それから、扉の外に立つ銀翼の霊獣を示す。
「それと、助けたのは俺だけではない」
「彼が、お前が嫌がっているようだと俺に知らせてくれた」
職員が銀翼を見る。
近づこうとして、途中で足を止めた。銀翼の羽根が、まだ硬く閉じていることに気づいたらしい。
「知らせてくれたんですね」
「俺には、嫌そうに見えた」
銀翼の霊獣は職員の顔を見た。
「違ったか」
「違いません」
職員は、はっきりと答えた。
「本当に助かりました。ありがとうございます」
硬くなっていた羽根から、少しずつ力が抜けていく。
「あなたも、怖かったでしょう」
「……怖かった」
「それでも、知らせに行ってくれたんですね」
「俺は何もしていない。中にも入れなかった」
「でも、俺が一人では困っていると伝えてくれました」
銀翼の霊獣は黙った。
怖かったことは、嘘ではない。
自分の見え方が、必ず正しいとも限らない。
だから決めつけず、確かめられる者へ知らせた。それでよかったらしい。
大型霊獣が銀翼を見る。
「なぜ、俺のところへ来た」
「お前が、あの職員に言っていただろう」
「何をだ」
「困ったことがあるなら、俺に言えと」
大型霊獣が、わずかに目を見開く。
「だから、知らせた」
「それに、お前は、あの職員が嫌だと言えば止まる」
大型霊獣は、しばらく銀翼を見ていた。
「よく見ていたな」
「見たくなくても目に入る」
後方支援担当の職員が、何とも言えない顔で記録板を抱え直した。
銀翼の霊獣は、もう一度その男を見る。
「お前が、嫌そうだったので」
職員は一瞬だけ目を見開き、それから深く頷いた。
「……はい。ありがとうございました」
コメント
1件
このお話、すごくよかったです……。銀翼の霊獣が、自分自身の恐怖と向き合いながらも「嫌そうだった」という違和感を手放さず、確かめられる人に託した行動が本当に丁寧で。大型霊獣が「本人に聞く」と即答するところや、職員が「違いません」と返すシーンにも、信頼の積み重ねを感じました。怖かったことを否定しないまま、それでも選んだ一歩が尊いです。