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「坊ちゃん。さすがに、これはまずいんじゃないっすかね……」
RESTIAの社長室。デスクに広げられた一枚の紙を前に、黒瀬は深いため息をついた。
銀縁眼鏡の奥で、目が遠くなっている。
「何がだ」
慧は平然とした顔で、執務椅子に深く腰掛けていた。
黒瀬は、慧が幼い頃から世話係兼護衛を務めてきた。だからこそ知っている。普段の慧は冷静沈着で、ビジネスの交渉なら常に数手先を読む。けれど、橘玲奈のことになると――。
デスクの上の婚姻届が、すべてを物語っていた。しかも、証人欄にはすでに一人分の署名がある。
「何が、じゃありませんよ。証人欄を先に埋めた婚姻届なんて突きつけられたら、普通の女性はドン引きです」
「玲奈は普通の女じゃない」
「極めてまともな感覚をお持ちだからこそ、契約書に即サインしなかったのでは?」
「契約書には、俺が署名した」
「橘様は、まだ署名されていませんよね?」
「時間の問題だ」
「その自信は、どこから来るんですか……」
「いいから書け」
「……はあ」
黒瀬は諦めたように、ペンのキャップを外した。大柄な身体をかがめ、空いている証人欄へペン先を下ろす。
「言っておきますが、提出するのは橘様ご本人が署名されてからですからね?」
「分かっている」
「本当に分かってます? 坊ちゃんの勢いだと、今夜にでも時間外受付へ持ち込みそうで怖いんですが……」
「黒瀬」
「はいはい。三回止めましたからね。あとで後悔しても知りませんよ」
「しない」
返事には、一切の迷いがなかった。
「……でしょうね」
小さくぼやきながら、黒瀬は婚姻届の証人欄へ自分の名前を書き込んだ。
***
土曜日。駅から直結するタワーマンションの30階。専用ジムやコンビニまで併設され、セキュリティは厳重。室内は高級ホテルそのものだった。
(……ちょっと待って)
(玄関だけで、私のワンルームのリビングより広そうなんだけど……)
床から天井まで広がる巨大なガラス窓。その向こうには、都心のビル群が一望できる。シックな高級家具が並ぶ室内には、生活感が欠片もない。
(この部屋……生活する場所っていうより、お高めのモデルルームじゃない?)
そんな広すぎるリビングのテーブル中央に、婚姻届がぽつんと置かれていた。証人欄には、すでに二人分の署名が並んでいる。
一人は、秘書の黒瀬さん。そして、もう一人――。
「ねえ。この『佐伯』さんって誰?」
ペンを握ったまま尋ねる。ソファでノートパソコンを開いていた慧が、画面から目を離さずに答えた。
「家事代行だ。俺の生活実態を一番よく知っている」
「婚姻届の証人って、そういう基準で選ぶものだっけ!?」
「問題あるか?」
「……問題しかないけど、もう突っ込むだけ無駄ね……」
私はペンを握り直した。まず、契約書へ署名する。続いて、婚姻届へ名前を書き込んだ。書き終えた途端、慧が婚姻届を手に取る。
「……何してるの?」
「提出してくる」
「今から!?」
「当然だろ」
(行動が早すぎる!)
(本当に今日中に出すつもりだったの!?)
その日のうちに、婚姻届は時間外受付へ提出された。数日後、無事に受理されたと連絡が入った。こうして私は、再会から一週間も経たないうちに――。神代慧の妻になった。
***
数日後。キャリーケースひとつを引き、私は慧のマンションへ引っ越してきた。
これは、ただのビジネス。一年間限定の、割り切った契約結婚。
(私は妻役を演じるだけ)
そう自分に言い聞かせながら玄関に立っていると、慧はジャケットを脱ぎながら、あっさりと言い放った。
「どこでも好きに使え」
「いや、もう少し説明ってものがあるでしょ。私の部屋はここ、とかさ」
「なら、奥の部屋を使え」
「はあ、そうですか……」
(相変わらず、説明が足りない!)
ネクタイを緩める背中を睨みつけつつ、荷物を置きがてら部屋を見て回る。
広い寝室。大理石を基調にしたバスルーム。ガラス張りのシャワーブース。最新式の家電。でも奇妙な違和感が拭えない。その正体は、冷蔵庫を開けた瞬間に判明した。中に並んでいたのは――。ミネラルウォーター。ブラックコーヒーとエナジードリンク。『完全栄養・これ一つで一日分』と書かれた栄養ゼリー。以上。
ぱたん、と扉を閉めた。
「……ねえ」
「何だ」
「あんた、普段どうやって生きてるの?」
「普通に」
「水とコーヒーとゼリーだけで、人間は生きられません!」
「必要な栄養素は満たしている」
「食事を成分表だけで判断するな!」
収納棚を開ければ、今度はプロテインの袋がずらりと並んでいた。一方、コンロは一度も使われた形跡がないほど、ぴかぴかに輝いている。
「料理は?」
「しない」
「でしょうね!」
「佐伯が週に二、三回来て、食事を作ることもある」
「ああ。婚姻届の証人に選ばれた家事代行の佐伯さんね。じゃあ、来ない日は?」
「困らない」
「困ってることに気づいてないだけでしょ!」
放っておいたら、本当に栄養ゼリーだけで生きていくつもりなのだろうか。しかも本人は、それを効率的な現代生活だと思っていそうなのが、余計にタチが悪い。
リビングへ戻ると、さらなる惨状が広がっていた。ソファの背もたれには、脱ぎたてのシャツ。床には、左右ばらばらに転がる黒い靴下。椅子の角には、ネクタイ。寝室の入り口には、片足だけ裏返ったズボン。
(この前は、モデルルームみたいに綺麗だったのに……)
(まさか、佐伯さんが来た直後だけだったわけ!?)
まるで、玄関から歩きながら服を脱皮していったかのようだ。
(何これ……)
(歩きながら脱皮でもしていったわけ!?)
額を押さえ、天井を仰ぐ。
「何だ」
言いたいことがあるなら言え。そんな顔で、慧がこちらを見ている。
「あるに決まってるでしょ! 服を脱ぎ散らかさないでよ!」
床から黒い靴下を、親指と人差し指でつまみ上げる。
「服は脱いだらカゴ! シャツはハンガーにかける!」
「佐伯が来た時に、まとめて回収してクリーニングへ出す」
「佐伯さんに頼りすぎ! カゴに入れるくらい、自分でやりなさい!」
さらに、あふれかえったゴミ箱を見て絶句した。ペットボトル。コンビニの容器。紙くず。すべてが、ぐちゃぐちゃに押し込まれている。しかも、ペットボトルには中身が少し残ったままだ。
(……これはないでしょ!)
「……ゴミは分別しなさい!」
「ゴミ箱には入れている」
「全部まとめて押し込んだだけでしょ! それは分別って言わないの!」
慧は、本気で何が悪いのか分からないという顔をしていた。会社ではきっと、途方もない金額を動かしている。なのに家では、ペットボトル一本まともに捨てられないなんて。
「あんた、生活能力どうなってんのよ……」
「自分でやる必要がなかった。基本は外食かコンビニ。たまに、佐伯の作り置きがある」
「じゃあ、その作り置きを食べればいいじゃない!」
「……以前はあった」
「以前は?」
慧がコーヒーのボトルを口元へ運びかけ、途中で止めた。
「食べたあとの皿を洗わず、シンクへ溜めていたら呆れられて……作り置き制度は、ほぼ廃止された」
「はあ……!?」
(佐伯さん、その判断、めちゃくちゃ正しい!)
飲物しかない冷蔵庫。脱ぎ散らかされた服。分別されていないゴミ。そして、作り置きを打ち切られるほど溜められた食器。外では、完璧な若手社長。なのに、家では――。
(生活能力、まさかのゼロ!?)
契約書をあんなに細かく確認したのに。
(こんな重大な欠陥、どこにも書いてなかったんだけど――!?)
コメント
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うわあああ第7話も最高だったよ〜!!😭💕 慧くんの生活能力ゼロすぎて笑ったwww 冷蔵庫に水とコーヒーと栄養ゼリーしかないとか完全に人間辞めてるやん!?笑 でも完璧社長のギャップ萌えがたまらん…玲奈ちゃんのツッコミが冴え渡ってて読んでてすごく気持ちよかった〜! 「歩きながら脱皮」って表現めっちゃツボった😂✨ 契約書には書いてなかった重大な欠陥ってオチも最高! 次回も楽しみにしてるよ〜!ひよりさんありがとう🌸