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(仮題)意味についての通達
本部からの通達は、いつもと同じ形式だった。
件名、発信部署、日付、そして淡々とした本文。
強調もなければ、注意喚起の赤字もない。だからこそ、花子は一度、読み飛ばしかけた。
――業務文書内における語句使用の適正化について。
画面をスクロールする指が、途中で止まる。
> 今後、判断記録および関連文書において
> 「意味」「意図」「理由」等の主観的解釈を含む語句については、
> 使用を慎重に検討すること。
> 代替表現が可能な場合は、そちらを優先すること。
花子は、しばらく瞬きを忘れていた。
禁止、とは書いていない。
使うな、とも書いていない。
ただ、「慎重に」「代替可能なら」とあるだけだ。
それでも、これは通達だった。
同じフロアの空気が、わずかに変わる。
誰かが咳払いをする音。キーボードを叩く速度が、不自然に揃っていく。
花子は、すぐに理解した。
これは「意味」を危険物として扱う、という宣言なのだ。
隣の席では、誰かが内部チャットに短く打ち込んでいる。
――「意味」って、仕様で言い換えられるよね?
――「意図」は想定でいいんじゃない?
――理由は……過去事例参照?
冗談めかしたやりとりなのに、笑いは起きない。
誰もが、正解を探している顔をしていた。
花子は、自分の作業中の文書を開き直す。
さっきまで何の違和感もなかった一文が、急に危うく見えた。
――この判断の意味は。
削除する。
代わりに、こう書く。
――当該判断は、既存仕様との整合性を考慮した結果である。
画面は、きれいになった。
意味は消え、説明だけが残った。
その瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
だが花子は、その感覚に名前をつけない。
名前をつけた瞬間、それもまた「意味」になってしまうから。
少し離れた会議室では、本部の人間たちが同じ通達を前にしていた。
「穏当な表現だと思います」
誰かがそう言い、別の誰かがうなずく。
「禁止ではない。選択肢を示しただけですから」 「現場の自主性を尊重しています」
議事録には、そう残る。
誰も、「なぜこれが必要なのか」を言葉にしない。
言葉にできない理由は、全員が同じものを見ているからだった。
――最近、何も起きていないのに、不安なのだ。
だが不安は、業務用語ではない。
だから、どこにも書けない。
会議の終わり際、誰かがぽつりと言う。
「健全性の担保、という観点では……」
その言葉も、最後までは続かなかった。
健全、という語が、今どこに位置しているのか。
誰も正確には把握していなかった。
一方、月影はこの通達を、夜になってから目にした。
画面に浮かぶ文章を読み終えたとき、彼女は笑いそうになる。
――ああ、ついにここまで来た。
意味を避ける。
理由を曖昧にする。
それは、選ばないことを制度化する一歩だ。
月影は、過去に「未選択」を渡した瞬間を思い出す。
あのとき、自分は迷っていた。
誰かに決めてほしかったのかもしれない。
だが今は違う。
彼は新しい案件を開き、
説明欄を、最初から空白のままにする。
意味を書かない。
理由も書かない。
選択すら、明示しない。
それでも提出は可能だった。
システムは、何も警告を出さない。
月影は送信ボタンを押す。
選ばなかったことだけが、静かに登録される。