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本部は、「理念」を書こうとしていた。
正確には、書こうとしているという事実だけが先にあり、
何を書くのかは、誰も知らなかった。
会議室のホワイトボードには、すでに消された跡が幾重にも重なっている。
マーカーのかすれた線が、言葉にならなかった言葉の残骸のようだった。
「理念というのは……」
誰かが口を開き、すぐに言葉を止める。
「理念は、方向性を示すものですよね」 「ただし、判断基準にはならない形で」 「しかし、象徴性は必要です」
全員がうなずく。
だが、誰も書き始めない。
意味、という語は使えない。
意図、も避けたほうがいい。
理由は論外だ。
結果として残るのは、
「望ましい」「適切な」「健全な」といった、輪郭のない形容詞だけだった。
「健全性……は、どうします?」
一人が恐る恐る尋ねる。
「うーん」 「誤解を招きやすいですね」 「数値化できない概念ですし」
健全、という言葉は、空中で宙づりになる。
誰も否定しないが、誰も掴まない。
結局、第一次草稿にはこう書かれた。
> 本制度は、利用者および関係者にとって
> 望ましい状態の維持を目的とし、
> 社会的要請との整合性を重視する。
それを読んだ瞬間、沈黙が落ちた。
「……何も言っていませんね」
誰かが言い、誰も反論しなかった。
「目的、って書いてますけど」 「その中身が空です」 「でも、空でないと通らない」
全員が理解していた。
中身を書いた瞬間、それは「意味」になる。
だから書けない。
だが書かなければ、理念にならない。
「では、もう少し抽象度を上げましょうか」 「上げる、というより……逃がす感じで」
第二稿は、さらに軽くなった。
> 本制度は、多様な状況に対応可能な柔軟性を持ち、
> 関係各所との円滑な運用を目指す。
会議室の空気が、ゆっくりと冷える。
「これは……」 「何にでも当てはまりますね」 「そして、何も守らない」
だが、その「何も守らない」感じが、
今の本部にとっては、もっとも安全だった。
誰かが、ふと気づいたように言う。
「これ、現場はどう受け取るんでしょう」
その問いに、即答は返らない。
現場、という言葉もまた、曖昧だった。
花子は、その頃、同じ文書を端末で眺めていた。
理念文案。
第一次草稿。
コメント欄には、「ご意見があれば記入してください」とある。
花子は、何も書かない。
書ける言葉がないわけではない。
ただ、書いたところで、それが使われないことを知っている。
彼女は、ふと、自分が提出した以前の文書を思い出す。
意味を削り、理由を消し、
それでも通過した、あの感触。
――あれは、正しかったのか。
問いは浮かぶ。
だが、答えを探さない。
探した瞬間、彼女もまた「意味」に触れてしまうからだ。
一方、本部では、第三稿の検討に入っていた。
「理念、という言葉自体を使わないのはどうでしょう」 「運用方針、とか」 「指針、とか」
言い換えは進む。
中身は、ますます薄くなる。
最終的に決定した文書は、
理念でも、方針でも、指針でもない、
ただの「説明文」だった。
拍手は起きない。
達成感もない。
だが、誰も反対しなかった。
反対理由を言語化できないからだ。
会議の終わり、議長がまとめる。
「これでいきましょう。
特に問題は、起きていませんから」
その一言で、すべてが片づく。
問題が起きていない。
それが、最大の理由だった。
その夜、月影は、提出済みの案件一覧を眺めていた。
自分が「選ばなかった」案件。
説明の空白。
理由の欠如。
それらが、何事もなかったかのように処理されていく。
月影は、静かに理解する。
――もう、意味を渡す必要はない。
――選ばないこと自体が、十分に伝わっている。
彼女は端末を閉じる。
次に動くのは、本部ではない。
現場でもない。
「利用者」だ。