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「拒む。……っていったいどういう意味ですか」
意図せずわたしの声はふるえた。課長のマンションではなく、この場所を選んだのは――人目につくから。冷静に話し合えるから。その効果を期待してのことだったがわたしのほうが……頭に血がのぼり始めている。
冷静に。冷静に。と思えば思うほど課長との距離が広がる。何故なら彼は見たこともないような冷たい笑みを浮かべている。この状況で、何故、笑えるのか。理解出来ない。
すると、課長が機先を制した。「きみ、昨日、言ったじゃない。与えられた愛を基に、成長したい。この潤沢なる愛を、誰かに分け与えることの出来る人間になりたい……って。
これのどこがそうなの? きみは――ぼくを拒否している」
『ぼく』と来た。この表現こそが、課長がわたしを拒んでいる証拠だ。「拒否しているのは課長じゃないですか。課長、『ぼく』って言うときは、シリアスな話をするときか、他人との距離を開くときのサインなんですよ。気づいていないんですか?」
「好きなものがあって、好きなものに金を遣う。それのどこが悪いんだ?」彼はわたしの発言を無視した。「きみも喜んでいたじゃないか。……ああ、質問に答えるとね。ぼくは株をやっている。小さな頃から、金をこつこつ貯めている。それを元手に、それなりの金を稼いだ。……だから、一介の課長職に過ぎないぼくであっても、湯水のように金を遣えるんだ。驚いた?」
――なにも、そんな言い方をしなくっても……。悔しさに唇を噛む。乗降者数の多い駅だ。通り過ぎる中年男性が、若者の痴話げんかに興味ありげな目線をよこしてくる。目線でも――自分は間違っているのだと、責められている気がした。
それでも、わたしは。
「疑問なんですけど。今日って、特別なんですか? わたしを喜ばせるために特別に散財したんですか? それとも普段は……普段から、こんなお金の遣い方をしているんですか」
「『散財』って言い方に悪意を感じるなあ……」課長は煙草を取り出すが、わたしは、ここ、禁煙ですから、と言葉で止める。あからさまに不快そうな顔をした課長は、
「なにが、言いたいの。きみさ。おれと一緒に暮らすからって、いちいち、金のことに口を出さないでくれる?」
がん、と頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を食らった。……そんな……。
「……わたし、なにか間違ったことを言ってます? 今日だけでいくら遣ったと思っているんです。わたしの一ヶ月の生活費をゆうに超える金額……ですよ?
わたしは、課長が、怖いです。
課長といたら、どんどん感覚が麻痺してきて……お金の大切さを考えられない人間になってしまう。それが、怖い……」
わたしは胸元を掻きよせたのだが、課長は、そんなわたしに向かって距離を詰めることもなく、
「――じゃあ、別れる?」
とんでもない台詞を口にした。頭が真っ白になった。なにを言っているのだろうこのひとは……。酷い。酷い。酷すぎる……!
「た、楽しいひとときを過ごしていたのに、どうしてそんなことが言えるんです! 課長の馬鹿!」
「……楽しいひとときを台無しにしたのはきみのほうだよ。莉子……」どこまでも冷静さを貫く課長がこのときばかりは憎らしい。「金、金、金って。金なんて、愛情を表現する一形態に過ぎないんだよ。稼いで、遣う。日本経済に貢献する。それのなにが悪い? この底冷えの不景気が続く日本経済を、おれたちのような人間が支えているんだよ? ――それとも。
収支一覧でも見せればきみは、納得する? ……でもね、莉子。
きっときみは見ないほうがいい。きみのほうこそ、金の亡者になりかねない。おれの顔が札束に見えちまうかもしれないよ……」
「わたし、帰ります。……帰って頭を冷やします。これ以上なにを話しても平行線だと思いますし、お互い……冷静になって考える必要があると思うんです……」
「おれは冷静だよ莉子。……知ってる? そういうね、頭を冷やしたがる人間に限って自分の思い通りにならないと激高するんだよ。
きみは、おれがなにをすれば納得する? 投資を止めて、貧乏臭い生活にでも戻ればいいわけ?
そんでも、日々生きていく金に困りゃあ、働きに出ろ、もっと稼ぎのいい男と結婚すればよかった。後悔するに違いないんだよ。
金は、金でしかないけれど、ないと生きていけないものだ。金はいくらあっても困らない。そういうものだよ」
「……せっかく買って頂いたものですので、ください。大切に使います……」これを言う自分が惨めだった。結局わたし自身が金の力に負けたのだ。「せっかく課長がわたしのために買ってくれたものですから、大切に使わせて頂きます」
「そっか。物には罪がないもんね。はいどうぞ」
紙袋を差し出され、わたしは絶望的な気分になった。……課長、わたしを引き留めないんだ。止めることを期待する自分に嫌気がさす。
「タクシー呼ぼうか?」と酷薄な笑みを浮かべる課長。「それとも、……お金の価値を知る、一庶民たるきみは、タクシーなんか使わないか? おれの金でこれ以上世話になることは、屈辱だもんなあ」
「どうしてそんな酷いことが言えるんです」とたくさんの紙袋を肩にかけるわたし。こんなにも……たくさんのプレゼントをして貰った幸せな事実こそが、わたしの胸を痛めつける。「課長、わたしのこと、本当に好きなんですか? あなたが愛してるのは、もしかしたらわたしではなく――。
自分の思い通りに動いてくれる人形――なのではないですか」
はっ、と課長は目を開いた。だがその驚愕を瞬時に消し、笑みを浮かべると、
「さよなら莉子」と手を挙げる。「会社の連中にはバレるといろいろと面倒くさいから、表面上は、続いてるってことにしておいて」
「分かりました課長」わたしは静かに答えた。「それじゃあ、……ありがとうございました。課長が、いろいろとよくしてくれたこと……決してわたしは忘れません……」
「うん。……ああ、荷物はそのうち送るから。住所携帯に残ってるからそっちに送るよ。きみの部屋に残るおれの荷物は、捨ててくれて構わない」
「そうですか。分かりました。さよなら……課長」
「おやすみ莉子」
くるりと背を向け、ひとり――歩き出す。
いったいなにを間違えてこうなってしまったのか。幸せな連休――あと二日。あと二日間も、課長と、幸せを頭っから浴びるような、幸せな毎日が待っていたはず――何故、こうなった。
涙すら出なかった。虚無だった。往生際の悪いわたしは、課長が追いかけてくることを期待していたのに――待て、莉子! おれをひとりにするな! おれはきみを愛している……! あの、艶やかな、子宮をふるわせることの出来る魅力的な声で。力いっぱい、一目を憚らず、わたしへの愛を告白してくれるはずなのに――違った。
こころが、氷漬けになった。馬鹿だ。せっかく手に入れた幸せをみすみす逃してしまうなんて……セレブとつき合うってこういうことなのかな。どうやら巷の女性向け小説では人気の設定だけれど。お金の価値観が合わないとうまくいかない――結局わたしは、課長には分不相応な女だったのだ。愛される資格などない。
夏の余韻を残す割りには冷えて感じられるホームにて、大荷物を抱えたわたしは、凍てつくこころを持て余していた。いまは――虚無。絶望。それらに支配され、なにも考えられない――。
ホームに電車が滑り込む。飛び込み自殺をする人間の心境が、いまなら分かる。あれに飛び込めば――この懊悩から解放される。自死という選択肢が、わたしに手招きをしているかに見えた。
ぶんぶんと首を振る。いや、そんなことは、あってはならない。課長はああ言ったけれど、本当はわたしのこと……。
わたしのこと?
好きなら、止めるよね。謝るよね。自分から追いかけて、やっぱり好きだー、なんて絶叫してこのホームに現れるなんて展開、神様は用意していないのかな。わたしはきょろきょろとホームを見回した。
神様なんかどこにもいなかった。電車に乗ると、あたたかい人間たちの空気に出迎えられ、たまらず、涙がこぼれた。――課長の、肌も。声も。抱き締めたときのぬくもりも……まだ、このこころを支配しているというのに。あのひとという太陽に照らされる時間が、至上の幸せだった。それを、自ら手放すなんて……本当に、馬鹿な女。
往生際悪く、駅に着いても、自宅マンションに着いても、課長が追いかけてくれやしないか――あさましい期待をしてしまう。そのぬくもりを振りほどいたのは自分のほうなのに。
マンションの鍵を開け、どさどさと荷物を玄関に置き、洗面台に向かうと、この不幸な現実を知らない、青い歯ブラシがわたしに微笑みかけていた。
洗面台に手をつき、膝から崩れ落ちるとわたしは号泣した。泣いても泣いても止まらない。そしてこの滂沱を受け止めるあのひとはもうここにいないのだと思うと……悲しみで胸を切り付けられた。
レイプされた後でさえ、こんなに辛くはなかった。一旦ぬくもりを知ったこの肌は、残酷なまでに最愛のあのひとを求めていた。
* * *
チャイムが鳴った。結局わたしは……化粧も落とさず、風呂にも入らず。ぼろっぼろの状態で泣いて泣いて……めちゃめちゃに泣いているうちに、いつの間にか寝ていた。
失恋すると、眠れないというよね。なのに眠ったわたし……。結局わたしの課長への想いはその程度だということか。
「はーい。いま開けます」玄関に向かう途中時計を見た。この時間に新聞の勧誘など来るはずもあるまい。なにも考えず反射的にドアを開くと、そこには……。
「おはよう」
課長が立っていた。トップスは昨日買ったばかりのミント色のTシャツ。課長とおそろだな、と思って嬉しかったから記憶している。
「……化粧落とさずに寝たの?」と微笑する課長。「目が、パンダになってる……。ま、そんな莉子も可愛いんだけどね」
「……どうしたんですか」課長が来てくれて嬉しいのに、可愛げのない態度を取ってしまう。「その荷物……どこか旅行に出かけるんですか」
「きみと、おれとが」
……? 言っている意味が、分からない。すると課長は、
「言ってなかったけど。ホテルを予約してあるんだ。
きみの気持ちはよく分かった。ちょっとでもぼくのことが好きなら……莉子。
最後の、思い出作りに付き合って欲しい」
嬉しさと同時に去来するのは悲しみだった。――ああ。このひとはもう、わたしのいない未来を歩き始めている。このひとの未来予想図にもう、わたしはいない……。
自分で選んだ道なのに。悲しくて涙がこぼれた。でも――課長のその手は、もう、わたしの頬をやさしく拭うことなどしない。
涙を手の甲で拭い、わたしは答えた。「分かりました。いま、準備してきます……」
*