急を知らせるサイレンの音が聞こえる。
ああ、戦わなければ。いや、だが。違うだろう。もう、戦争は終わった。俺にはもう何も。
ーー何も戦って守らねばらなないものは残っていない。
鳴っていたのは電話だった。
時計をみるともう17時を回っていて、本を読みながらソファで眠ってしまっていたことに気が付いた。最近は気づくと眠ってしまうことが増えた。
国を失ったあとの神聖ローマも眠っていることが多かったことをふと思い出す。
ソファからのろのろと立ち上がり、起き抜けのぼんやりとした頭で受話器を取る。
「兄さん」
「どうした、ルッツ。家にかけなくても、俺も携帯持ってんだろうが」
「いや、それはそうだが…よかった。兄さんは、家にちゃんといるんだな」
「何言ってんだよ、俺はいつも家にいるだろうが」
「そう…だな、ああ、兄さん」
誤魔化すように続けられた電話の内容はいつも通りで特に変わったこともなかった。
今日はフェリシアーノの家に泊まることになったからベルリッツ達の散歩を頼む、あと、適当なところで読書は切り上げてきちんと食事をとるように、と口うるさい親のように一息で言い切った。
一晩や二晩くらい大したことはないのに、本当に心配性で困ったもんだ。まあ、そういうところもかわいいんだが。
急に電話口が静かになって、ザザーっという波の音だけが聞こえる。どうやら弟達は海にいるようだ。
「そんなに心配すんなよ。もう切るぜ?」
返事はない。だが、この沈黙は、何かを考えている沈黙だ。少し口下手なところがある弟は時折何か大事なことを言おうとするとき、言葉を探して黙り込んでしまうことがある。
「…兄さん」
ようやく絞り出した言葉は本当に短いもので、いささか拍子抜けしたが、先を続けるように促す。
「兄さん…俺は海を見つけた。やっと、自分の探していた海を見つけることが出来たんだ。そうと気づかなかっただけで、ずっと側にあったんだ」
「お前」
「本当は途中から気が付いていたのかもしれない。ただそれが自分の感情なのかがわからないのが怖くて認められなかっただけだ。今ならわかるんだ。俺とフェリシアーノはずっと引き合っていった。すっと互いのことを探していたんだとさっきわかった。始めは、俺の想いではなかったのかもしれない。だが、今は紛れもなく俺の想いだ。俺は、神聖ローマとは違う人間なのだから」
「…」
何があったのかはわからないが、弟は知ったのだ。彼の体が元々、誰のものであったのかを。
そして、彼の口ぶりから察するに、憎らしいあの男が危惧していたように、やはり彼はずっと前に気が付いていた。
言葉にできない様々な思いが溢れてきて、短い言葉を紡ぐのが精いっぱいだった。
「お前、いつから」
口が上手く回らない。
そして、ようやく、理解した。生まれたばかりの弟が、「この海ではない」と言ったのは。彼が探していた海が見つからなかったのは。
ーーーー神聖ローマが探していた海はフェリシアーノのことだった。彼の言葉が今更のようによみがえってくる。
『そうだ。消えてしまったんだ。いや、お前には見えるだろう。だが俺には見えない…違うな、見ることが許されないんだ』
消え行く国が今まさに力強く成長しようとする国をその破滅の運命に巻き込むことは許されない。
己の状況を知ればフェリシアーノは自分の国のことを擲ってでも彼を助けようとしたことだろう。
そうしたくはなかったから、彼は自分の状態を隠そうとした。いつまでも治らない傷を隠す今の自分と同じように。
『そうだな。今はわからないだろう。だが、お前もいつかわかるかもしれない。ただそうなったときにはきっともうお前は手遅れになっている』
やっと痛いほど理解した。だが彼は自分が理解することを恐らく望んではいなかった。
何度も何度も俺のようにはなるなと釘を刺していた彼であれば。
「兄さん?」
長く続いた沈黙を弟の慮るような小さな声が破る。
「…今まで悪かったな」
お前に言うべきことを何一つ言わなかった。それがお前を苦しめているかもしれないと、考えることもしようとしなかった。許してくれ。そんな言葉は一言もうまく口からでてこないのが悔しくてたまらない。
「何がだ」
答える弟の声は微かに笑っていた。
弟は決して、自分たちが神聖ローマのことを隠していたことを責めようとしなかった。その理由を聞くこともせず、ただこちらの言葉を待っている。
本当に、強く育った。もう、傍で見ていなくても十分に、自分以上に遠くまで歩いて行けるのだろう。
もう、十分だろう。彼が探していた海も、弟に遺すものも、自分を引き留めていた心残りはもうなにもない。
「ああ、満足だ」
小さく漏れた独り言に、少し躊躇うように息を吸う音がして、弟は再び口を開いた。
「今度は兄さんも行こう。フェリシアーノと3人で海に行こう」
「ヴェスト」
「俺は兄さんの海が見たい…兄さんが生まれた東の海を兄さんとまた見たいんだ。俺にとっての初めての海は兄さんの見せてくれた海だった。海と聞いて真っ先に思い浮かぶのはあの海なんだ」
そんなことを言われたら、返せる言葉は一つしかないだろう。
「…ああ、行こうぜ、約束だ」
「…俺の探していた海はこんなに近くに二つもあったんだな。あまりにも近すぎて気づくことができなかった。だが、兄さんが東に行ってしまった頃は、何度もわけもなくいろいろな海を見に行った。
「今思えば俺があの時探していた海はただ一つだけだった。兄さんがいなければ俺は今ここにはいない。貴方がすべてを俺に注いでくれたから、俺は成長することが出来た。でも貴方から学びたいことはまだたくさんあるんだ…だからあの海に行こう兄さん。海が消えてしまわないように。何十年後も何百年後も俺は貴方と海が見たい」
返事を待つこともなく、ではな、という声で電話は切れていた。波を思わせる小さなぷーっという音だけが聞こえる。
冷え切った床に座りこんで頭を壁にもたせかける。
「なんだよ、全部、知ってたってことか」
ずっと隠していたつもりだった。もう何も教えることがないと思って勝手に満足して消えていくつもりだった。
だが、弟はすべて気づいていたようだ。電話の切れる間際の言葉は「消えるな」と言っているのと同じだった。
手にまいた包帯がじわりと滲んでいく。傷口に沁みるそれはきっと海のように塩辛いものだろう。
日が落ちて暗くなってきた部屋の中、いるはずのない彼に呟く。
「お前の欲しがってた海がなんだったのか、今更分かるなんてな。あん時の俺には想像もつかなかった。お前の言った通り、俺はもう手遅れなのかもしれねぇ」
あの場所にはもう、何もない。民も町も失われ、自分の国があったのだという印はとっくに失われている。
今より澄んでもっと冷たかったあの海は、それほど美しいというほどのものではなかった。それでも、まだ国を持たなかった頃、何度もあの海の前に立って、その向こうにあるだろう世界を思い描いた。
あの海はいつか、もっと広い世界を手に入れてやるんだと決意を誓った始まりの場所だった。
国を持つ前は、貪欲に何でも欲しいものは力の限りに奪って回ったというのに。
いつからか、持っているもので満足して、動くことをやめてしまった。
考えてみれば。
「俺様らしく…ねぇよな」
勝手に満足して、消えていこうとしたなどと。
「親父や、あいつが聞いたら笑うよな」
欲しいものは、何だって力づくで奪い取るんだろう。
そう、どんなに生き汚くとも、這いつくばって、土に塗れようと。その土を喰って立ち上がって来た。
生きてやる。簡単に消えてなどやるものか。
何百年だろうと、何千年だろうと。あの海が干上がるまで、生きてやる。
「…悪ィな、まだそっちには行けそうにもねぇ。…だから、見ててくれ」
風が肩に触れるように通り抜け、ほんの一瞬わずかに頭を撫でられたように感じた。
頭を撫でられることなど、とうに忘れたはずなのに、その感触は痛いほどに懐かしかった。
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