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第1話「放課後」
答案用紙が配られる。
教室の空気が、少しだけざわつく。
ため息と、小さな笑い声。
速水ゆかりは、机の上に置かれた紙を裏返した。
赤。
見慣れた数字に、少しだけ眉を下げる。
「またかぁ…」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
内容はほとんど分からなかった。
途中までは頑張った気がするけど、途中からは空白ばかりだ。
ぱら、と紙をめくる。
その隅に、短い文字が書かれていた。
放課後、補習。残るように。
少しだけ考えてから、肩を落とす。
「やだなぁ…」
隣の席の子は、もう違う話をしている。
誰もそんなこと言っていない。
まあ、赤点だし。
仕方ないか、と軽く納得する。
チャイムが鳴る。
帰り支度の音が一斉に広がる。
ゆかりも鞄にノートを詰めて、立ち上がった。
補習は、まぁいっか。
そう思って、教室を出る。
廊下はまだ明るくて、少しだけ騒がしい。
そのまま階段に向かおうとしたとき。
「速水さん」
後ろから声がした。
ゆかりは足を止めて、振り返る。
水瀬たつきが、立っていた。
「帰るの?」
穏やかな声だった。
怒っている感じは、全くない。
「あ、えっと…」
少しだけ言葉に詰まる。
答案の隅の文字が、頭に浮かぶ。
「補習、書いてたよね」
水瀬はそう言って、ゆかりの持っている紙を軽く指した。
「忘れてた?」
責めるような言い方じゃない。
ただ確認しているだけの、静かな声。
ゆかりは苦笑いを浮かべた。
「ちょっとだけ」
「そっか」
それだけ言って、水瀬は軽く頷く。
「じゃあ、行こうか」
教室に戻ると、もう誰もいなかった。
さっきまでの音が嘘みたいに、静かだった。
窓から入る光が、少しだけ長く伸びている。
「そこ、座って」
水瀬が指したのは、ゆかりの席。
ゆかりは素直に座る。
鞄は机の横に置いた。
「そんなに難しくないよ」
水瀬は答案を手に取って、ゆっくり開く。
「ちょっと順番が分からなくなってるだけ」
そう言いながら、問題を指でなぞる。
ゆかりはその動きをぼんやり見ていた。
説明は、ちゃんと分かる。
さっきより、少しだけ。
「ここ、なんでこうなるか分かる?」
聞かれて、少し考える。
分からないけど、さっき聞いたばかりの言葉を思い出す。
「…こう、なるから?」
曖昧に答えると、水瀬は小さく笑った。
「惜しい」
否定じゃなかった。
「でも、近いよ」
その一言で、少しだけ安心する。
時間は、思ったよりゆっくり流れていた。
外の音はほとんど聞こえない。
教室は静かで、少しだけ落ち着く。
「どう?」
水瀬がペンを置いて聞く。
ゆかりは、答案を見ながら答える。
「さっきより、分かるかも」
「よかった」
それだけ言って、水瀬は椅子に軽く寄りかかる。
無理に続けようとはしない。
急かす感じもない。
ゆかりは、もう一度問題を見る。
さっきより、少しだけ読める気がする。
「ね、速水さん」
不意に呼ばれる。
「はい?」
顔を上げると、水瀬と目が合う。
「この時間、嫌い?」
ゆかりは少しだけ考える。
さっきまでは嫌だった。
でも今は、そんなに悪くない。
「…そんなに、嫌じゃないです」
正直に答える。
水瀬は少しだけ目を細めた。
「そっか」
それだけ。
窓の外は、少し暗くなっていた。
教室の中は、変わらず静かだった。
ゆかりは、もう一度答案に目を落とす。
ペンを持つ。
さっきより、少しだけ書ける気がした。
(第1話 終)