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「あ、ビールなくなっちゃった……」
桜那は手元のビールがなくなっていることに気付き、ぽつんと呟いた。宏章も手元に視線を移すと、いつの間にかビールが空になっていた。
「宏章からもらったお酒、飲んじゃおっかな」
桜那はするりと椅子から降りて立ち上がった。
「宏章のも空でしょ?」
桜那はそう言うと、宏章の手からすっと缶を抜いた。グラスに氷を入れて日本酒を注ぎ、はいと笑顔で宏章に手渡した。
桜那にとっては思い出したくもない辛い話をしたばかりなのに、その笑顔がとても澄んでいて宏章は切なくなった。
桜那はテーブルに腰掛け、頬杖をついて日本酒を一口飲むと、あ!美味しい!と目を輝かせた。
「私、これ好きだな……」
グラスを持ち上げ、カランと音を立てる。
「ありがとう、宏章」
桜那が満面の笑みでお礼を言うと、それにつられて、宏章は少し困ったような笑みを浮かべた。
桜那はふっと小さく一息つくと、「やっと笑ってくれた」と言った。宏章はハッとして「ごめん……」と静かに呟いた。
桜那はふと日本酒の名前が気になって、ラベルをじっと見つめた。
「私が桜那だからこれ選んでくれたの?」
「え?あぁうん、なんとなく目に留まって……」
「へぇ……」
桜那は少し間を置いた後、宏章に打ち明けた。
「私、本名『さくら』って言うの。平仮名でさくら」
「え?そうなの?」
宏章は桜那が唐突に本名を打ち明けたので驚いた。
「うん、岡田さくらって言うんだ」
「……いい名前だね。俺、花は桜が一番好きだよ」
桜那は心臓の奥が小さく跳ねた。
まるで自分の事を好きだと言われているようで、胸が熱くなった。
「名前、本名で呼んだ方がいい?」
宏章は少し遠慮がちに、桜那へ尋ねた。
桜那は少し考えた後、「桜那でいいよ。今さら本名で呼ぶ人もいないし。それにこの芸名気に入ってるんだ」と言った。
宏章は桜那の本名を聞いて、ふと桜那の家族の事が気になった。思い返せば、桜那の口から今まで家族の話を聞いたことがなかった。
宏章のアパートで飲んでいた時、桜那が一度だけ兄の話をした事があった。その時に一瞬だけ寂しそうな表情をしたのを思い出した。親であれば、娘がAVに出演すると言ったら大反対するだろう。
宏章はずっと気になっていた事を、もう一つ桜那へぶつけた。
「桜那、もう一つ聞いてもいい?嫌だったら無理に答えなくていいから」
「ううん、平気だよ。何?」
「AV出演は、親は反対しなかったの?」
宏章の質問に、桜那は特に驚きもせずふっと小さく笑った。
「反対したに決まってるじゃない。でも私がもう決めた事だからって譲らなかったの。そしたら勘当されちゃって……、二度と敷居を跨ぐなって言われちゃった」
「どうしてそこまで……?」
宏章は桜那が親に勘当されてまで、自分の意思を通した事を不思議に思った。
「うちの両親てね、すごく厳しくてかなり世間体を気にする人達で。お父さんが大きい会社の役員だったんだけど、仕事が忙しくてほとんど家にいなくて。でも家に帰ってくる時はいつも不機嫌で……、お母さんはそんなお父さんの顔色をいつも伺ってたの。お父さんが機嫌悪くなるからちゃんとして!って常にお母さんに言われてて……。お父さんが帰ってきて、家の中が険悪な雰囲気になると、お兄ちゃんがいつも外へ遊びに行こうって連れ出してくれてたな……」
桜那は幼い頃の記憶が蘇った。
顔を顰めて不機嫌そうに黙る父と、その横で父の顔色を伺いオロオロする母。兄はいつも子どもながらに空気を読んで、幼い桜那を外へと連れ出した。ひとしきり公園で二人で遊び、帰る時はいつも悲しそうな顔をしていた。
桜那は未だに、兄のその表情が忘れられなかった。
「お父さんが世間体を気にするから、お母さんも子育てのプレッシャーをかなり感じてたみたいで……、子どもの頃はたくさん習い事もさせられてたの。どれもそつなく出来たんだけど、どれも一番になった事がなくて……。頑張ってピアノのコンクールで二番になった時も、次は一番になろうねって。褒められた事なんて、一度もなかったな」
桜那がしみじみと幼少期を語るのを聞いて、宏章は自分の子どもの頃を思い返していた。
小学校の運動会で二位だった時の事。
「やった!俺二位だったよ!」
宏章は無邪気に喜んで両親の元へ駆け寄る。
父は「やったな宏章!頑張ったな!」と大笑いし、母は「今日の夕飯は宏章の好物にしようか」と優しく微笑む。自分をありのままに受け入れてくれる両親。
自分にとってそれは当たり前の事で、その事に気付きもしなかった。
どんなに頑張っても認めてもらえない……桜那はただ一言、両親に頑張ったねと言ってもらいたかっただけなんだろう。そう思ったら宏章は切なく、胸の奥が苦しくなった。
2
「お母さんはいつも、お兄ちゃんと私にたくさん勉強して、いい大学に入っていい所に就職してねって言ってたの。そうすれば幸せになれるからって。私にはさらに高収入の人といい結婚してねって。子どもの頃はお母さんの言葉になんの疑問も持たなかったんだけど……。でも大きくなるにつれて、だんだんとそれが息苦しくなってきて……。お兄ちゃんが勉強も出来て優秀だったから余計にね。私はどんなに頑張っても、お兄ちゃん程優秀にはなれなかったし。習い事たくさんしてたから、友達と遊ぶ時間もなくて……。そのせいか友達との付き合い方も分からないし、学校でも完全に浮いてて。家にも学校にも居場所なんてなかったよ」
桜那は過去を思い出しながら、虚ろな表情を浮かべて日本酒を口にした。宏章は胸が詰まり、俯いてただ静かに桜那の話に耳を傾けていた。
そんな宏章の様子に、桜那はハッとして「やだなぁ、そんな暗い顔しないでよ」と、笑顔を作った。
「辛かったんだろ。無理して笑うなよ」
宏章は真剣な眼差しで、桜那をまっすぐ見つめた。
桜那は心を見透かされて、一瞬目を逸らした。だが宏章の視線が自分を捉えて離さないので、どうしていいか分からず泣きそうになった。心を落ち着けようと、小さく深呼吸してから再び宏章へと向き直った。
「それまで習い事たくさんしてたから、家でほとんどテレビって見た事なかったんだけど。やっぱ学校行くとみんな流行りのドラマとかアイドルの話するじゃない?それで気になって、ちょっと歌番組見てみたの。その時初めて流行ってたバンドとかアイドル見て、これだ!って思って、もう夢中になっちゃって。お母さんはそういうのあんまり良しとしなかったんだけど……。やっぱり年頃だから興味あるだろうって、成績落とさなければって言って見せてくれて。お兄ちゃんなんてそれでロックに目覚めちゃってね」
桜那は楽しそうに、クスクス笑った。
「そしたらだんだんと私もこんな風になりたい!って思っちゃって。中学生になってから親に内緒で原宿とか行くようになったの。そしたら結構スカウトとかされて、どんどんその気になっちゃってさ。そう思ったら、なんか急に勉強するの馬鹿らしくなっちゃって……。一応高校は進学校に進んだけど、反抗期も相まってだんだん学校サボるようになったの。学校サボって渋谷だかにいた時に、今の事務所にスカウトされたの。もちろん両親大反対!でも私も譲らなくて、事務所入り認めてもらえないなら高校辞める!死んでやる!って突っぱねてさ。ちゃんと勉強して、高校だけは卒業するって条件で渋々認めてもらったの。で、その後はさっき話したようにあれよあれよという間にAVの話になったわけ」
桜那はまた日本酒を口にしてから俯き、両手でぎゅっとグラスを握った。
「私は……、もちろん夢を絶たれて悔しかったっていうのもあるけど……。もしかしたら、両親にとってのいい娘っていうのをぶち壊してやりたかったのかも……。その当時ね、ちょうどお父さんの会社が不祥事起こしてかなり経営も傾いてて……。違約金払ってなんて、とても言えなかったし。何より事務所入りする時あんなに啖呵切った手前、絶対に親には頼りたくなかったの」
「でも……」と言いかけて、桜那は涙目になった。
「私が最後に実家へ帰った時、お兄ちゃんは部屋にこもって一切私の顔を見ようとしなくて……。お兄ちゃんはずっと、自分が我慢する事で家族の均衡を保っていたから、それをぶち壊した私の事許せなかったんだと思う……」
桜那は目を閉じて拳をぐっと握り、キッとして目を開いた。
「でもだからこそ……、絶対この世界でトップになって、またのし上がってやるって決めたの。三年でトップを取る。そして今手にしてるこの暮らしを維持してやるんだ」
桜那の決意は固く、その目はまるで激しく燃える炎が光を放つ様だった。子どもの頃から周囲の期待を背負って、自分にプレッシャーをかけて。
桜那は全てを曝け出して賞賛や羨望、侮蔑や嘲笑、そして男たちの欲望をその小さな体で受け止めてきた。たった一人で……。
宏章はたとえ自分には何も出来なくても、せめて側にいて、ただ抱きしめてやりたいと感じていた。