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第一話:現世の果て、赤い着物の女狐(完全版)
止まない雨だった。
ワイパーがどれだけ激しく往復しても、フロントガラスに張り付く絶望は拭えない。都会の冷たいアスファルトの匂いも、耳の奥にこびりついた上司の罵声も、何もかもを振り切るように、僕はあてもなく車を走らせていた。
気づけば、周囲の景色は一変していた。
街灯ひとつない山道。ヘッドライトの光すら吸い込まれるような、不自然なほどに重く深い霧。
不意にハンドルを切った先で、道は唐突に途絶えた。
――いや、そこには見たこともないほど古びた、しかし威圧感すら覚える重厚な佇まいの門が、口を開けて待っていたのだ。
「……旅館、か?」
看板には掠れた文字で『朧月館(おぼろづきかん)』とある。
エンジンを止め、車から降りると、不思議なことに雨音はぴたりと止んでいた。代わりに、濡れた草木の匂いをかき消すような、甘く重厚な沈香の香りが、どこからともなく漂ってくる。
玄関先に、一人の女が立っていた。
燃えるような緋色の着物を、着崩したように気だるげに纏っている。手には、銀細工の施された長い煙管。
透き通るような白い肌と、切れ長の瞳。その瞳が、僕の姿を捉えた瞬間に細められた。それは、獲物を見つけた獣のそれによく似ていた。
「……おや。随分と久しぶりに、『道』が見える人間が迷い込んだものじゃのう」
女の声は、鈴を転がすように澄んでいながら、耳の奥に直接響くような、抗いがたい熱を孕んでいた。
彼女がゆらりと一歩踏み出す。
その拍子に、着物の裾から、ふわりと大きく、そして神々しいほどに美しい白い尾が覗いた。
「な、……え……?」
思考が停止する。現実離れした光景に後ずさろうとしたが、足が動かない。
彼女はふう、と煙管の煙を僕の顔に吹きかけた。
紫煙が肺に入り込んだ瞬間、全身の力が抜け、膝から崩れ落ちる。意識が熱く、甘く、痺れ始めていく。
「案ずるな、迷い子よ。ここは現世の理が届かぬ場所。そして妾はこの宿の女将、玉藻と申す者」
玉藻が僕の前に跪き、冷たく細い指先で僕の顎を掬い上げた。
彼女の瞳が金色に妖しく輝く。その背後で、宿の提灯がひとつ、またひとつと青い炎を灯し、闇の中に隠れていた旅館の全貌を浮かび上がらせていく。
「お主……実に良い香りがする。枯れ果てたこの宿に、これほど濃い霊力を持った種を抱えた男が舞い込むとは。……ふふ、これは神の引き合わせかえ?」
「……種……? 何を、言っている……」
掠れた声で問い返そうとした唇を、彼女の柔らかな人差し指が塞いだ。
玉藻は僕の耳元に顔を寄せ、濡れた舌先で耳たぶをなぞる。背筋に電流のような震えが走った。
「逃がしはせぬぞ。お主は今日、この場所で妾に拾われたのじゃ。……お主のその溢れんばかりの生命力、この宿のために使い果たして貰わねばのう」
彼女の白い尾が、僕の足首に、腰に、そして胸元へと、愛撫するように這い上がってくる。
それは絹のように滑らかで、同時に逃れられない執着を感じさせた。
「おやおや、情けない。たかがこれしきで、お主の『種』はこれほどまでに熱を帯びて……。現世では、随分と窮屈な思いをしておったのじゃな?」
玉藻はクスクスと艶然(えんぜん)に笑い、僕の胸元に手を差し入れた。
その手のひらから伝わる体温は、人間よりも少しだけ高い。
「さあ、案内しよう。お主が二度と現世を思い出すことのない、夢の極楽へと。もう帰るべき場所など、どこにもありはせぬぞ」
立ち上がった彼女に導かれるように、僕は吸い込まれるように宿の奥へと足を踏み入れた。
朱塗りの廊下を歩くたび、背後の門が霧の中に消えていくのが分かった。
もう、戻れない。
だが、僕の心は恐怖よりも、彼女の尾に抱かれ、すべてを委ねたいという淫らな渇望に支配されていた。
「……まずはその泥に汚れた服を脱ぎ、妾が直々に清めて進ぜよう。案ずるな、妾の愛撫は現世の女とは一味違うぞ?」
玉藻の濡れた瞳が、僕のすべてを暴くように微笑んでいた。