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下がり藤。
藤堂子爵家の、ご紋だった。
私は便箋を光にかざしたまま、しばらく息をするのを忘れていた。
「三輪さん? どうかしましたか」
大庭さんの声に、慌てて紙を下ろす。
「いえ。……いい紙だと思って。白百合さんの原稿は、いつもこの便箋なんですか」
「そう、いつもそれ。洒落たもんでしょう。原稿用紙で寄越せって言っても、聞きゃしない」
大庭さんは、赤鉛筆で頭を掻いた。
「お嬢さん育ちの書き手は、たいていそうなんですよ。紙にまで見栄を張る」
お嬢さん育ち。
私は黙って、校正刷りの上に赤い印を入れていった。手は勝手に動いた。目だけが、何度も窓辺の便箋のほうへ戻っていった。
帰りぎわ、階段の下で、白髪頭の小柄な老人に呼び止められた。前垂れも指先も、インクで真っ黒だった。
「あんたかい、『道』の欠けを見つけたってのは」
一階の印刷所の親方だった。
「三月も気づかなかった。面目ねえ。差し替えといたよ」
親方は、私の右手の中指に目をやって、にやりと笑った。
「その染みは、文選の染みだね。どこの店の子だい」
「神田の、志摩という店です」
口にしてから、はっとした。三輪と名乗っていたのに。
親方は、ふうん、と鼻を鳴らしただけだった。
「志摩さんか。火事で焼けたって聞いたよ。いい罫を組む店だった」
*
翌日、私は家令室の戸を叩いた。
「真柴さん。藤堂様への返書のことですけれど」
真柴さんは帳簿から顔を上げて、眼鏡を押し上げた。
「子爵夫人から、御令室様にもと名指しでお招きをいただいたのですから、お返事は私の手でお書きしたいんです。嫁が自分で書かないのは、失礼に当たるかと」
真柴さんの目尻に、深い皺が寄った。
「それは、ようございます。大事なお手紙は、御自筆に限ります。字には、人が出ますから」
前にも、同じことを言われた。
真柴さんは書状挟みから招待状と添え状を出して、大机の端に並べてくれた。
硯と巻紙を用意しているところへ、玄関のほうから女中が呼びに来た。電話室に、分家の御当主からお電話だという。
「少々、失礼いたします」
真柴さんが出ていく。足音が、廊下の角を曲がって消えた。
私は添え状を手に取り、窓辺へ寄った。
障子を細く開け、外の光にかざす。
繊維の影の中に、同じ形が浮かんだ。垂れ下がる二房の花と、反った葉。大きさも、紙の中での位置も、昨日の原稿の便箋と寸分違わない。
封筒の宛名に、目を移す。紫がかったインクの、細いペン字。
横画の書き出しが、やはり少しかすれていた。
廊下に足音が戻ってきた。
私は添え状を元の位置に戻し、何事もなかったように筆を取った。
「藤堂様のお便箋は、きれいな紙ですね。光に当てると、ご紋が浮かびます」
「お気づきになりましたか」
真柴さんは、少し嬉しそうに言った。
「藤堂様では、先代の頃から、越前の紙漉きに透かしを入れた紙を漉かせておいでです。お家の方しかお使いになりません。手前どもも、昔はよくお手紙をいただいたものでございます」
昔は。麗子様との縁談があった頃のことだろう。
私は頷いて、返書の一行目に筆を下ろした。
藤堂家の人しか使わない便箋。
白百合は、藤堂家の中にいる。
*
その晩、洋館の裏口で、お鈴が私を待っていた。
手に、酒屋の名入りの手拭いを握っている。
「奥様、聞いてください。お駒さんのこと」
お鈴は声をひそめた。頬が、興奮で赤い。
「出入りの酒屋の御用聞きの兄さんが言ってたんです。お駒さん、今、藤堂様のお屋敷で女中をしてるんですって。お給金もずいぶんいいって、自慢してたって」
藤堂家。
頭の中で、ばらばらだった紙が一枚に重なっていく。
「お鈴。もう一つだけ、教えて。私がこのお屋敷に来た晩、私の行李を洋館の二階まで運んでくれたのは、誰だったか覚えてる?」
お鈴は、首をかしげた。それから、ぽんと手を打った。
「お駒さんです。あたしは大台所でお膳の片付けをしてて。お駒さん、なかなか下りてこなくて、タキさんにずいぶん叱られてました。洋館の廊下で何をぐずぐずしてたんだって」
「奥様、お駒さんがまた、何か悪いことを?」
お鈴が、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「まだ、わからないの。お鈴、このことは誰にも言わないでね。タキさんにも」
「はい。あたし、口は堅いです。お菓子のときに懲りましたから」
お鈴は、真面目な顔で自分の口を両手で押さえてみせた。
あの夜、私は女中に部屋の間取りを教えられた。隣は侯爵様の寝室だと。
教えてくれたのは、お駒さんだったのだ。
白百合の日記には、夫は寝所の戸口に立ったまま、と書いてあった。けれど本当は、侯爵様は奥の扉の前に立っていた。廊下側の戸口ではない。
廊下にいて、声だけを聞いた人なら、そう書く。
*
それからは週に二度、本所へ見舞いに行くと言って屋敷を出た。そのたびに、京橋で電車を降りた。
六月も半ばを過ぎたある日の帰りは、雨になった。
坂の下の停留所で市電を降りると、雨脚が急に強くなった。お鈴と二人、軒先へ駆け込もうとしたとき、目の前に黒い蝙蝠傘が差しかけられた。
侯爵様だった。
自動車も、運転手もいなかった。黒い三つ揃いの裾が、雨に濡れて色を変えている。
「旦那様……どうして」
「本所は、どうだった」
問いには答えず、侯爵様はそれだけ訊いた。
「……父は、元気でした。旦那様が寄越してくださるお医者様のおかげで、このところ咳も少なくて」
嘘ではない。先週、本所へ寄ったときの父は、本当にそうだった。
「そうか」
「旦那様は、なぜ、ここに」
「通りかかった」
会派の集まりの帰りなら、自動車で門の内まで乗りつけるはずだ。傘一本を提げて、坂の下を通りかかる人ではない。そう思ったけれど、言わなかった。
侯爵様は、お鈴に別の傘を渡すと、私の隣に並んで坂を上りはじめた。
傘が、私のほうへ傾いている。
見上げると、侯爵様の左の肩が、すっかり雨に濡れていた。
「旦那様、肩が」
「構わない」
それきり、侯爵様は前を向いたままだった。
坂の途中で、私は何度も口を開きかけた。
白百合のこと。藤堂家の便箋のこと。お駒さんのこと。
けれど、話せば、京橋のことを話さなければならない。
三輪という名を使ってまで、なぜ雑誌社に潜りこんだのか。この人は、きっとそう訊く。
十二階の雁皮紙の夜と、同じ目で。
あの夜、私は嘘をついた。今ここで本当のことを話せば、あの嘘まで剥がれてしまう。
私は黙って、濡れた肩の隣を歩いた。
屋敷の門が見えたとき、侯爵様の手袋の手が、ほんの一瞬、私の背中を雨から庇うように回された。
*
六月の終わり、いつものように京橋の二階へ上がると、大庭さんが封筒を振ってみせた。
「三輪さん、見てくださいよ。白百合先生、もう八月号の分を寄越してきた。いつもは締切を過ぎなきゃ来ないのに」
封筒の中から、同じ便箋の束が出てきた。
紫がかったインク。かすれた横画。
大庭さんが階下に呼ばれて立っていくのを待って、私は便箋を一枚ずつめくった。
三人目の妻が、夜な夜な家令室の帳簿を盗み見る話だった。
本当の私がしたことより、ずっと大胆で、ずっと卑しい女として書かれていた。
最後の一枚を、めくる。
そこには、たった一行しかなかった。
「三人目の妻には、秘密がある」
原稿は、そこで終わっていた。
余白の下に、小さく添え書きがある。「続きは、追って」。
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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コメント
1件
わあ、今回もすごく良かったです…!便箋の透かしから始まる謎解きが、一枚一枚パズルがはまっていくみたいでゾクゾクしました。特に、印刷所の親方とのやりとりでうっかり本名を口にしてしまうシーン、ヒヤッとしたけど"文選の染み"って言葉に主人公の過去がにじんでいて好きです。雨の夜に侯爵様が傘を傾けて肩を濡らしながら隣を歩く場面、言葉が少ないのに二人の距離感がじんわり伝わってきて胸がきゅっとなりました…。ラストの一行「秘密がある」、続きが気になって仕方ないです!