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「…い…っ」
ぶたれた唇の端からは血が滲んで、渇いて固まり、張りついた。
しかしその衝撃でハっとした。
(死にたいとか、今考えちゃダメだ…俺には花屋だって、いつも俺の花を買いに来てくれる大切なお客だっているんだ……!)
こんなところで諦めて再利用される訳には行かな
い…
「やっぱ、Ωって独特の甘い匂いするよなぁ……ははっ、その生意気な目も興奮すんで、ほんま」
岩渕が顔を寄せた、そのとき───
ふと、どこか遠くで鳴り響く、あの独特な高低差のある音が聞こえていることに気づいた。
「なんやこの音……チッ、誰がサツ呼びやがった」
「……攫われてすぐ、警察に通報しといたんだ…っ、ちゃんと逆探知してくれるとは思わなかったけど…助かった」
「っ…面倒なことしよって……」
苛立ちを隠そうともせず、岩渕は眉間に皺を寄せ
そのまま勢いよく右の拳を俺の顔に向けて振りかぶった、そのとき
バンッッ────!!!
激しい衝撃音とともに、鍵付きの重い扉が蹴破られた。
鉄が裂ける音、金属の悲鳴
部屋の空気が一瞬で凍りつき、岩渕までもが直前で拳を止め
俺から離れて立ち上がり、振り返った。
そこに立っていたのは
普段の柔和な物腰とはまるで別人の仁さんだった。
彼の全身からは、言葉など必要としない無言の威圧が滲み出ていた。
空気が一変する。肌を切るような冷たい張り詰めた気配。
その場にいた誰もが、一歩
否、本能で距離を取りたくなるような、そんな“何か”があった。
その目は獣のそれだった。
睨んだだけで人を沈黙させる目力
一瞥で周囲を凍りつかせる威圧と、背後に漂う修羅場の匂い。
口を開かずとも、牙を剥いた猛獣がそこにいるようだった。
誰も動けなかった。
下手に言葉をかければ、噛み殺されるとさえ感じるほどの“圧”。
──その空間に、仁さん以外の音はなかった。
立っているだけで制圧される。呼吸すら忘れるほどの静けさ。
普段の、優しく微笑み、誰にでも等しく寄り添う“仁さん”の面影はどこにもない。
今まで見たこともないような仁さんがそこにいたのだ。
「なんや、見張りはどうした」
岩渕が言うと、仁さんはすでに廊下で見張りをしていた男たちの頭部をその拳に沈めたらしく
後ろから放られるように投げ込まれたふたりの頭が、床に激突して鈍い音を立てる。
床が軋み、血が滲む。
床に響いた、骨とコンクリの衝突音。
濁った呻き声。
部屋が静まり返る中、岩渕の声だけが空気を裂いた。
「……もうひとりでけぇのがいたはずやろ?」
その言葉に呼応するように、仁さんの後ろの影から、ひとりの男がふらつきながら姿を現した。
「あ、兄貴……っ、だ、だずけ…」
虚ろな瞳のまま、血塗れの顔、引き摺るような足取り。
明らかに限界だった
ぼやけた声
酩酊したような足取り
数歩、こちらに向かって手を伸ばそうとした
その瞬間───
男は崩れるように床に倒れた。
ソレを仁さんは一瞥もくれず、腹をぐしゃりと足で蹴り
ゴミでも退かすように、邪魔者を一蹴した。
そして
「ここに集まってるα」
仁さんの声が低く響いた。
聞いたこともないような、怒りに沈んだ音だった。
けれど、それはどこか冷たい凍気のようにも聞こえた。
「三秒で消えろ。命あるうちにな」
言い終えると同時に、仁さんは右手に持った拳銃を真上に向けて、引き金に指をかけた。
引き金は引かれなかった。
けれど、次の瞬間
部屋中のαたちが、蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出す。
誰もがえた顔で、目を合わせようともせずに。
仁さんはゆっくりと、視線を岩渕に戻す。
その瞳には、一切の情けがなかった。
怒りが、皮膚の内側で燃えているのがわかるほどだった。
(……仁さん、撃たない…?)
(…もしか、して…Ωを怖がらせないために…?)
気づいてしまって、胸が詰まる。
銃声よりも静かなのに、圧倒的な威圧を纏ったまま、仁さんは岩渕を睨みつけた。
「楓くんが……俺の言う通りに110番にかけてくれたおかげでもうサツもぞろぞろと来てる」
言葉には怒りと、ギリギリに抑えられた理性が混ざっていた。
その目は、血の色をしているようにすら見えた。
全身に怒りをまとって、それでも俺を見てくれている仁さんが
この部屋の誰よりも、強かった。
「さっさとその子から離れろ」
その声は低く、鋭く、雷鳴のように空気を裂いた。
仁さんの憤りは今にも哮に変わる寸前だった。
俺はその場で震えながら、仁さんに向かって微小に震える手を伸ばして
名前を、掠れた声で呼んだ。
「……じん、さ、ん…っ」
仁さんの視線が、岩渕から俺にうつる。
その目がほんの少しだけ、柔らかく揺れた。
瞬間、仁さんの背後から
制服に身を包んだ数人の警官たちが一斉に突入してきた。
鋭い掛け声とともに、足音が床を打つ。
「警察だ!動くな!」
「全員その場で伏せろッ!」
怒号とともに、室内にさらに緊迫した空気が走る。
驚官たちは訓練された動きで散開し
残っていた組員たちを次々に取り押さえていく。
一人、また一人と床にねじ伏せられ、金属製の手錠が甲高い音を立てて閉じられた。
その光景を、仁さんは微動だにせず見届けていた。
ただ一点、俺の方だけを見つめながら。
視線が交わったまま、仁さんのまとう怒気が少しだけ和らいだ気がした。
「岩渕、その男が主犯です」
仁さんが短く告げた言葉に、警官のひとりがすぐに岩渕に近づき、強引に両腕をねじ上げる。
「……おい、離せや……ッ!聞いとらんわこんなん!」
岩渕が低く唸るように抗議するが、もはや誰にも届かなかった。
「黙れ、言い訳は留置場で聞いてもらえ」
淡々とした口調で警官が言い放ち、察官に取り押さえられ
岩渕が抵抗しようとするも無駄だった。
数人の警察官によってあっという間に組み伏せられ、呻き声と共に手錠をかけられる。
そのときだった
誰かが駆け寄ってくる気配とともに、ひざまずく音がすぐ近くで響いた。
視界の端に、仁さんが、俺のそばに膝をついた姿が映る。
「…よく耐えた……もう、大丈夫だ」
低い声なのに、俺の鼓膜には優しく響く声だった。
さっきまでの殺気の残滓を、ぎりぎりで隠すようにして。
俺は震える唇を動かした。
「お、俺より…他のオメガが…っ、さ、さっき14歳ぐらいの子もいて…………っ!!」
俺は仁さんの胸元に縋るようにして、掠れた声で訴えた。
唇の端から滲んだ血が、乾いて張り付いていて
うまく言葉が出てこない。
仁さんは、俺の言葉を遮らず
俺の両腕を離して、安心させるように頭に大きな手を置いてくれた。
「心配しなくてもいい、警察が動いてくれてる間に、Ω福祉保護局が抑制剤飲ませて全員安全な場所に保護して、ちゃんと保護局の管轄に移送されてるところだ」
その言葉は、まるで魔法のように、俺の心の奥底に染み渡っていった。
身体中の力が抜けていく。
他の皆も無事なんだ。
あの、恐怖に顔を強張らせていた子も……
安堵から、ふっと息を吐き出した瞬間
仁さんの腕が、俺の身体を慎重に持ち上げた。
「……え…っ?」
膝をついていた仁さんが立ち上がり、俺はそのまま、お姫様抱っこの形で宙に浮く。
乱暴に引き裂かれたシャツの隙間から、仁さんのシャツ越しに確かな体温が伝わってきた。
顔が近い。
さっきまでの、凍えるような怒りの色は消え
その瞳は穏やかな光を宿していた。
「……楓くんのことも今、保護局の人間のとこまで運ぶから、少し触れるけど我慢してくれ」
耳で囁くような、優しい声だった。
その言葉はまるで温かい湯気に包まれたように心地よく感じた。
仁さんの腕に抱かれながら、俺は初めて気づいた。
自分の身体が冷え切っていたことに。
「こんなのに言われても怖いと思うけど」
その声色に、安堵と、少しの気恥ずかしさが混ざり合う。
「……だい、じょぶ…れすっ」
発情誘発剤のせいで上手く喋れず、ただ仁さんの肩に顔を埋めた。
正直、ヤクザも血も嫌いだが
今は仁さんをじた方がいいと思った。
床に座り込んでいた時よりも、ずっと視点が高くなる。
荒れ果てた部屋と、手錠をかけられて連行されていく岩渕と組員の姿が遠ざかっていくように見えた。
最後の確認になのか
駆けつけてきた男の人が1人
彼の腕には『Ω福祉保護局』と書かれた腕章が見え
る。
優しく俺の身体を支え直しながら、仁さんはその人に向かって伝えた。
「この部屋にいたりの一人です。怪我をしています。立てる状態でもないので、抑制剤飲ませて保護とケアをお願いします」
その声は、普段の柔らかいトーンに戻っていた。
「通報者の犬飼さんですね。畏まりました。後はこちらで引き受けますので」
温もりに、ようやく、何かがほどけたような気がした。
(助かっ、た?……あぁ…そっか、俺、助かったんだ…っ)
安心したのと同時に、視界がにじんだ。
担者の言葉に促され、俺は保護局の人間が待機している場所へと運ばれた。
すぐに簡易的なベッドに寝かされ、抑制剤入りの飲み物を渡される。
無理やり口に入れられた誘発剤の苦みがまだ残っていたが
それを洗い流すかのようにゆっくりと飲み下した。
「他の皆さんも、無事に保護されましたよ。小さなお子さんも含めて、全員安全な場所にいますから、安心してください」
担当者の言葉に、俺はあの震えて泣いていた子を思い出した。
あの地獄のような場所で絶望していた人たち
皆、命は助かったんだ。
その事実だけで、この上ない安堵感が得られた。
その後
俺の証言をもとに、保護局と警察は連携し、違法な地下組織の摘発を次々と進めていったようだ。
俺は病院や施設に入院することもなく
無事に帰らされた。
あの地下で目にした光景と、14年前の記憶が蘇り
αという存在に対する嫌悪感が再び頭を|擡《もた》げそうになる。
しかし、すぐにそれを打ち消すように、仁さんの顔が脳裏に浮かんだ。
あの、怒りに燃えるような目。
それでも俺を守ろうとしてくれた姿
そして、あの優しい声。
仁さんもαだ。
でも、岩渕たちとは全く違う。
俺を、Ωを商品扱いせず
人間として、危険から救い出してくれた。
あの圧倒的な威圧感は、俺たちを傷つけようとする者たちに向けられたものだった。
Ωを怖がらせないように、銃声ではなく威圧でαたちを追い払った。
その気遣いが、今になって胸に迫る。
「……仁さん…」
思わず、小さく名前を呟いた。
俺はこれまで、自分のフェロモンが強いせいで差別され
挙句の果てには暴力団組織の試験体にされ、欠陥品として生きてきた。
Ωである自分を疎ましく思っていた。
発情することも、誰かに求められることも、嫌悪の対象だった。
しかし、仁さんの腕の中で感じた温もりは決して嫌悪を催すものではなかった。
むしろ、求めていた安心感と、守られているという感覚だった。
発情誘発剤のせいで感じる体の熱っぽさは、抑制剤のおかげか収まりつつある。
けれど、岩渕に無理やり飲まされた薬の恐怖は簡単には消えない。
しかし、それ以上に強く残ったのは、仁さんが見せてくれた強さと優しさだった。
あの場にいて、絶望しかけていた俺に、一筋の光を見せてくれた。
店に戻ると、特に異常はなく
花屋を潰すというのも俺を動揺させるための岩渕のただのハッタリだったようで
花屋が無事だったことに俺は酷く安堵した。