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後日
この件は大々的なニュースとなり
テレビやネットでは「ニャンニャン事件再び」という話題で持ち切りだった。
俺は他の拉致されていたりと違い
抑制剤と得体の知れない薬を1錠ずつ飲まされただけで
一応病院で異常がないか再検査してもらったが、特に異常はないとのことで
「もし異変を感じたらまた来てください」
と告げられて返された。
案外平気だ、と思っていたが、思った以上に体は疲れていたようで
「だからといって抑制剤であのフェロモンを抑えたんです。病み上がりに変わりはありませんから、しばらくお店はお休みした方が良いかと思います」
と言われると、少し凹んでしまったがその通りにするしかなく
◆◇◆◇
家に帰宅後
店の公式HPとSNSに近況を報告することにした。
こんなことを書くのは始めてのことだったが
ツイートを済ませ、花の予約ページを一時的に停止させた。
そんな報告をすると心配や応援の声はもちろん
「花宮さんってのだったんですか?!」
と驚いているユーザーも何人かいた。
考えてみればそうだ
俺はフェロモンブロッカー依存性になって以来発情期とか来なくなったわけだし…..
βかαだと思われていたのだろうか。
そんなことを考えて一息付き、スマホをテーブルに置くと
丁度トースターが「チン」と軽快な音を立てた。
(そういえばさっき入れたんだった)
こんがり焼けたトーストを無造作に取り出して
バターも塗らずに白い更にあちち、と置いて
そのまま齧った。
口の中がパサついて、慌てて冷めかけたコーヒーを流し込む。
休日で、特に予定もなく
流れてきたニュースに、手元のリモコンを離す気になれなかった。
テレビではまだ、一昨日も流れていた例の事件を取り上げている。
テロップには
『人身売買・性的搾取の組織摘発多数のオメガ男性を監禁か』
『組織リプロダクションスレイヴ』
『主犯格の男 客ら逮捕』
という文字が、赤く大きく踊っていた。
思わずトーストを持つ手が止まる。
《警視庁は先日、組織的な人身売買と性的な搾取を行っていたグループを摘発し、主犯格とみられる男や客の男ら合わせておよそ20人を逮捕しました》
昨日も朝や晩に聞いたニュース
しかしそれでも口に入れたはずのパンの味が、いつの間にか分からなくなっていた。
《調べによりますと、逮捕されたグループは、会員制バーの地下室などで、およそ10人の2の男性らを長期間にわたり監禁し、客の男らに性的なサービスを強要、営利目的で性行為をさせていた疑いが持たれています》
《逮捕されたのは、このグループを主導していたとみられる、岩渕竜二容疑者(55)です》
《容疑者らは、監禁や強制性交等、そして人身売買の疑いが持たれており、警視庁は犯行の動機や全容の解明を進めています》
アナウンサーの声は淡々としているのに、内容はどこまでも衝撃的で、耳が勝手に拾ってしまう。
まるで外国、映画の中の話みたいだ。
だけど、これは現実に起きたこと
しかも、ほんの数日前に、自分もその中にいたということ。
恐怖よりも、Ωをそんなふうに利用していた岩渕と客らへの怒りが強かった。
そんな憤りを抱えたまま、気分転換に近くのカフェまで繰り出した。
気分を変えたくて入った家から近いこぢんまりしたカフェ
平日昼前だというのに店内はほぼ満席で
サラリーマンや学生、ママ友グループの賑やかな声が飛び交っていた。
カフェの静かなざわめきの中、俺はレジ横の小さなテーブル席に一人腰を下ろした。
向かいの椅子には誰もおらず
カップの中のカフェオレは、まだ熱を逃がさずに湯気を立てている。
そのとき、入口の方から
「すみませんお客様、ただいま満席でして……」
という店員の申し訳なさそうな声が聞こえ、何となくそちらへ視線を向けた。
──えっ
言葉よりも先に、心が跳ねた。
立っていたのは仁さんだった。
ラフなTシャツにデニム。
サングラスを胸元に引っかけていて、どこかのんびりした週末の風をまとっている。
でもその目は、数日前
あの地下の地獄で組員たちを容赦なく叩きのめした仁さんだった。
怒れる獣のような光とはまるで違って柔らかく、オンとオフのギャップがえげつないと今更ながら感じた。
「じっ、仁さん……!」
思わず、声が漏れた。
驚きと、まだどこか微かに残る震えとが胸の奥で混ざり合う。
仁さんもすぐにこちらに気づいたようで
穏やかに微笑む。
その笑顔に、安心した
怖くない。仁さんは、怖くない。
αなのに、不思議とそう思える。
地面に這いつくばっていた自分を、真正面から助け出してくれた人。
その温かさが、今でも体に残っているような気がした。
震えを悟られないように、カップを軽く押しやって立ち上がると
笑みを浮かべながら声をかけた。
「あの、相席になりますけど……よかったら、向かい、座りますか?」
ほんの一瞬だけ仁の目が見開かれ、それからふわりとした笑みが浮かぶ。
「……いいの?」
「ぜひ…!」
戻って一緒に座ると、カップの取っ手を指でなぞりながら、しばらく沈黙が続いたが
自然と頭が下がっていくのを止められなかった。
「あの、仁さん」
声は震えなかった。
でも、言葉に乗った思いは、真っすぐだった。
「ん?」
一心臓の音が、やけにうるさく聞こえる。
目の前の人が「命の恩人」であること。
あの状況で、ただ一人信じられたαだったこと。
その事実が、胸の奥から込み上げてきた。
「仁さん……この間は助けてくれて、ありがとうございました。」
「ああ…いいんだよ」
「…本当に、感謝してもしきれないです。あのとき、俺……年下のオメガが、目の前で…っ、酷いことされてるのに……助けたくても、何も出来なく
て…」
自分の言葉に詰まりながらも、なんとか口を開いた。
テーブルに置いた手が震える。
「情けなくて、歯がゆくて……でも…仁さんが来てくれたから、みんな助かったと思ってます……本に、ありがとうございました」
クロワッサンの甘い香りの中で、俺は深く頭を下げた。
仁さんはしばらく黙っていた。
やがて静かに一けれど力強く言ってくれた。
「…あの場にいた誰もが、怖かったと思うし、行動できなかったことは責めるべきことじゃないよ」
「だから、そんな頭下げないで」
「……はい…でも、その、仁さん」
思わず前のめりになっていた。
震えないようにって、さっきからずっと意識していたのに
気づけば手は膝の上で強く握りしめられていて。
慌てて作った笑顔が、頬にうまく貼りつかない。
「俺、αのこと………正直ずっと、偏見があったんです」
「みんな同じだって、いい人なんかいないと思い込んでて。怖くて、嫌で……支配してくるだけの存在だって」
冷めかけたコーヒーを見つめながら、心の奥のざわつきごと口にした。
言った瞬間、自分の声が少し震えていたことに気づく。
「だから…仁さんみたいな人がいるなんて、信じられなくて。…ってすみません、こんなこと言われたら、不快に感じるとは思うんですけど、だからこそ感謝してるって言いますか……っ!」
声がどんどん早口になって、自分でもわけがわからなくなっていくのを感じた。
眉を下げて、ぐっと喉元に込み上げるものを飲み込む。
仁さんは、少しだけ目を見開いたあと、ふっと柔らかく笑ってくれた。
「別に不快なんかじゃない」
「え……?」
「偏見だって傷ついてきた結果、それでも俺にわざわざ声掛けて普通に接してくれて…それだけで十分だ」
たったそれだけの言葉だったのに
胸の奥に張りついていた氷が、すっと溶けていく感覚がした。
あ、今、心が楽になったーそんな風に思えた。
「本当に、仁さんには感謝してるんです!だから、せめて…何か、ちゃんとお礼がしたくて」
視線を合わせるのが恥ずかしくて、思わず目を伏せながら言った。
「……お礼?」
「はい。あの焼肉の時みたいに、俺にできることがなにかあったら……!」
ちょっと前のめりになっていたと思う。
だけど、どうしてもちゃんと伝えたかった。
仁さんはそんな俺の姿を見て、口元をふわりと綻ばせた。
「そんなんいいよ」
「えっ、いえ、そういうわけには…」
ぽかんとしていると、仁さんは落ち着いた声で続けた。
「俺も岩渕には個人的に恨みがあったし。……それに、友人として、年上として───それと、αとしても。普通のことしただけだから」
その言葉に、思わず目を見開いてしまった。
仁さんはいつも簡単に「普通のこと」って言葉で片付けてしまう。
「それより楓くん、今回の件でしばらく花屋休むんだって?」
「はい…そうですけどって、なんで仁さんがそのこと?」
「なんでも何も、HPとかTwitterで書いてたから」
「……もしかして、心配して…?」
顔を覗き込むように言うと、仁さんは腕を組みながらコクコクと頷いた。
「まあ…医者にも休養するように促されましたし、さすがに、ちょっと休んだ方がいいかなと思ったので」
そう言うと、彼は一息置いてから言った。
「…だったら、一回実家帰ったらどうだ?美味しいものでも食べて、安心できるところに行った方がいい」
「……実家、ですか」
仁さんの言葉に返すように口にした瞬間、自分の声の色が少しだけ変わったのがわかった。
一行きたくない。あの家に戻るくらいなら、どこか知らない街で野宿した方がマシだ。
でも、そんな本音を言うわけにもいかなくて。
頭を抱えそうになった、そのとき
ふと、唯一血縁関係の中で唯一信頼している人物を思い出した。
「そうですね…あ、うちの兄なら……確か、二年前に東京に引っ越してきたって言ってたので。今度、会ってみようかと思います!」
無理やり笑ってみせたけど、仁さんは何も言わずに、ただ静かに頷いてくれた。
「それがいい」
まるで、全部察したうえで背中を押してくれたみたいだった。
「楓くんが元気になったら、また花屋、行かせてもらうから。その時は……頼めるかな?」
「もちろんです!」
嬉しかった。
こんなにも自然にαと話せる自分が、ちゃんと存在してるんだって思えた。
それから少しだけ他愛もない話をして、ふたりで並んでカフェを出た。
外はもう夕方で、ほんのり肌寒い風が頬をなでていく。
仁さんと並んで歩く足音が、妙に心地よくて
肩に入っていた力が少しずつ抜けていくのを感じていた
その時だった
「──あ」
声が漏れた。無意識に立ち止まっていた
向こうから歩いてくる人影が、どんどん近づいてくる。
すらっとした体格。落ち着いた色味のジャケット。
どこか見覚えのある横顔。
その人が俺を見つけて、驚いたように立ち止まる。
「……楓!」
───聞き覚えのある声。
一瞬、鼓動が跳ね上がった。
「え……兄さん?」
胸の奥がざわめいて、懐かしさと戸惑いが入り混じった感情が押し寄せる。
そこに立っていたのは、数年ぶりに見る
俺の兄だった。
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