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【翠 side】
夕方になって、家の中がいつもの音で満たされていく。
鍋のふたが鳴って、
箸が当たって、
赫ちゃんが椅子を少し引きずる音。
俺は、ダイニングキッチンの端で、
最後にシンクを軽く拭いていた。
「翠、もういいよ」
「座って食べよ」
桃にぃに言われて、
「うん」って返事をする。
声は、普通。
息も、乱れてない。
俺は椅子に座って、
いつもと同じ場所に手を置く。
黄ちゃんと瑞ちゃんは、
少し疲れた顔をしてるけど、
もう苦しそうではない。
「病院、どうだった?」
「検査は?」
そんな会話が流れていく。
俺は、相づちを打ちながら、
黙って聞いてた。
誰も、俺を見てない。
誰も、何も言わない。
……それでいい。
ごはんを食べて、
片付けをして、
赫ちゃんが眠くなって、
瑞ちゃんがあくびをして。
いつもの夜。
「先に風呂入っておいで」
「はーい」
順番を決めて、
電気を少し落として。
俺は、自分の部屋に戻った。
ドアを閉めて、
ベッドに腰を下ろす。
胸に、そっと手を当てる。
……静か。
さっきまでの苦しさは、
もう、ほとんど残ってない。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
(……今日も、できた)
誰にも言わずに。
誰にも気づかれずに。
ちゃんと、
“普通の一日”を終わらせた。
布団に潜り込むと、
廊下の向こうで、桃にぃの声がした。
「おやすみ」
「おやすみー」
いつものやり取り。
俺も、小さくつぶやく。
「……おやすみ」
それで、この日は終わった。
何も起きなかった。
何も、壊れなかった。
ただ、
少しだけ長い一日だっただけ。
この先で、
別の場所で、
別のタイミングで、
ちゃんと分かる日が来る。
でも、今はまだ。
この家では、
誰も知らないまま。
俺は、目を閉じて、
静かに眠りについた。
——まるで、
本当に何事もなかったみたいに。
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