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複数の獣の骨を組み合わせた人の形が寝転がっている。冬の熊の毛皮のように厚い天幕の中心、孔雀の羽で織ったかのような豪奢な布の山を積み重ねた褥の上でからからと音を立てて寝返りを打つ。
「そろそろ頃合いだな」と黄色味がかった骨の集まりは掠れた声で一人呟く。
骨の塊は己を流離う者と認識しており、しかしその骨が仮初の体であることも分かっている。
骨の体を起こすと今寝転がっていた布の山から数枚を取って、体を隠すように巻きつけるように丹念に身に纏う。まるで今から埋葬されるかのようだ、といつも思っている。
プリッシュが天幕から出ると、そこはさらに大きな天幕の内だ。華やかな彩りに染められた骨によって神聖な祈りを込めて装飾されている。
そして目の前に三人の老女が待ち受けていた。そちらはとても単純素朴ながら控えめで品のある薄い青の長衣を着ている。
「お出かけですか? 御子様」と老女の一人が尋ねる。
「うん。どう? 中身見えてない?」
プリッシュが尋ねると三人の老女は御子を囲み、注意深く見定める。
「ええ、問題ありません。しかしご注意あそばせ。誰もが御子様のお姿を恐れぬわけではありません」
「分かってるよ。何だよ、今更。だからこうして気を遣ってるっていうのに。じゃあね」
「お待ちくださいませ」と老女の一人が呼び留める。「どちらへいらっしゃるのですか?」
プリッシュは波立つ心を抑えるように呼吸を整える。
「熱き風吹くの海を見に。どこか一人きりになれるところに」返事がないのでさらに説明する。「ヴィリアの海に沈む太陽を見に、その荘厳な光景を楽しみにここまで旅してきたんだよ、僕は」
そう言われてもなお三人の老女はお互いに無理解を示す無表情を見合わせる。三人が三人とも同じ気持ちのようだった。
「それじゃあね。日が沈む頃には戻ってくるよ」
プリッシュは天幕の入り口の布を払って外へ出るが、立ち止まり、聞き耳を立てる。老女たちの吐息混じりの秘密の会話を盗み聞く。
「我慢の限界と見える」「優しいお方だが、無理もない」「進路を変えさせたのがまずかったのだ。我らが御頼りする立場であるのに」
「行商会の意向は無下にできぬ」「さりとて御子様に出て行かれても困る」「さすればこの街は立ち行かぬぞ」
「件の魔法使いの言が真ならば」「お身体のどこかに札がある」「それを貼り直せば貼った者が主となるそうな」
「嘘であれば?」「信頼を失う」「破滅だ」
プリッシュは立ち聞きしていたことを悟られないように、大きな翠玉をせしめた盗人の如く静かに天幕を離れる。
ここは平らかなる狩人の土地テロクスにあって珍しく西方にヴィリア海を臨む山々の、その頂だ。斜面に沿うように無数に多様な天幕が建てられ、都市国家の城壁の如き厚く頑健な天幕に囲まれており、雲衝く塔の如き見上げるような天幕まである。街のあちこちには不思議な機構の施設があり、折り畳める階段が設えられ、伸縮自在の柱に支えられた広場まで用意されている。急で乱雑な斜面の山ながら、人々も家畜も苦も無く行き交っていた。
「御子様!」と呼びかけられ、そちらを振り向くと母に手を引かれる幼子が小さな手を振っている。
プリッシュもまた手を振り返し、天幕の群れから離れるように人の群れから逃げるように西へと歩き去る。
天幕の城壁を抜ける時に誰も通さないように衛兵に厳命する。元よりプリッシュのために誰も通さないようにしていたと教えられ、感謝した。
傾きつつある陽光に急かされ、山稜の他には遮る物のない山道を暫く歩いて上りきると、待ち望んでいた広大にして優美なるヴィリア海に出迎えられる。古い伝説と多くの商い船が行き交う群青の海に祝福の如き白の光が煌めいている。手前には黒檀を産するいくつかの島々があり、遥か遠くの水平線にはマシチナ群島の一端が覗き見える。美しい風景だがそれでも前座に過ぎない。もうすぐ眺めることのできる落陽のヴィリア海は多くの詩人が稲妻の如き天啓を授かり、瞳の奥に吹き込む詩趣に歓喜した景色だ。
こんな土地まで苦労してやって来たのに、プリッシュの他には天幕からやって来た者はいなかった。しかしどうやら独り占めにはできないらしい。先客がいたのだ。
まだ若い娘が寛ぐように地面に座っている。肩までの明るい茶色の髪を風になびかせ、海を眺めている。麓の村で洗濯をしていた女たちと似たような格好をしていて、とても旅装には見えないが、脇に置かれている革の背嚢は大きく膨らんでいて、かつ使い込まれていることが一目で分かる。
プリッシュの気配に気づいた女が振り返ると、凛々しい眉に陰りない眼差しながらも含むところのない花開くような笑みを見せる。
先んじてプリッシュが尋ねる。「どうやってここに? 城壁は誰も通していないはずだけど」
「少しばかり幻を見せるのが得意なのさ」と女は奇態な訪問者に臆することなく答え、尋ねる。「あんたも落陽のヴィリア海を見に来たのかい?」
プリッシュは身に纏った布の塊が崩れないように押さえつけて頷く。「その為に旅してきたんだ」
「へえ、じゃああんたが漂泊都市這い街の主宰者プリッシュなのかい?」女は立ち上がり、手を差し出す。「あたしは鳥。旅人で、魔法使いさ」
一瞬躊躇するもプリッシュはドニャと握手する。三賢女たちにいらないことを吹き込んだ件の魔法使いだ。プリッシュにはドニャの狙いはわからないが寝室に人影を見つけた時のように警戒心が高まる。太陽をちらりと見て、まだしばらく時間があることを確認する。
「主宰者じゃないよ。彼らは、僕に勝手についてきているだけさ」
「勝手に?」ドニャは驚いた様子で天幕の街ワーミンドに目を遣る。「あの魔法は彼らの魔法ってこと? あの自走貯水池も? 螺旋墓所も? 携帯橋も?」
「逆に一人の人間がこうも多様な魔法を修められる?」
「よほどの天才でなければ難しいね。一人の人間には」
「何が言いたい?」
「何も」と言ってドニャは肩をすくめる。「ただ世間話をしていたら引っかかるところがあったってだけ。気に障ったなら話すのをやめたっていいさ」
ドニャは再び同じように座り込み、清冽な群青のヴィリア海を眺める。
プリッシュも、いつまでも真後ろに立っているのも気まずいので距離を取って座る。
「君は何をしに来たんだ?」
「言っただろう? 海を眺めに来たのさ」
「そうじゃない。三賢女と僕のことを話しただろう?」
プリッシュの言葉は詰るように刺々しくなる。
「三賢女? ああ、あのお婆さんたち? 挨拶のついでに世間話はしたけど。あんたのことを話したというか、あんたみたいな存在について他でも聞いたことあるよって」ドニャがプリッシュの方に首を向け、目が合う。「もしかして何かまずかった?」
ドニャが嘘を言っているようには見えなかった。曇りない瞳には少しも良心の呵責は感じられず、好奇心だけが渦巻いている。
「三賢女たちが僕を支配しようとしている。君が余計なことを吹き込んだからだ」
「そうなんだね。それは申し訳ないことをしたよ」とドニャは申し訳なさを微塵も感じさせずに言う。
「てっきり、こう、持ちつ持たれつなのかと思ってたんだよ。まさか勝手についてきているだけだなんてね」
「そうさ。僕の魔法に寄生しているんだ」プリッシュは憎々し気にワーミンドの街を振り返る。「僕の内にある、自由な旅を実現する数多の魔術の内、彼らが身につけられたのはほんの少しだ。僕が立ち去ればここに立ち往生さ」
「なんだ。それなら良いじゃないか。心配して損した」
「え?」プリッシュがドニャの方に顔を向けると、ドニャは再び落陽を待ち焦がれていた。「何が良いのさ。街はもう旅ができなくなるんだぞ? その全ての営みは街が白昼大陸中を旅できることを前提にしているんだ。古くから、その始まりから、他のどこにもない行商人の街として――」
「そんなの知らないよ。あんたが街から逃げ出せるならそれで良いじゃないか」
プリッシュには思いもよらない言葉を受けて言葉を失う。
代わりにドニャが言葉を促す。「違うの?」
「違わないけど。でも、この街には沢山の人々がいる。大半は何の罪もない」
「罪の上に寄生しているようなもんなんだろ? あんたが言ったんじゃないか」
「ずっと昔から一緒に旅をしてきたんだ。何世代も前から」
「じゃあ三賢女のことも赤ん坊のころから知ってるってわけだ。いや、知ってるつもりだっただけか」
辛辣な言葉にプリッシュの心が痛む。しかしそれは真実がゆえの痛みだということを分かっている。
「みんな僕に失望するだろう」
「そりゃそうだ。まあ、だけど分かりやすい二者択一だね。好かれ続けるために支配を受けるか。自由を得るために嫌われるか。あんたが選ぶだけだ」
プリッシュは沈黙し、思案する。
ドニャは驚いた様子で声を上げる。「悩むような問題かい!? あたしも聞いた話だけど、完全な言いなりの操り人形になるんだよ!?」
少しばかり感情的になったドニャを見てプリッシュはどこか安心し、微笑みを浮かべさえして頷く。
「うん。でも僕はたぶん不死だ。永遠に近い人生から見ればほんの一瞬みたいな支配を厭って、彼らを不幸にしてもいいのだろうか。僕は庇護者でも守護者でもない。ただ旅をする魔法が使えるだけ。ワーミンドだっていつかは滅ぶだろう。その後にも自由はある」
「呆れた」そう言ってドニャは再び海に目を向ける。「まあ、でもあんたの選択だ。どっちを選んでも私は止めたりしないよ。そんな義理もないしね」
プリッシュはドニャの横顔を見つめ、ワーミンドの街並みを見つめる。
「嫌われるよりは好かれたいな」とプリッシュは呟く。
ドニャの小さなため息をプリッシュは聞き逃さない。
「そうかい。まあ、好きにしなよ。下手に逆らわなければ連中に札を剥がされることもないだろうしね」
「いや、そうじゃない。街を出るよ」とプリッシュははっきりと否む。
「は? どっちだい?」再びドニャは呆れ顔でプリッシュの方に顔を向ける。「それともワーミンドの連中に好かれたまま自由を得る方法を思いついたのかい?」
「いや、そうじゃない」プリッシュはゆっくりと首を横に振った後、意を決して頭の辺りの布の塊を脱ぎ、獣骨の体を曝す。「君さえよければ、僕と一緒に旅しないか?」
ドニャはしかし怯むことなく、ただ呆れている。
「ああ、そういうことかい。じゃあ何? あたしに選択させようっての?」
「いや、それも違う。僕は選択したんだ。街か、君か。僕は君と旅したいと思ったんだ」
プリッシュはできうる限り真剣な声色で申し込んだが、ドニャは悪びれもせず、いひひと笑う。「悪いけど、あたしは一人旅が好きなんだ」
そうして背を向けるドニャをプリッシュは呼び止める。「待ってくれ。せめて最後に共に落陽のヴィリア海を眺めよう」
しかしドニャは「やあだね!」と言ってワーミンドの街の方へ走り去った。
プリッシュは深いため息をついて去り行くドニャに背を向ける。
「あ!」
長々と話している内に長旅の果てに待ち望んでいたヴィリア海の落陽が沈み切っていた。ドニャはきちんと初めから終わりまで眺め、プリッシュは見逃したのだ。ただほんの僅かな橙の残光だけが幸先悪い旅路の始まりを慰めるように海面に煌めいていた。
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