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夢の国から一夜明け、私たちがいたのは魔法の城の前ではなく、殺風景な塾の自習室だった。
冷房が効きすぎた室内。ペンが紙を走る音だけが、銃声のように響いている。
「……あー、もう! この微積、解き方忘れた……」
私が思わず頭を抱えて呟くと、隣の席から「……チッ」と短い舌打ちが聞こえた。
見なくても分かる。白布賢二郎だ。
「……うるさい。独り言で脳の酸素消費してんじゃねーよ。効率悪いだろ」
横を見ると、彼は一瞬たりともペンを止めず、難解な数式を淡々と片付けていた。
……冷たい。昨日の、あの優しく髪を撫でてくれた白布君はどこに行ったの?
「……何よ。白布君こそ、そんなにカリカリしてて疲れない? 昨日のチャーム、カバンに付けてくれてるかと思ったのに……」
私が彼のリュックをチラッと見ると、そこには何も付いていない。
すると、彼はようやくペンを置き、冷徹なセッターの目で私を射抜いた。
「……当たり前だろ。塾は戦場だぞ。そんな浮ついたもんぶら下げて、一点でも落としたら笑いもんだわ」
「……一点、一点って……。白布君には、私より点数の方が大事なんだ」
少し寂しくなって視線を落とすと、彼は私のノートをひょいと奪い取った。
「……勘違いすんな。……お前がその程度の問題で躓いてるのが、腹立つんだよ。……俺の隣にいたいなら、俺と同じ景色見ろ。……一点差で甘えてんじゃねーぞ」
奪い取ったノートの余白に、彼は恐ろしいほど無駄のない解答を書き殴った。
そして、私の耳元に顔を寄せ、周囲には聞こえない低い声で囁く。
「……今日の小テスト。お前が俺に一点でも負けたら、今夜の通話はナシだ。……死ぬ気で俺に食らいついてこい。……ライバル、期待してるぞ」
恋人としての甘さを一切封印し、あえて突き放すことで私を鼓舞する。
白布君の「愛」は、いつだってこのヒリつくような「一点差」の攻防の中にあった。
「……言ってくれるじゃん。……白布君を二位に落として、泣かせてやるから!」
私たちは再び、ペンを武器に持ち替えた。
夏期講習の静寂の中で、二人の「敗北」を賭けた戦いが、再び幕を開ける。
塾の自習室に、採点済みの小テストが返却された。
張り詰めた空気の中、私と白布君は同時に自分の答案用紙をめくる。
「……えっ」
私の点数は、『100』。
そして隣を見ると、白布君の点数も、一点の狂いもなく『100』だった。
「……同点。……また、並んじゃったね、白布君」
私が少しだけ勝ち誇ったように囁くと、白布君は答案を握りしめたまま、微動だにせず固まっていた。
昨日の「負けたら通話ナシ」という条件。同点の場合はどうなるのか、彼はそこまで計算に入れていなかったらしい。
「……チッ。……面白くねーな。お前、いつの間にそのレベルまで上げたんだよ」
白布君は不機嫌そうに椅子を引くと、「……来い」とだけ言って立ち上がった。
連れて行かれたのは、塾の非常階段の踊り場。人影はなく、薄暗い常夜灯だけが私たちを照らしている。
「……同点だったから、通話はナシにならないよね? 私、頑張ったもん」
「……ああ。ナシにはしねーよ。……でも、一点も差がつかなかったのは、俺の計算違いだわ」
彼は私を壁際に追い詰めると、逃げ場を塞ぐように腕をついた。
至近距離。塾の無機質な空気の中で、彼の体温だけが異様に熱い。
「……奈々花。お前が俺に追いつくのが、こんなに早くなるとは思ってなかった。……ライバルとしては100点だけど、恋人としては……可愛くねーな」
「何それ。……じゃあ、ペナルティ、あるの?」
私が少し不安げに聞き返すと、白布君はふっと口角を上げ、私の頬に熱い指先を滑らせた。
「……ああ。同点のペナルティだ。……今夜の通話、寝るまで切らせねーからな。……あと、これ」
彼は私の顎をくいっと持ち上げると、周囲に誰もいないことを確認してから、吸い付くような深いキスを落としてきた。
塾の殺風景な踊り場で、心臓の音だけがうるさく響く。
「……次は俺が勝つ。……お前が俺のことしか考えられなくなるくらい、完膚なきまでに叩きのめしてやるよ」
ライバルとしての火花と、恋人としての深い執着。
白布君の「計算」は、同点という結果によって、さらに独占欲の方へと狂い始めていた。
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