テラーノベル
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私は玄関の扉の前で息を整えた。
なにも悪いことをした訳でもないのに、雪絵になんと話せば良いのか考えている。彼が“狩り”の対象ではなかったこと、もう一度会ってみたいという思いが心の中で渦巻いていることを正直に伝えれば良いだけなのに、緊張で手のひらが汗ばんでいた。
鍵を回す音が、いつもより大きく響く。リビングの灯りはまだ点いたままだった。雪絵はソファに座り、白い薔薇の花びらを一枚ずつ摘みながら、私を待っていた。
「紅子……おかえりなさい」
彼女の声は静かで、でもどこか探るような響きがあった。私はコートを脱ぎ、ゆっくりと近づく。雪絵の瞳が、私の顔を、髪を、ワンピースの紅薔薇のモチーフを、じっと見つめている。
「どうだった?」
私はソファの端に腰を下ろし、一度深呼吸した。
「雪絵……近江龍彦は、裏切り者じゃなかった」
言葉を口にした瞬間、雪絵の手が止まった。摘まれていた花びらが、静かにテーブルに落ちる。
「彼は……嘘をついてなかった。メッセージも、全部本心みたいだった」
雪絵は黙って私を見ていた。
いつも冷たく澄んだ瞳が、今は少し揺れている。
「それで?」
私は視線を逸らさず、続けた。
「もう一度、会いたいって思った。本気で」
部屋に沈黙が落ちた。時計の針の音だけが、ゆっくりと時を刻む。雪絵はゆっくりと立ち上がり、私の前に来た。そして、いつものように私の髪を指で梳きながら、囁いた。
「紅子……私たちの掟、覚えてるよね?男は、いつか必ず裏切る。父親みたいに」
私は姉の手をそっと握った。
「わかってる。でも、もし……もしこの人が違うなら」
雪絵の指が、私の頰に触れた。冷たくて、でも優しかった。
「だったら、証明して。私が納得するまで、見守らせて」
私は頷いた。
雪絵は高橋のことがあってから、男性を忌み嫌うようになった。“狩り”をする時も、最も残酷で最もダメージが大きい報復を望んだ。……それは私が慄くほど容赦なかった。
社会的な死。
家族からの孤立。
仕事の喪失。
時には、相手が二度と立ち直れないほどの精神的傷を残すまで追い詰める。雪絵の瞳は、復讐のときだけ冷たく燃えた。私はいつも、姉の横で棘を研ぎながら、それでも心のどこかで震えていた。
私がワンピースを脱ぐと、姉は温もりを味わうように手に取って頬ずりをした。そして匂いを嗅ぎ、顔を顰めた。
「男の人の匂いがするわ」
「それは一緒に食事をしたから」
「食事をしただけ?」
「フレンチのフルコースよ」
私は笑ってごまかしたけど、雪絵の目は笑っていなかった。ワンピースの布地を指でつまみ、紅薔薇の刺繍の部分をゆっくりとなぞる。
「紅子……あなた、迷ってる」
姉の声は低く、静かで、でも鋭かった。私は視線を逸らした。クローゼットにワンピースをかけながら、小さく息を吐く。「雪絵、私は……」言葉が続かない。雪絵は私の背後に立ち、肩にそっと手を置いた。
鏡越しに、私たちの姿が映る。
瓜二つの双子。
でも、今は少しだけ違う表情。「私たちの掟を、破るつもり?」私は首を横に振った。でも、心の中では、はっきり「いいえ」と答えられなかった。雪絵は私の髪を梳きながら、囁いた。
「だったら、次は私が調べる。近江龍彦のこと、全部暴いてあげる。もし、少しでも裏切りの兆しがあったら……今までで一番、残酷に壊す」
私は姉の手を握った。冷たくて、でも離せなかった。
「お願い、雪絵。もう少しだけ、時間をちょうだい」
雪絵は黙って頷いた。けれど、その瞳の奥に、あの高橋を壊したときと同じ冷たい炎が灯っているのを、私は見逃さなかった。
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