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迷った。
玲と話し合うにしても、親のお膳立てしたいかにもって場所で会う必要はない。事情はどうであれ、知れば馨はいい気はしないだろう。
逆の立場なら、俺は馨を行かせない。
けれど、食事しながら話すことでもないし、人目につくのは避けたい。
二人きりで話すとなると、場所はどこであれ密室になる。
どうする……。
俺は自宅とホテルに向かう分岐点で車を停めた。後部座席のケーキの箱をチラリと見て、スマホを取り出した。
馨は電話に出なかった。
——つーか、馨に何を言う気だ。
玲との話し合いに出向くか、決めるのは俺だ。
『少し遅くなる』
馨にメッセージを送り、俺はハザードランプを消した。
事故による交通規制で、ホテルに着いたのは一時間後だった。
馨からは『わかった』とだけ返事が来た。
部屋はやはりスイートだった。
そういや、馨とホテルに泊まったことはないな。
静岡出張ではビジネスホテルだったし、部屋は別だった。
今度、連れて来よう。
いつもと違う場所で、雰囲気で、いつも以上に乱れさせたい。
想像すると、この部屋の中で俺を待っているのが馨じゃないことが残念でならなかった。
憂鬱さを吐き出し、ドアベルを鳴らす。
返事はなく、ドアが開いた。
「来てくれてありがとう」
玲が嬉しそうに笑って俺の首に抱きついた。即座に彼女の手を振り解く。
「話をしに来ただけだ」
「入って」
やっぱり……来たのは間違いだったかもしれない。
今更後悔しても遅い。
先送りにしても、いずれは玲と話さなければならない。それなら、早く済ませたかった。
「コーヒーでいい?」
玲がアメニティのコーヒーメーカーのスイッチを入れる。
部屋の中央には皺のないキングサイズのベッドと、その正面には五十インチはある壁掛けのテレビ。窓際には大きさの違うソファが向かい合って二台と、その間にはガラスのテーブルがあり、東京湾が望めた。
俺は二人掛けのソファに腰を下ろした。
「来てくれないかと思ったわ」と、玲がカップを用意しながら言った。
「どうして」
「那須川さんが許さないだろうと思って。二度と雄大と二人では会わせない、って言われたし」
馨が……?
馨がそんな風に言うのを想像できなかったが、本当なら嬉しかった。いつも物分かりのいい馨が嫉妬や独占欲を見せるのは気分がいい。
「もしかして、言わずに来た?」
「まさか。馨は話しのわからない女じゃない」
「そう……。信頼しているのね」
玲にカップを差し出され、受け取った。
「当然だろう」
「けど、ここに来たってことは、ご両親からは反対されたんでしょう?」
玲は俺の正面に座り、カップに口をつけた。
「雄大のご両親に反対されたまま、那須川さんと結婚できる?」
そう言って微笑む玲は、かつて俺が抱いた女とは別人のよう。俺の知っている玲は自信に満ちていて、何事にも誰にでも真っ向勝負を挑む、勇ましい女だった。
こんな、裏で策略を張り巡らせるような女じゃない。
そんな女じゃなかった……はずだ——。
「お前が俺との結婚を望んでいるなんて、驚いたよ。その為に、あんな男と手を組むのも——」
俺と玲の写真がメールでバラまかれた日、広川が馨に言った。
『写真の女は部長の元カノなんでしょう?』
黛が写真を見て俺と玲の関係を探ったにしても、早すぎる。それに、俺と玲は一緒に出掛けたことも、写真を撮ったこともない。俺と玲の関係は、俺か玲が認めなければ立証できない。
「欲しいものの為ならどんなことでもするわ。私に限ったことじゃないでしょう?」
認めた……か。
敵の敵は味方、とはよく言ったものだ。
「欲しいもの、ってのは?」
「え?」
「お前の欲しいものってなんだよ」
玲はくすっと笑う。
「雄大以外に何があるの?」
「理由は?」
「好きだから、愛しているからに決まっているじゃない」
全く、心に響かなかった。
馨に言われた『好き』のように、身体が熱くなったりもしない。
「付き合ってる時は、言われたことなかったよな」
「……そうね。あなたから言わせたかったから……」
「なら、何で今頃?」
「現在《いま》だからよ」
「三年以上も経って何を——」
「どうして那須川さんなの?」
どうして……?
「何年も一緒に働いてきて、私と付き合っている間も彼女とは毎日顔を合わせてたんでしょう? なのに、どうして今頃になって……」
そんなこと……俺が聞きたいくらいだ。
「立波リゾートって、そんなに魅力?」
玲は、俺が立波リゾート欲しさに馨と結婚すると思っているのか——?
「立波リゾートは関係ない。馨との結婚に付随するものではあるが、目的ではない」
わざとまどろっこしい言い方をした。玲がどこまで知っているかわからない。
「それならば、尚更わからないわ。あんなに結婚に否定的だったあなたが、どうして——」
「結婚したいと思える相手に出会ったからだ」
少し前の俺ならば、絶対に口にしなかった。考えもしなかった。
「馨を好きになって、俺のものにしたいと思った。それだけだ」
恥ずかしいとも思わず、玲の目を見て言った自分に驚いた。
まさか、俺がこんなことを言うなんてな……。
「俺は、馨を愛してるんだよ」
玲が歯を食いしばった。
すっきりした。
契約だの共犯だのと難しく考えずに、言葉にしてみれば単純なこと。
ずっと部下として接してきた。真面目で優秀で信頼出来る部下。その部下の『女』の顔を見た。そして、欲しくなった。
少し触れたら、もっと触れたくなった。一度抱いたら、もっと抱きたくなった。
そして、俺以外の男に触れさせたくないと思った。
馨の全てを独り占めしたい——。
「——じゃあ……彼女は?」と言いながら、玲が立ち上がった。
「は?」
「那須川さんは雄大を愛してるの?」
「そうでなきゃ、結婚なんかするかよ」
「立波リゾートを手に入れるための駒が欲しいだけじゃないの——?」と言って、カップにコーヒーを注ぐ。
「狙った駒を妹に奪われたから、次の駒にあなたを選んだだけじゃないの」
黛が玲に何を吹き込んだのか、わかってきた。
馨は結婚相手として黛に目をつけたが、黛は妹を選んだ。そして、黛よりも条件のいい相手として俺に狙いを替えた。
大方、そういうことだろう。
俺に未練のある玲が聞かされれば、当然俺たちの仲を裂こうとする。
「玲、お前はもっと人を見る目があると思ったよ」
「どういう……意味よ」
「馨と会って、話をして、そんな腹黒い女だと思ったのか?」
「大人しそうな顔したって、何を考えているのかわからないのが人間じゃない」
「そう思いたいだけじゃないのか」と言って、俺はコーヒーを一口飲んだ。
「まあ、いいさ。とにかく、俺と馨の結婚はお前には何の関係もない。俺の親にも、お前の親にも、だ。俺がここに来たのは、お前の気持ちにケリをつけてもらいたいと思ったからだ。二度はない」
もう一口飲んで、少し乱暴にカップを置いた。
「もう、俺と馨に関わるな」
「二人して……同じことを言うのね——」
振り向いた玲の手に湯気の上るカップを見た時、その手が傾いた。
「玲!」
止める間などあるはずもなく、玲の手からカップが落ちる。きゃっ! と小さな悲鳴が聞こえた。
深紅のブラウスの大きく開いた襟から、黒い染みが下に広がる。
俺は急いで玲の手を掴んで洗面所に連れて行き、掛けてあるタオルを水で濡らそうとした。が、出来なかった。いや、正確にはタオルは濡れた。
不意に腕を掴まれ、開け放たれていた浴室に引っ張って行かれた途端、頭から冷たいシャワーをかぶった。
「なにを——っ」
玲の手が俺の首に絡みつき、唇が重なる。ハッとして、玲の腕を払いのけた。
「玲!」
俺が冷やすまでもなく、玲も全身ずぶ濡れ。
「どうして私じゃダメなのよ!」
ドンッと勢いよく拳で胸を叩かれた。
「二年も一緒にいたのよ? 雄大の仕事の邪魔はしなかったし、我儘も言わなかったわ! 言われた通り、付き合っていることを誰にも言わなかった。いつか……。いつか雄大が結婚したいと思ってくれたらいいって……思って……」
玲の涙がシャワーと一緒に流れる。
初めて見る、玲の涙。
「別れを切り出したのはお前だろ」
別れる時でさえ、泣いたりしなかった。
「転勤になった、って言っただけよ! 別れたいなんて言ってない!!」
こんな風に、感情をむき出しに声を荒げる玲を、俺は知らない。
「お前も納得しただろう!」
「泣いて縋れば良かったの!? そんなことをしても、意味がないことくらいわかってたわよ!」
「いい加減にしろ! 今更、何を言っても——」
「あなたが引き留めてくれたら! 仕事を辞めてもいいと思ってた! 引き留めて欲しいと……思って……たのに……」
玲がずるずると座り込む。
「今も……愛してるの……」
俺はシャワーを止めた。
「あなたを……誰にも渡したくない——」
嗚咽が響く。
「愛してるの!」
これ以上、聞いていられなかった。
「服を……脱げ。クリーニングに出すから」
俺は浴室を出てドアを閉めた。
きれいに別れたつもりでいたとか、俺はどれだけ自分勝手だったんだ——。
玲のすすり泣く声が、耳につく。
俺を想って泣く女の声に、哀れみしか感じない。
寒かった。
馨に温めて欲しかった。
ケーキ、溶けちまったかな……。
そんなことを考える自分の薄情さに、笑えた。