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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
観月会から三日たっても、門の前の砂利には、パトカーのタイヤの跡が残っていた。
朝の七時、私は勝手口の前を掃いていた。
坂の下から上がってきた新聞配達の青年が、門の内側をちらりと見て、すぐに目をそらした。
白樺台には、二つの噂が流れている。
御影の後妻が、前の奥さんを殺して捕まったこと。
それから、御影の家の家政婦と、先代の外の子が、夜中に離れで抱き合っていたこと。
駅前のパン屋のレジでも、和菓子屋の店先でも、私が入っていくと、話し声がふっと途切れた。
かまわなかった。
片方は本当のことで、もう片方も、嘘ではないのだから。
麗奈が寝起きしていた和館の客間は、私が掃除をして、雨戸を閉めた。
鏡台の上に、付け爪の空き箱が一つだけ残っていた。中は、空っぽだった。
*
洋館の空き瓶の箱に、ウイスキーの瓶が三本たまっていた。
観月会の前の週には、一本もなかった箱だった。
蒼真は、もう会社へ行かなかった。
書斎にこもり、電話が鳴るたびに、大きな声を出した。
その声は、竪穴を伝って、厨房に降りてきた。
「臨時の取締役会? 誰が呼んだんだ。……解任動議って、何だよ、それ」
私は、流しの前で、陽翔のお弁当箱を洗っていた。
「僕が作った会社だぞ。九年、僕が――。投資家に返す金? 知るか。監査が勝手に止めたんだろう」
受話器を叩きつける音がした。
それから、氷がグラスに落ちる音。
昼前、郵便受けに、生命保険会社の青い封筒が届いていた。
十月に、蒼真が麗奈に掛けようとした、一億の保険の会社だった。
宛名は、御影蒼真様。
封筒の窓から、「お申し込みの審査について」という文字だけが見えた。
被保険者が、殺人の容疑で勾留されている。
そんな人に、保険会社が一億を約束するはずがなかった。
私は、封筒を、ほかの郵便物と揃えて、書斎の前の盆にのせた。
「旦那様、郵便でございます」
扉の向こうから、返事はなかった。
*
その夜、蒼真は、珍しく食堂に下りてきた。
お義母さまと、陽翔と、三人の夕食だった。
麗奈の席には、椅子だけが残っていた。
「一周忌のことだけど」
蒼真は、ナイフを置いて言った。
髭を剃り、白いシャツにアイロンの効いた襟を立てていた。観月会の夜からこっち、一番まともな顔だった。
「遍照寺じゃなく、ホテルでやる。グランメールの、翠の間を押さえた。お坊さんにも、ホテルに来てもらう」
「ホテル?」
お義母さまが、箸を止めた。
「御影の法事を、ホテルで?」
「記者も呼ぶ」
蒼真は、えくぼを作った。
「会社の人間も、取引先も、全員。……妻を事故で亡くして、一年たったら、後妻に裏切られた。世間がどっちの味方をするか、わかるだろ」
お義母さまは、黙っていた。
「同情は、金になるんだよ、母さん。今の僕に、一番必要なものだ」
私は、空いた皿を下げながら、蒼真の横顔を見ていた。
二年前の春、この人は、陽翔の手から包丁をもぎ取った私の指に、布巾を巻いた。
声を震わせて、動くな、澪、と言った。
その人が、今は、私の一周忌を、記者の前で泣くための舞台にしようとしている。
*
食後のお茶を運んでいくと、食卓の上に、厚い冊子が一冊、置いてあった。
表紙に、雪をかぶった山と、湖と、石造りの建物。
英語の題字の下に、小さく、日本語の紙が貼ってあった。
スイスの、全寮制の学校の案内だった。
「陽翔」
蒼真は、冊子を陽翔の前へ滑らせた。
「年が明けたら、ここに行くんだ。きれいだろ。湖でボートにも乗れる。日本の子も、何人もいるそうだ」
陽翔は、冊子を見なかった。
膝の上で、ぴょんたの耳を、両手で握っていた。
「……いかない」
「陽翔」
「いきたくない」
小さな声だった。
それでも、はっきりと言った。
「この家に、いたら、陽翔のためにならない。パパは、陽翔に、いい学校に行ってほしいんだよ」
「お待ちなさい」
お義母さまの声が、低く響いた。
「六つにもならない子を、海の向こうへやるつもり?」
「母さんには、もう、何の権利もないだろ」
蒼真は、笑ったまま言った。
「遺言を隠して、全部なくしたのは、母さんだ。この家の女主人でもない。……陽翔の親権者は、僕だよ。僕が決める」
お義母さまの手が、湯呑みの横で、止まった。
陽翔の目から、涙が一粒、ぴょんたの頭に落ちた。
声は、出さなかった。
この子は、悲しいときほど、声を出さずに泣く。
盆を持つ手袋の中で、指が冷たくなった。
法律の上で、陽翔の親は、二人いる。
父親の、御影蒼真。
それから、三年前に養子縁組の届に左手で署名した、母親の、御影澪。
でも、その母親は、戸籍の上では、死んでいる。
死んだ人間は、何も言えない。
親権者は、生きているほうの、一人だけだった。
陽翔のことは、澪さんに頼みたい。
十月の茶室で、お義母さまが読み上げた、お義父さまの最後の一行がよみがえった。
あの付け足しの言葉に、親権を動かす力はない。倉橋先生は、そう言っていた。
「坊ちゃん、お茶が冷めますので」
私は、陽翔の前に、ぬるいほうじ茶を置いた。
凛の声だった。
本当は、今すぐこの子を抱き上げて、どこにも行かせないと叫びたかった。
陽翔は、湯呑みに手を伸ばさなかった。
代わりに、テーブルの下で、自分の耳を、そっと二回触った。
*
九時、離れの戸を叩くと、玲司さんは、もう事情を知っていた。
「叔母から電話があった。義母が、泣きそうな声で掛けてきたそうだ」
お義母さまが、多恵子叔母さまに。
四十年張り合ってきた相手に、泣きつくような声で。
「止められますか」
卓袱台の前に座る前に、私は聞いていた。
玲司さんは、すぐには答えなかった。
左手の甲の、桃色の痕を、右の親指でなぞった。
「親権を止めてくれと、家庭裁判所に申し立てることはできる。祖母にあたる義母でも、伯父の俺でも。……だが、調べて、話を聞いて、決まるまでに、何か月もかかる。年明けには、間に合わない」
「……」
「間に合わせる方法は、一つしかない」
玲司さんは、私を見た。
「陽翔の、もう一人の親が、生きていると名乗り出ることだ」
ムギが、私の膝に顎をのせた。
わかっていた。
一周忌の日まで、あと十四日。私が凛でいられる時間も、同じだけ残っていた。
*
夜の十時、厨房の灯りを落とす前に、パジャマの陽翔が、ぴょんたを抱いて下りてきた。
十三段目を、きちんと跨いで。
「ママ」
二人きりのときだけの、呼び方だった。
「ぼく、とおくに、行くの?」
私は、上がり框にしゃがんで、陽翔と目の高さを合わせた。
行かせない、と言いたかった。
でも、約束できないことを、この子に約束したくなかった。耳ぽんぽんは、守れる約束にしか使わない。この子と、そう決めていた。
「……ママが、なんとかする」
それだけ言った。
陽翔は、しばらく私の顔を見ていた。
それから、私の耳を、二回、ぽんぽんと叩いた。
約束、ではなかった。
がんばって、の合図だった。
私も、小さな耳を二回叩き返して、陽翔を二階まで送った。
*
厨房に戻ると、灯りがついていた。
蒼真が、配膳台にもたれて、グラスを持っていた。
氷が、ほとんど溶けていた。
「陽翔、泣いてたろ」
「……はい」
「すぐ慣れるさ。子どもなんて、そんなもんだ」
蒼真は、グラスを揺らした。
左手首で、私が贈った腕時計が、灯りを跳ね返した。
「凛さん。観月会の写真、見たよ。兄さんと、ずいぶん仲がいいんだね」
「……」
「いいよ、別に。兄さんは昔から、人のものが欲しくなる人だった」
氷が、からりと鳴った。
蒼真は、グラスを配膳台に置き、私をまっすぐに見た。
「一周忌が終わったら、陽翔は寄宿学校へ行かせる。……凛さん、君もそれで暇をとってくれ」
コメント
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第71話、読み終わりました……。 陽翔くんが「ママ」って呼ぶ場面と、耳ぽんぽんのやり取り、もう本当に胸がぎゅっとなりました。この子、泣き声すら出さずに耐えてるんだなって思うと、涙が出そうでした。澪さんが「ママがなんとかする」としか言えなかったのも、約束できないことを子どもにしないっていうあの親子のルール、物凄く響きました。 蒼真さんの“同情は金になる”っていう台詞、背筋が冷たくなりましたね。あの時陽翔の手から包丁を奪った人なのに。 残り十四日…玲司さんが言った“名乗り出る”という選択肢、どうなるんでしょうか。もう、続きが気になって夜しか眠れません…