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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
暇をとってくれ、と言われた翌日の午後、お義母さまに茶室へ呼ばれた。
「お湯を沸かしておきなさい。それから、水屋の棚の奥の、白い茶碗を」
それだけ言って、お義母さまは和館の廊下を戻っていった。
三枚目と七枚目の、鳴る板を、いつものように鳴らして。
水屋の棚の奥に手を入れると、指先が、欠けた縁に触れた。
白い、何の銘もない茶碗だった。
三年前の冬、お義母さまが私に投げつけ、水屋の柱に当たって縁が欠けたもの。欠けを内側に向けて、ずっとここにしまわれていた。
捨てられていなかった。
七月にも、十月にも、私はそれを見ていた。見ないふりをしてきた。
*
十一月に入って、茶室は炉になっていた。
今年の炉開きに、客は一人もいなかった。
お義母さまは、十月の終わりに、一人で風炉の灰を上げ、一人で炉の蓋を開けたのだという。
釜の湯が、松風の音を立てていた。
「そこに座りなさい」
お義母さまは、客の座を、扇子で指した。
「……使用人が、お客様のお席には」
「今日は、使用人を呼んだ覚えはないわ」
私は、手袋の手を膝の前について、客の座に入った。
お義母さまは、帛紗をさばいた。
朱の帛紗だった。七月の茶会でも、この人はこの色を使った。
茶杓が、白い茶碗の縁で、こつんと鳴った。
湯を注ぐ。茶筅を振る。
私が嫁いだ年、何百回も見せられた手つきだった。手首の返しが遅いと、扇子で手の甲を打たれた。
お義母さまは、茶碗を、私の前に置いた。
ほんの少しだけ、内側に寄せて。
この人の癖だった。
客の手が、一番取りやすい角度に。
「いただきます」
欠けた縁を避けて、口をつけた。
ぬるかった。
私が三年間、お義母さまに出してきた温度だった。熱いお茶は喉に障る、と、この人が一度だけこぼした冬から。
「結構なお点前でございます」
凛として、そう言った。
本当は、この茶碗で飲まされるお茶の意味を、問いただしたかった。
お義母さまは、釜の蓋を閉めた。
「その茶碗、捨てられなかったのよ」
私は、茶碗を膝の前に置いた。
「投げたあとで、拾って、欠けを内側に向けてしまったの。見るたびに、腹が立った。あなたにじゃないわ。……自分にね」
お義母さまは、炉の中の炭に、目を落とした。
「茶会の日から、知っていたわ」
お義母さまの声は、平らだった。
「あなたが、澪さんだって」
釜の湯の音だけが、聞こえていた。
「お菓子を出して、深く頭を下げたとき。耳の後ろの髪が落ちて、ほくろが二つ見えた。……お茶を教えたとき、後ろから何百回も見たものよ。嫁の首は、姑が一番よく見ているの」
私は、何も言わなかった。
言い逃れの言葉なら、いくらでも用意してあった。
旅館の女将の口癖です。ほくろなど、珍しくもございません。
でも、目の前の欠けた茶碗が、それを全部、喉の奥へ押し戻した。
「それから、毎朝の柱時計。回数なんて教えていないのに、きっちり八回で止める。お仏壇の老眼鏡も。……家政婦は、嫁の癖まで覚えて来ないわ」
この人は、ずっと見ていた。
振り子の裏のカメラではなく、自分の目で。
「十月に、着付けのときに確かめようとしたわね。陽翔に邪魔されたけれど」
お義母さまは、膝の上で扇子を閉じた。
「あの子も、知っているのでしょう」
「……はい」
凛の声で、そう答えた。
それが、私の降参だった。
*
「もう一つ、話すことがあるの」
お義母さまは、背筋を伸ばしたまま言った。
「去年の十一月二十一日の朝。まだ暗いうちに、ワインセラーへ下りたの。宗一郎さんの好きだったワインを一本、仏壇に供えようと思って」
息が、止まった。
「リフトの扉が、少し開いていたわ。箱の中に、銀色の、小さな機械があった」
あの夜、私が竪穴の底へ下ろしたもの。
「あなたが、いつも台所で、料理の手順を吹き込んでいたものね。……再生したわ。セラーの、冷たい床に座ったまま」
お義母さまの指が、帯揚げの上で、一度だけ動いた。
「蒼真の声だった。ブレーキは、堂島に、と」
「それを、聞いて」
私の声が、かすれた。
「それを聞いて、お義母さまは」
その呼び方が、唇から、するりとこぼれた。
一年間、何度も喉元まで出かけては、噛み殺してきた呼び方だった。
お義母さまのまぶたが、一度だけ、震えた。
「その日のうちに、お寺に電話をしたわ。御影のしきたりだと言って、明日には焼くようにと」
「知っていて」
膝の上で、手袋の指が、勝手に握りこまれた。
「知っていて、私の葬式を出したんですか」
声が、茶室の土壁に跳ね返った。
この家で、私は一度も、この人に声を荒げたことがなかった。
炭を捨てて一晩正座させられた夜も、茶碗を投げつけられた冬も。
「運転席にいたのは、私じゃありませんでした」
止まらなかった。
「佐伯凛さんです。お義母さまが、あの日の夕方に面接をして、採用した人です。来月から人手が要るからと言われて、嬉しそうに坂を下りていた人です」
お義母さまの唇が、わずかに開いた。
「その人の顔を、誰も確かめなかった。指輪とコートだけで、私だと言って。……凛さんは、私の名前で、焼かれたんです。お義母さまが急がせたせいで」
「……面接の日」
お義母さまが、ぽつりと言った。
「よく、笑う子だったわ。お屋敷の靴がわからなくて、運動靴で来たと言って、恥ずかしそうに」
その声は、私に向けられていなかった。
炉の中の、赤い炭に向けられていた。
「どうして」
私は、もう一度聞いた。
「どうして、警察に、それを」
お義母さまは、目を伏せた。
長い沈黙だった。
釜の湯が、細く鳴り続けていた。
「あの子は、私の息子よ」
それだけだった。
一月の、雪の遍照寺を思い出した。
杉の陰から、私は自分の四十九日を見ていた。喪服の背筋をまっすぐに伸ばして、焼香の列の先頭に立っていたこの人を。
あのとき、この人は、骨壺の中にいるのが誰なのかを知らなかった。
けれど、なぜそこに入ることになったのかは、全部知っていた。
言い訳も、謝罪も、なかった。
四十年、この家で体面だけを守ってきた人の、それが、たった一つの答えだった。
「陽翔も」
私は、膝の上の手袋を、ほどくように開いた。
「陽翔も、私の息子です」
お義母さまが、顔を上げた。
「お腹を痛めた子じゃありません。一歳のときに、左手で届に名前を書いただけの子です。でも、私は、あの子のためなら、坂の下から何度でも這い上がります」
あの夜も、そうだった。
燃える車の横の泥の中で、私の頭にあったのは、陽翔の明日のお弁当のことだった。
「お義母さまが息子を守ったように、私も、私の息子を守ります。……誰の手からでも」
お義母さまは、しばらく私を見ていた。
それから、ほんのわずかに、唇の端を動かした。笑ったのかどうか、わからなかった。
「三年前のあなたは、そんな口のきき方はしなかったわ」
「三年前の私は、一度、死にましたから」
*
お義母さまは、帯揚げの中に、指を差し入れた。
藤色の絹の中から、銀色の、手のひらに収まるものが出てきた。
一年ぶりに見る、私のレコーダーだった。
角の塗装が、少し剥げていた。お義母さまの体温で、一年間、温められてきたもの。
手を伸ばしかけた。
お義母さまは、それを、私の届かない膝の上に置いた。
「蒼真は、陽翔を、海の向こうへやると言ったわね」
「……はい」
「止めたいのは、私も同じよ。……陽翔がいなくなったら、この家に、私を好きな人間は一人もいなくなるもの」
お義母さまは、レコーダーを指でなぞった。
「でも、これを渡せば」
その指が、止まった。
「これを渡せば、私は息子を殺すことになる」
お義母さまは、もう一度、帯揚げの中にそれをしまった。
藤色の絹の上から、手のひらで、そっと押さえた。
それから、私の目をまっすぐに見た。
「あなたは、私に、何をくれるの」
コメント
1件
ああ、これは…重いけど、とても美しいエピソードでしたね。「知っていた」というタイトルが全てを物語っていて、お義母さまが最初から気づいていたという事実に背筋が伸びる思いです。茶碗の欠けや、ぬるいお茶の温度に込められた三年間の視線の重みがじんわりと伝わってきて、胸が締め付けられました。最後の「何をくれるの」という問いかけ、緊張感が半端なかったです。