「ごめ、なさっ」
「構わないよ」
慌てて身体を離そうとしたのに、すかさず尽からギュッと手を握られ肩を抱かれた天莉は、触れた所から激流のように流れ込んでくる尽の温もりに、ますます身動きが取れなくなった。
天莉は先程尽が言ったように、確かに猫グッズが好きだったけれど、婚姻届ともなると話は別だ。
まるで自分のために用意したんだと言わんばかりに置かれた眼前の書類に、天莉はどう反応したらいいのか分からなくなる。
さっき夕飯のことで問い掛けられた時もそうだったけれど、尽はやたらと天莉の情報に詳しい気がして。
そのことにもゾクリと背筋が寒くなった天莉だ。
いささか強引なところはあるけれど、まさかこのハイスペックな高嶺常務ともあろうお方が、一介の平社員である自分にストーキング行為をしていたとは思いたくない。
「な、んで……」
それで、天莉はひとまず婚姻届のことは頭の外へ無理矢理追い出して、そこを問い詰めてみようと思った。
「ん?」
「高、嶺常務は……私が猫グッズが好きだとご存知なんですか? ……さっき、夕飯の件で好き嫌い云々について尋ねられた時にも違和感があったんですけど……」
なるべく尽から距離を取るように身体を右側へ傾けつつ。
懸命に言葉を絞り出したら、クスッと笑われてしまった。
「何だ、キミはそんなことを気にしていたのか」
言って、尽は何でもないことのようにスーツの内ポケットから取り出した高級そうなペンを婚姻届の傍に添えると、「たまたま別件でキミのことを調査していたからね」と微笑んだ。
***
「別件……?」
天莉がますます疑問を深めたように自分を見てきたから、尽は小さく吐息を落とした。
「業務に関わることだから詳しくは話せないんだが――」
前置きをして、尽は本当の調査対象は天莉ではなく彼女の部署の別の人物で、天莉のことは本丸と同じ部署にいた関係で色々知ることになっただけだ、と話すに留めた。
(まぁ、うちの秘書は優秀だからな)
実際そんなところまで要らないだろうという情報も、直樹は事細かに調べ上げて尽に報告してくれたから。
調査資料に目を通す中で、玉木天莉という女性が食に対して好き嫌いがほとんどないことも、料理をするのが好きなことも、猫グッズを集めて会社で使っていることも――その他のアレやコレやな情報も――尽は詳細に記憶していたりする。
「えっと、……つまりは私だけを調べていたわけではない、と――。そういうことです、ね?」
ややしてうかがうように問い掛けられた尽は、「もちろんだよ」と即答したのだけれど。
天莉の事を知っていく中で、ゆくゆくは自分の身の安泰のために、漠然と彼女のようなタイプの女性を手中に収められたらいいなと思っていたことは秘密だ。
(横野が彼女を捨ててくれたことは、俺にとっては僥倖だっただなんて言ったら、天莉は怒るだろうか)
高級ホテルの前で、見知った三人の男女が揉めているのを目にしたとき、尽は天莉の凛とした態度を見て、〝天莉のような女性を〟と言う不確かだった気持ちが、〝天莉をこそ〟絡め取りたいと心変わりしたことを覚えている。
(まさかそう思った翌日に、こんなチャンスに恵まれるだなんて思ってもみなかったけどね)
ある意味、自分はやはり〝持っている〟人間なのだと尽は思う。
根回しが足りなさ過ぎて、尽にとって一番の味方であるはずの直樹が危うく障害になりそうだったのには少し驚かされたが、まぁ今こうして天莉を自宅に連れ込めているのだから結果オーライだろう。
***
「それで――」
話の区切り目が見えたと感じた尽は、目の前に置かれた猫満載のコミカルな書面に、矢羽根をかたどったクリップが特徴的な黒のボールペンを添えて天莉の方へそっと寄せ直した。
「さっきの話の続きなんだがね……」
繰り出し式のペン先は、先程ポケットから取り出した際にすぐ使えるよう軸から覗かせてある。
尽が動かしたことでゆらゆらと紙の上で揺れたペンの、ペン軸の繋ぎ目に入った金色のリングが、淡いクリーム色のシーリングライトの光をキラリと跳ね返した。
尽の手によく馴染む流線型のフォルムが美しいそのペンは、インクがなくなるたびに替え芯を入れ替えては、二十歳の頃から愛用している、高級筆記具ブランド『パーカー社』のソネットシリーズのものだ。
これを人に貸したことは……それこそ直樹と璃杜くらいにしかないのだが、そこに天莉を加えるのも悪くないと思って。
「あ、あの……私……」
急に婚姻届へ話を戻されたことに、天莉が明らかにオロオロと瞳を揺らせたのが分かった。
だがそれも、尽にとっては想定の範囲内。
「キミは……『叶うものなら今すぐにでも結婚したい』んだろう?」
それは、天莉が執務室でうなされながら発した寝言だった。
だが、例え寝言とはいえ、あんな自分にとって都合の良い言葉を聞き逃してやるつもりはないのだ。
「そ、れはっ」
「長年付き合ってきた恋人を後輩に呆気なく奪われて……。つい悔しまぎれに見た夢でうなされて出ただけの、ただの寝言だとでも言うつもりか?」
尽は、そこでわざと天莉を冷ややかに見下ろしてみせる。
「そっ、そこまで分かっていらっしゃるのなら……!」
天莉が尽の視線に耐えかねたように顔をうつむけて、「聞かなかったことにしてください……」と消え入りそうな声音でぼそりと付け足すから。
尽は、あえて天莉が再度自分の方を向くように彼女の手を握った。
「た、かみね常、務……っ!?」
その手を振りほどこうと、天莉がおびえたような視線を自分に向けたのを確認して、尽は畳み掛けるなら今だ、と思った。
「なぁ、天莉。キミは何にも悪いことなんてしていないのに、彼らから馬鹿にされたままで構わないって言うの? 彼らにされたことがショックで打ちのめされたから……。何で自分がこんな目に遭わなきゃいけないの?って思ってるから……。そんなに憔悴し切っているんじゃないのかね?」
「そ、れは……」
「キミをないがしろにした奴らなんて、俺と一緒になって見返してやればいい。――そのために俺を利用しろ」
「で、でも、高嶺常務っ! ……それでは貴方に何のメリットも……!」
(やはりそうきたか)
余りに予想通りの反応に、尽は心の中で密かに笑った。
尽の知る限り、玉木天莉という女性は真面目で誠実。
他人に迷惑をかけることを嫌い、自分を犠牲にすることはあっても、他者をおとしめたり利用するような真似は決してするようなタイプじゃない。
そんな天莉だからこそ、自分が理不尽なことをされて人一倍苦しんでいるとも言えた。
天莉が、尽からの言葉に『自分ばかりが得をする、そんな提案は受け入れられない』と難色を示すのはある意味想定の範囲内だったから。
尽は捕らえたままの天莉の手をギュッと強く握り直した。
「詳しくは話せないが、俺にももちろんメリットはある。でなきゃこんな提案自体するわけがないだろう?」
「でも……」
「天莉、キミは俺を買いかぶり過ぎだ。人の上に立つ人間がそんな甘い考えばかりじゃいられないことくらい、賢いキミなら分かるよね?」
そこまで言っても尚、天莉がそわそわと落ち着かない様子で尽の手から自分の手を取り戻そうとするから。
尽はわざとこれみよがしに吐息を落として、ならば仕方がない、という体で畳み掛けた。
「もし目に見えて俺に得がないように見えるのが不服だと言うのなら……そうだな。俺を利用する見返りとして、結婚したらキミの全てを俺にくれるというのはどうかね?」
「えっ?」
「俺はね、天莉。キミと婚姻契約を結んだ暁には、よその女に手を出すことは一切しないと心に決めているんだ。例え相手が性を売るのを仕事にしているような女性だとしても、ね?」
散々女遊びをしておいて何だが、身を固めるとなれば話は別。
「そういうのは世間一般的に見て、許されることじゃないからね。――この意味が分かるかな?」
そんなことをすれば、家族大好き人間の秘書――直樹が黙っていないだろうし、実際そう言うスキャンダラスなことは尽の足をすくいかねないから。
尽は自分の立場をわざわざ悪くするような馬鹿な真似をする気なんてさらさらない。
「要するにね、天莉。俺の欲求を満たしてくれるのは必然的にキミしかいないということになる」
――この話はもう少ししてから話すつもりだったんだが、キミが見返りを気にすると言うから仕方なく話すんだ、とか何とかもっともらしい理由を交えつつ。
「俺は全身全霊を掛けてキミを愛すると誓おう。もちろん天莉を傷つけた二人を見返す手助けだってしてやるさ。――だがな天莉。その代償として、キミは俺に全てを捧げなくちゃいけない」
やむを得ず手の内を明かしたと言う様相で話したが、実際にはココこそが本題。元よりこれを譲る気なんて微塵もなかった尽だ。
(抱けない女と添い遂げられるほど、俺は聖人君子じゃないんでね)
「なっ……」
いきなりセンシティブな部分に切り込んだからだろう。
天莉がギュッと身体を固くして、ますます尽から遠ざかろうとするから。
尽は握りっぱなしにしていた天莉の手をあえて緩めて逃がしてやると、おもむろにソファから立ち上がった。
そこで、タイミングを見計らったようにインターフォンが鳴る。
「悪い話じゃないはずだよ、天莉。少しの間考えてみて? けど、とりあえず今は――」
尽は多くは待たないよ?と含ませてからインターフォンに応じると、固まったままの天莉を残して玄関へ向かう。
十数秒後、ほわほわと湯気のくゆるうどんの器を二つ手にしてリビングへ戻ってきたら、天莉がおびえた顔で尽を見詰めてきた。
まぁそれも、尽にとっては想定の範囲内だった――。
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