屋敷へと帰る道すがら、夢龍の頭の中では、京成の企みが渦巻いていた。
「摂政様、実は、私の甥が南原で、長《おさ》の職に着いておりまして」
「ほお、南原とな?全羅道《ぜんらどう》の要だな。古代に遡《さかのぼ》れば、百済《くだら》が栄え、新羅《しんら》が栄えた。すべては、かの地が豊かな、農産地であったが為。事実、南原から納められた穀物が、我が国の財政基盤、と言っても過言ではない。ほお、その地を、京成、そなたの甥が治めておるのか」
「その、豊富な財源を持つ土地で、私欲を貪っておらぬか心配なのです。あれに限って、そのようなことは。しかし、魔が差す、ということもございましょう。それに、かの地は、昔より、不正が多いところでございますから」
──お前達の都合など知ったことか。と、夢龍がその場で言えたなら、どれ程楽だったろう。
つまりは、京成の甥が、起こしている不正まみれの事実を何も問題はないと報告させるため、身内の保身のため、京成は夢龍を推挙したのだ。
不正を正す暗行御史《アメンオサ》のお墨付き。それ以上の守りは無いだろう。
まんまと、嵌《は》められたのだと、夢龍は悔しさと悲しさとに襲われつつ、自身も、既に共犯であると悟る。
あわよくば、京成や、摂政の張達に取り入って、立身出世をと夢龍の中で芽生えていたものは、あっさり、不正と服従という名の元に消えた。
従わねばなるまい。既に、彼らの身の振り方には、夢龍の名が刻まれているのだから。
父のようにはなりたくない。その思いをも、まんまと利用されたとは……。
屋敷へ向かう夢龍の足取りは、重く、まるで、鉛のように感じられた。
──こうして、失意の内に合格の知らせは届き、暗行御史《アメンオサ》の職が与えられた。
あくまでも、王直属の密使である為に、職、については公に明かされておらず、知るのは夢龍のみ、と言うことになっている。
夢龍の手元には暗行御史《アメンオサ》の証といえる、任命書「封書」、派遣先を指示する文書「事目」、出動時に駅馬を徴発する「馬牌」の札、度量衡が正確であるかどうかの判定、はたまた、不審な遺体を見つけた時に、様々を測る真鍮の定規「鍮尺」があった。
そして、「封書」の表面には「到南大門外開坼」と記されている。
都の正門である、南大門の外へ出たあとでなければ開封を許されないという意味で、その開封により初めて自身の赴任地を知ることになるのだが、夢龍は違っていた……。
ともかくも、出発しなければならない。しかし、屋敷から姿を消すといことは、それなりの理由が必要になる。
夢龍は、兄にそれらを見せた。
兄は、黙って頷くと、路銀の足しにすればよいと、金子を差し出してきた。
そして、後はこちらで何とかすると、臥せる床から微笑んだのだった。
こうして、包み一つ抱え、夢龍は旅立った。
南大門を出て、任命書「封書」を開封すべきだが、着任地は、わかっている。今さらとも、思ったが、ふと、京成の甥である、長、とやらの名を知らぬ事に気がついた。
封書には書かれているはずだ。南原府使──、長官、某を捜査せよと。
開封した封書には、思った通り、要件と共に、南原府使、下学徒《ペョン・ガクト》の名が記され、そして、印が二つ仰々しく押されてあった。
威厳あるはずの王の印。しかし、夢龍には、何も感じ得なかった。ため息混じりで、封書を仕舞いかけたその時、
「はあー、坊っちゃん、よりにもよって、学徒様のお世話ですかい」
どこか、聞き覚えのある声がした。
夢龍が、振り返ると、屋敷で夢龍付きだった、房子《パンジャ》と呼ばれる、下僕《にいや》が、馬を引き、顔をほころばせていた。
「……兄上か?」
へい、と、パンジャは答える。
暗行御史《アメンオサ》には、僕《しもべ》の同行が許されていた。
ある時は、身繕いの世話をし、ある時は、馬を引く馬丁となり、そして、ある時は、情報収集を行い、身分を隠す主《あるじ》を助ける。
「まあ、事無し。で、終わらせるんでしょうが、それでも、坊っちゃん、一人旅よりは、パンジャがいる方が、楽しゅうございますよ!」
「ははは、そのようだな」
夢龍は、笑った。この男は、何もかも承知、身の振り方も、わかっている。学徒の名を見て、ピンときたのだろう。
「なあ、パンジャ、お前なら、どうする?」
「へい、どうもしやしませんよ。面倒には、巻き込まれたくありませんからね」
言い切る、パンジャに、夢龍はさらに声をあげて笑った。
そうだ。何もしない、それが今回の使命なのだ。
不本意ではある。しかし、パンジャの言葉に、胸がつかえるような不快感に押し潰されていた夢龍は、あっさり救われたのだった。
最終試験の題目、梅花、のように、自然に訪れる息吹きに身を任せて置けばよい。
しごく簡単な事であり、また、それは、一番難関な事でもある。
簡単にするか、難関にするかは、つまり、夢龍次第──。
「おー、寒い。レンギョウに、木蓮に、梅まで、花開いているのに、ああ、これが、花冷えですかね」
また、埒も無いことを。
呆れる夢龍に、パンジャは馬に乗るよう勧め、
「今日は、十五日の市が、漢江《かわ》の向こう、チャムシルで、開かれていますよ?少し、旅支度を整えましょう」
と、言った。