「……あの人?」
男の人の口から出てきた新たな登場人物に首をかしげるけれど、彼は私の疑問には答える素振りは見せず、代わりに質問を返してきた。
「君ってさ、一人暮らし?」
「? ……はい」
どうして今、そんな質問を? と思いつつ、一応頷く。
「長いの?」
「大学入学の時に上京してきたので、まあそれなりには……」
「そっか。じゃあ、それなりに家事はできる感じかな」
綺麗好きと胸を張っては言えないけれど、散らかっている部屋はあまり好きではない。
ゴミ出しはちゃんとするし、棚に埃が積もっているなんてこともない。
料理も凝ったものはできないが、実家で同居していた祖母や母から基本は教わってきた。
樹杏は、私の家に来たらいつも綺麗にしていると褒めてくれるし、私が作ったご飯も美味しいと言ってくれる。
ただ、彼の言う『それなり』の度合がわからないので、『得意』とも『不得意』とも言えない。
それに彼がこんなことを聞いてくる意図がまったくわからないので、私は警戒心を滲ませつつ曖昧に言葉を濁した。
「それはまあ……一応ひと通りは?」」
私の返事に、彼はそっかそっかと頷く。
そして腕を組み、私の目を覗き込んだ。
「で、これ確認なんだけど、今休業中で、バイトを探そうかなーとか考えたりしてるんだよね?」
「はい。今すぐとは考えてはいなかったですけど、私が陥った現状を考えると明日には職探しに走らないといけないかな、と……」
「あと、一番大事なことを聞くけど……君、恋人はいる?」
「……………………はい?」
数十分前に初めて会った、名前も知らない男の人にいきなりずかずかとパーソナルスペースに入ってこられた感覚に、一瞬にして心のシャッターを下ろす。
すると彼は、敏感にそんな私の心の内を感じ取ったのか、なだめるように謝ってきた。
「あー、ごめん。こういうこと聞かれるの、嫌いな感じ? けど、別に下心があるとかそういうのじゃぜんっぜんないんだ」
「…………」
「別にどうしても答えたくないっていうのなら、答えなくていいけど、その代わり弁償は一括決定ってことで……」
「いません、恋人も、結婚相手も、友達も」
『一括』という言葉に、閉じたままの心のシャッター越しに返事する。
仲良くもない相手からプライベートなことを聞かれる不快感よりも、彼を不快にさせるほうが私のためにもならないとの咄嗟の本能から出た言葉だった。
それに、『加害者』である私がしていい態度とも思えなかった。
……とは頭ではわかっていても、強張ってしまった顔をどうすることもできなくて。
私は取り繕うように頭を下げた。
「……すみません。こういうこと聞かれるの、あまり得意じゃなくて」
「いやいや、頭上げて? 全然謝ることじゃないし。それに今の君の態度で、君がすっごく正直で真面目だってことはよくわかったし。……ってことで……」
男の人はコホンと咳払いすると、にっこりと私に微笑んだ。
「君、合格! 採用!」
「???はい???」
「実はオレ、ある人のサポートっていうか、身の回りの世話をしてくれる人を急ぎで探しててさ。ぜひ君にお願いできればなぁって」
「……お知り合いの方のお手伝いさんをしてほしいってことですか?」
「うーん……ちょっと違うんだけど、まあ似たようなもんかな? 」
「……初めて会ったどこの誰かもわからない人間に、いきなり頼むようなことではないような気がしますけど。私、一人暮らしをこなせる程度の家事はできますけど、プロではないですし」
「家事のプロを探してるわけじゃないよ。その人のサポートがメイン。だから、性格とかそういうの重視?」
「だったら尚更、私になんて頼むのはおかしいですよね?」
「そう?」
頷く私に、男の人は飄々とした顔で首をかしげてみせる。
「オレ、昔から人を見る目だけはあるんだよね」
「はあ……」
「そのサポートをしてほしいって人さ、現時点ではちょっと詳細は控えさせてもらいたいんだけど、悪い人じゃないってことは保証する。……ただちょっと偏屈っていうか、気難しいっていうか、超絶面倒くさい性格なんだよね。だからなかなか合う人が見つからなくてさ」
そう言うと、彼はにっこりと微笑んだ。
「けど、君みたいなタイプなら大丈夫ってオレの直感が言うわけよ。だからお願いできないかな」
「……」
……いったいどういう人なのだろう。
偏屈、気難しい人となるとお年寄りだろうか?
実家では私と同じ年代の子たちよりもお年寄りの数のほうが断然多かったから、接し方はよくわかっているつもりだ。
(……でも)
だからといって、よくわからない人のバイトの誘いにほいほい乗れるかといえば別の話で。
返事をしない私に、男の人はとどめの一撃のように囁いた。
「……期間としてはだいたい半年くらい。引き受けてくれたら、この車の件はチャラにするよ? どう?」
「っ……」
『チャラ』という魅力的なワードについ心を掴まれた私の様子を、彼は見逃さずに言葉を続けた。
「もちろん相性ってあるし、最終的な返事はその人と会ってからで構わない。どう? とりあえず会ってみない? 君にとって悪い話じゃないとは思うけど」
「それは……」
確かに、金銭的にはかなり助かる。
けれど、冷静になって考えてみれば、約半年拘束されることになるのだ。
つきっきりで仕事をすることになれば、その間に他でネタ探しなんてすることができないかもしれない。
(……もし引き受けることになれば、瀬戸内さんが私の担当を外れるまでの期間をほぼその場所で費やすことになる。それってすごい賭けだよね?)
改めて、目の前の男の人をじっくり観察する。
高級そうなスーツを普段着のように着こなし、3000万の高級車に乗るに相応しい立ち居振る舞い。
言葉遣いは少し軽いけれど下品さはまったくなく、生まれつきの品の良さが表情に現れている。
それは私のような田舎出身の平々凡々な人間とはまったく違う、確実に上流社会を生きてきた人特有の雰囲気だ。
サポートをする相手というのは、そんな彼の知り合いなのだ。
きっと彼のような世界に生きている人なんだろう。
(……そういうセレブな人と知り合うなんてこと、これまでなかったし、これからもきっとないよね)
新しい世界を垣間見れば、私自身が恋なんてしなくても何かいいストーリーを思いつけるかもしれない。
(……うん、そうだよね。賭けてみよう。この話を受けても受けなくても、崖っぷちだってことは変わらないんだから)
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