この話を断ったところで、結局車の弁償にかかる費用を工面するのに精一杯の半年になるかもしれない。
(それならば──)
私は男の人を真っ直ぐに見つめたあと、深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「ホント!? うっれしいな~! 結構急ぎで探していたからさ、マジ助かる! ありがとう!」
両手を広げ、今すぐにでもハグしかねない勢いに、思わず半歩後ずさる。
けれど稲垣さんは満面の笑みで、ただ片方の手を差し出した。
「よろしくね……ってああ、そういえばまだお互いの名前も知らなかったよね。オレは稲垣日向(いながき ひゅうが)。君は?」
『稲垣』という苗字を最近どこかで聞いた気もしたけれど、特段珍しい苗字でもない。
特に気にすることもないまま、私はおずおずと手を差し出し、稲垣さんと握手を交わした。
「菅島綾乃です。……よろしくお願いします」
「綾乃ちゃんか~。可愛い名前だね♪」
「……あはは、ありがとうございます」
あまりにもナチュラルに、朝の挨拶のような爽やかさで距離を詰めてくる、もはや天性であろう軽さに、渇いた笑いを漏らしながらそっと手を離す。
稲垣さんはそんな私の態度を気にする様子もなく、スマホを取り出した。
「早速だけど、明日の朝、時間ある? 7時半とかどうかな。ちょっと早い?」
「いえ、大丈夫です」
東京に来て生活のリズムはかなり不規則にはなってしまったけれど、田舎生活が長かったからか、朝早くに起きる習慣は今でも健在だ。
「オッケー。じゃあまずは連絡先交換しよっか。QRコード出せる?」
「あっ、はい。……これです」
「よし、ありがとね。じゃあ今から家の地図送るから、明日は直接行ってもらってもいい?」
「直接……私ひとりでですか?」
「うん。どこかで待ち合わせて一緒に行ってあげたいのはやまやまだけど、君より先に行って段取りしなきゃなんないから」
「ああ……なるほど」
いきなり見ず知らずの誰かもわからない人の家にひとりで訪れ、チャイムを鳴らすなんて高いハードルを越えることをせずに済んで、ほっとする。
「……ふふっ、君ホントに素直だね」
「え?」
「頼りにしてもらえて嬉しいなって話。今、オレが先に行ってるって知って嬉しそうな顔したから」
「べ、別にそんなことないですし! そんなことより早く地図送ってください!」
「はいはい」
(もう……)
クスクスと面白そうに笑う稲垣さんを横目に、メッセージを確認する。
添付された地図を見て、私は目を見開いた。
(きっと高級なところなんだろうとは思っていたけれど……)
そこに記された場所は、小説の資料のため高級住宅街と呼ばれる地域を検索した時、上位に出てきた街だった。
街の雰囲気をより知るために実際足を運んでみようかと思ったけれど、あまりに自分が場違いな気がして諦めたところでもある。
(しかもこのマンションの階数は……)
「2301号って……タワーマンションってことですよね?」
「うん、そう。最上階だからすっごく眺めが……って、あっ! もしかして高いところ苦手?」
「あ、いえそういうわけじゃ……」
「そ? それならよかった。まあ、もし高すぎ! 怖~い! ってなっても、窓に近寄らなければいいだけだからね♪」
「でも洗濯物とか干さないと駄目ですよね?」
「いやいや、干せるわけないじゃん」
「え? なんでですか?」
「もし洗濯物落ちたらどうすんの。超危険すぎでしょ!」
「……確かに……。タワーマンションなんて縁がない人生だったので、想像力皆無でした。ひとつ勉強になりました。ありがとうございます」
もし今後、タワマンを小説に入れ込むことがあればこのネタを使おう。
頭の中でメモを取りながら、ペコリと頭を下げる。
すると稲垣さんは面白そうに吹き出した。
「べ、勉強って……。ははっ! マジで綾乃ちゃん最高!」
「もう! からかわないでください!!」
「いやからかってないよ、マジで。感動しただけ」
(やっぱりからかってる……)
涙を流さん勢いで笑う稲垣さんをじと目で見つめていると、稲垣さんは眉尻を下げたまま悪戯っぽくウィンクした。
「ますます明日、会わせるのが楽しみになってきちゃったな♪ 彼、向上心高いし勉強熱心だから、きっと君のこと気に入るよ」
「彼……ということは、相手は男の人なんですね」
「え? あ、うん。そうだね。……君のそういう、人の話をしっかり聞いてるところもポイント高いと思うよ。……ってことで!」
稲垣さんは話を切り替えるように、腕時計で時間を確認した。
「明日も早いし、そろそろ帰ろうか。家まで送ってくよ」
「いえ! 大丈夫です! 近所なので歩いて帰れますから!」
言いながらハンカチを取り出し、ボンネットに散らばったままのサラダや唐揚げをかき集めてエコバッグに入れていく。
すると──
「っ、つ……」
足を痛めていたことをすっかり忘れ、普通に足に力を入れてしまったせいで急激に訪れた痛みに、思わずボンネットに手をついた。
「ほらほら、まだ痛いんじゃん」
稲垣さんが私が持っていたハンカチを取り、私の代わりに手早くボンネットを拭いてくれる。
そして私の手からエコバッグをひょいと取った。
「無理して歩いて帰って足を悪化させたら、バイトできないでしょ?」
「っ……」
思わず言葉に詰まる私の顔を覗き込み、稲垣さんがニコリと微笑んだ。
「だーかーら、オレに送らせる、これ命令ね」
「…………はい。ありがとうございます」
「うん。じゃあ助手席乗って? あっ、足痛いんだよね。お姫様抱っこしたほうがいい?」
「け、けけけ結構です!! 」
悪戯っぽく小首を傾げる稲垣さんを全力でよけ、私は足を引きずりながら助手席に乗り込んだ。
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