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第4話 卒業したら、答えを聞かせて
「……汀生。少し、話せるか」
俺がそう頼むと、汀生は何も問わずにうなずいた。
嶺刃を起こさないよう医務室の扉を閉め、隣の小さな相談室へ移る。汀生は卓上の香炉へ穏やかな香を入れ、俺が話し始めるのを静かに待った。
「以前から、気づいていたんだ」
「何に?」
「嶺刃が、俺の困っている時に決まって現れることに」
書類を抱えていれば、何も言わずに半分を持っていく。
訓練器具を運びきれずにいれば、俺が助けを呼ぶより先に手を貸す。
礼を言おうと振り返る頃には、いつも背を向けていた。
「最初は偶然だと思っていた。だが、何度も続けば分かる。あいつは、俺が困らないように見ていてくれた」
「そうか」
汀生はそれだけ答えた。
意味を決めつけることも、俺の代わりに言葉を足すこともしない。
「ついさっきも、そうだった」
壁際へ追い込まれた時の熱を思い出す。
「限界だったはずなのに、手を離せと言えば離した。俺が距離を取れば、自分から近づくこともしなかった。触れたいのを、必死に耐えてくれた」
そこまで話すと、あの一瞬が鮮明に蘇った。
荒い呼吸を鎮めるために、俺の方から触れてやりたいと思った。
「……それなのに俺は、応えたいと思ってしまった」
汀生が静かに俺を見る。
「俺は職員だ。あいつは、まだ生活訓練を受けている。そんな立場でありながら、あの熱を受け止めたいと思った。実際に、手まで伸ばしかけた」
「そうか」
責める声ではなかった。
だからこそ、逃げずに言えた。
「あれは教官としての同情じゃない。俺自身の欲だった」
香炉から立ちのぼる煙が、二人の間をゆっくりと通り過ぎる。
「応えたいと思った自分を、どう扱えばいいのか分からない」
汀生は少し間を置いてから、柔らかく口を開いた。
「無かったことにしなくていいんじゃないか」
「だが――」
「お前は応えたいと思った。それでも、今は応えないことを選んだ。どちらもお前自身の気持ちだよ」
簡単な言葉だった。
だが、胸の内で絡まっていたものが、少しだけほどけた。
「俺は、嶺刃を傷つけずに距離を守れるだろうか」
「彼を傷つけない方法があるとは、俺には言えないよ」
汀生は静かに首を振る。
「ただ、曖昧にしないことはできる。明日、熱の収まった彼と話せばいい。何を話すかは、お前が決めることだ」
「……ああ」
しばらく考えてから、俺はもう一つ決めていたことを口にした。
「嶺刃の担当から外れたい」
汀生は黙って続きを待った。
「あいつの歩みと、俺の気持ちを混ぜたくない。このまま教官の顔をしながら、あいつを一人の男として見ることはできない」
「それがお前の決めた線なんだな」
「ああ。手続きを頼めるか」
「分かった。朝になったら、一緒に記録を整えよう」
汀生はそれ以上、何も言わなかった。
香の向こうで医務室の静かな気配を感じながら、俺は夜が明けるまで、初めて認めた自分の気持ちと向き合っていた。
*
翌朝、職員用の相談室で記録を整理していると、扉を叩く音がした。
「入っていい」
扉を開けたのは嶺刃だった。
昨夜の荒れた香は、もうない。金色の瞳も澄んでいる。
嶺刃は敷居を越えたところで止まり、俺との距離を保った。
「教官。話がある」
昨夜、俺の名を呼んだ口が、今は正しく立場を呼んでいる。
「聞こう」
「昨夜は悪かった」
嶺刃は真っ直ぐに俺を見た。
「お前を壁際へ追い込んだ。怖がらせるつもりがなくても、やったことは同じだ」
「……謝罪は受け取る」
言葉を濁さずに返した。
「だが、お前が自分で手を離し、医務室まで歩いたことも、俺は覚えている」
嶺刃の瞳が、わずかに揺れた。
「もう熱は収まっている」
「そうだな」
「だから、今なら混じりものなしに言える」
一度だけ息を整え、嶺刃は続けた。
「俺は、お前を選んだ。昨日の言葉を取り消すつもりはない」
濃い熱に押し出された声ではなかった。
静かで、揺らぎのない声だった。
「今の俺は、答えられない」
「分かっている」
「だが、聞かなかったことにはしない」
嶺刃は黙って俺の言葉を待っている。
「それから、俺はお前の担当から外れる」
嶺刃の目に、わずかな緊張が走った。
「お前を避けるためじゃない。お前の歩みと、俺の答えを切り離すためだ」
「それでいい」
迷いのない返事だった。
「俺は、俺の力で卒業する」
嶺刃は一歩も近づかないまま、それでも俺から目を逸らさなかった。
「だから、卒業したら答えを聞かせてくれ」
昨夜とは違う。
熱に乱された香も、行き場を失った欲もない。
ここにあるのは、嶺刃が自分で選び直した言葉だけだった。
「……分かった」
今度は、俺も目を逸らさなかった。
「その時は、教官としてではなく――照遠として答える」
嶺刃の口元が、ほんの少し緩んだ。
「分かった、教官」
昨夜よりも遠い呼び方なのに、それは不思議と約束のように聞こえた。
*
職員室へ戻ると、龍清が書類から顔を上げた。
「龍清。担当変更の記録を頼みたい」
「誰のだ」
「嶺刃だ」
龍清の手が止まった。
「急だな。何があった」
「昨夜、あいつから好意を伝えられた」
「好意を向けられただけなら、担当を外れる理由にはならないだろう」
「俺も、応えたいと思った」
龍清はしばらく俺の顔を見つめ、やがて椅子の背へ身体を預けた。
「……お前は、本当に生真面目だな」
「職員として当然だろう」
「私情で判断が歪むならな。だが、自分で線を守れるうちは、すぐ担当を変える必要まではない」
龍清は飄々とした口調で続ける。
「近づきすぎれば、下がれと言う。触れようとすれば止める。香が乱れたら調律へ連れていく。相手がそれで止まれるなら、たいていは事なきを得る」
俺は、龍清の襟元へ目を向けた。
「そういうお前は、今日は随分と襟が高いな」
龍清の手が、反射的に首筋を覆った。
「……何の話だ」
「俺は襟が高いと言っただけだ。なぜ首を隠す」
龍清の手が止まる。
「隠していない。襟を直しただけだ」
「熊霊獣にも、近づきすぎれば下がれと言っているのか」
「もちろんだ」
「その結果が、首筋の痕か」
龍清は無言で襟をもう一段引き上げた。
「……今は、お前の話だ」
「痕があることは否定しないんだな」
「照遠」
声は穏やかなままだった。
だが、耳の先だけがわずかに赤い。
「俺の場合は、相手も制止を聞く。俺も職務へ持ち込まない。だから、担当を替える必要はない」
「首筋に痕を残させながら?」
「その一点だけを何度も取り上げるな」
どうやら、そこだけは本当に触れられたくないらしい。
「俺は、お前ほど器用じゃない。教官の顔で、あいつを一人の男として見るようになった。なら、外れるべきだ」
龍清は諦めたように小さく息を吐き、担当変更の記録を引き寄せた。
「そういうところを、生真面目だと言ったんだ」
「記録は頼んだぞ」
「分かった。それで、嶺刃には何と答えた」
「卒業してから答えると伝えた」
龍清が目を細める。
「それは、断る者の言い方ではないな」
「お前にだけは言われたくない」
「何のことだ」
「あの熊霊獣だ」
「……コヨーテの話だったはずだが」
「最初に熊と言っていた」
「聞き違いだろう」
「そうか。では、その襟の下もコヨーテ由来霊獣の一般的な対応事例か」
龍清は、担当変更の記録へ素早く筆を走らせ始めた。
「申請は受理した。今日中に引き継ぎ先を決める」
「話を終わらせたな」
「必要な業務は終わった」
龍清は澄ました顔で湯飲みを持ち上げた。
それが空だと気づくまで、少し時間がかかっていた。
コメント
1件
「卒業したら答えを聞かせて」……この約束、すごく好きです。熱で乱れた言葉じゃなくて、ちゃんと自分で選び直した嶺刃の瞳が、もう本当に綺麗で。照遠が「教官としてじゃなく、照遠として答える」って言ったところ、震えました。立場を守りながらも、逃げずに向き合おうとしてるのが伝わってきて……。 おまけに龍清との襟のやりとり、ちょっと笑っちゃいました。あの二人も気になる関係性だなあ。次の話、楽しみにしてます🌙
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