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銀座の夜の、あの微かな熱はどこへ行ったのだろう。
数日ぶりに現場で顔を合わせた柊さんは、まるで初対面の相手に対するような、冷淡で焦点の定まらない瞳に戻っていた。
場所は代々木公園近くの路地裏。早朝のジョギングコースから少し外れたその場所は、湿った土と古いコンクリートの匂いが混ざり合い、胃の奥が重くなるような沈黙に包まれていた。
「……綺麗な人、ですね」
思わず零れた言葉に、嘘はなかった。被害者は二十代半ばの女性。頭を鈍器で殴られているようだ。シンプルだが上質な光沢を放つネイビーのドレスを纏い、まるで行き倒れたのではなく、舞台の出番を待つ幕間で深い眠りについているかのように、静かに横たわっていた。
「死体に綺麗も汚いもないよ、南さん。あるのは沈黙だけ。……あと、強いて言うなら冷たさかな」
背後から響く、聞き慣れた淡々とした声。振り返ると、柊さんが手袋をはめながら、鑑識がまだ手を付けていない遺体のすぐそばまで、ずいずいと土足で踏み込んでいた。
「ちょっと、柊さん! 立ち入り禁止のテープを跨がないでくぐってください! そもそも、鑑識の邪魔ですよ」
「邪魔はしていない。空気を読み取っているだけだ。……ほら、これを見てごらん。犯行現場に似つかわしくないものが落ちているよ」
柊さんが指差したのは、遺体の白い指先に触れるかのように散らばっていた、数片の鮮やかなオレンジ色の花びらだった。
「花びら……。お供え物だとしたら花びらだけってのは貧相ですね」
「ガーベラだ。それも、今朝摘んだばかりのような瑞々しさだね」
「詳しいですね。昔、花屋のふりをして誰かを騙したんですか?」
「失礼な。詐欺師の基本はギフトだよ。女性を落とすには花の種類と鮮度、そして渡すタイミングが重要なんだ。……ちなみにオレンジのガーベラの花言葉は『忍耐強さ』。……だが、そんな情緒的な解釈は警察に任せておけばいい」
柊さんはそう言うと、今度は躊躇なく被害者の左手を取り、自分の目の前まで持ち上げた。
「なっ、何を……! 勝手に遺体に触らないでください! 暴行……じゃなくて、証拠隠滅になりますよ!」
「死人は文句を言わないよ。……ほら、南さんもここを見て」
「うわっ、引っ張らないでください!」
強引に腕を引かれ、私は遺体のすぐそばで膝をつく羽目になった。柊さんが指し示したのは、被害者の指先だった。
「人差し指から小指にかけて、指先に独特の硬いタコができている。……そして、嗅いでごらん。この指先から漂う、独特の香りを」
「頭から流れてる血のせいで、鉄の匂い、それと……」
「もっと、深呼吸」
「……くっ、……あ。これ、薬品の匂い?」
「松ヤニだよ、南さん。君の鼻は、警察学校で何を訓練してきたんだい? ケーキの匂いを見分けるためだけにあるのか?」
「……余計なお世話です」
私は顔を赤くして身を引き、手帳に「松ヤニの匂い」と書き込んだ。
「指先のタコと松ヤニ。彼女は日常的に弦楽器を弾いていた人間だ。……どうだい、南巡査部長。このドレス姿を見て、君は何を連想する?」
「……結婚式の帰り、じゃないですか? この上質なドレスなら披露宴でもおかしくないですし。財布を所持していないので、夜道で強盗に遭った……とか」
柊さんは、被害者のドレスの裾をじっと見つめ、それからニヤリと嫌な笑い方をした。
「結婚式、ね。話は変わるが、スカートのサイズ、ライン的に足を広げるのは難しい。指ほどじゃないが顎にもうっすらタコがある。チェロやコントラバスじゃなく、バイオリニストかな」
#オリジナルキャラクター有り
柊さんは立ち上がり、コートのポケットからスマートフォンを取り出して、地図アプリを操作し始めた。
「ここから徒歩十分圏内に、今日から三日間開催されているクラシックのコンサートホールがある。……『アムール・ホール』。有名な若手演奏家たちのコンクールも行われている場所だ」
「ホール? ……ちょっと、柊さん! どこへ行くんですか。小宮さんに報告が先ですよ!」
私の叫びを無視して、グレーのコートは翻り、路地裏の出口へと颯爽と歩き出した。
「報告なんて後でいい。初動捜査が肝心なんだろ」
「だからって、独断専行は……! ああ、もう! 待ってくださいってば! 協調性も大事ですよ」
私は慌てて彼の後を追った。美しいドレスと、オレンジ色のガーベラ。その華やかな旋律の裏側に隠された「嘘」を暴くために、私たちは静寂を破るように走り出した。背後で、パトカーのサイレンがようやく近づいてくるのが聞こえた。