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あなたは、自分が死ぬ瞬間のことを想像できますか?
唐突にそんなことを聞かれても、リアルに想像できる人は少ないかもしれません。私もその内の一人です。
自分がこの世からいなくなるシーンなんて、まるで映画のワンシーンのように非現実的で、しかし確かにそこにあって。
日々漠然とした恐怖が常に私の中に居座っていました。
そんな私の、死に対する強張った方の力をふっと抜いてくれたのが、藤井風さんの名曲『帰ろう』でした。
私自身の死生観について少しお話ししましょう。
かつて祖父の葬儀に出席した時のことです。祖父とは生前、それほど深い交流があったわけではありません。
アルコール中毒で、ヘビースモーカーで。いつ死んでもおかしくないような生活を送っていた人でした。
その内に不器用な優しさを秘めていた人ではありましたが、訃報を聞いた時も、どこか「来るべき時が来た」と冷静に受け止めている自分がいました。お通夜の時も、私は泣きませんでした。
しかし、いざ遺体を目の前にした時、突然、糸が切れたように涙が溢れ出たのです。
母親には「泣くと思ってなかった」と驚かれましたし、私自身もそう思っていました。しかしあれは、今思うと祖父がいなくなった悲しみというよりも、『死』という圧倒的な事象があまりにも自分の身近に迫ってきたことへの、本能的な動揺だったのだと思います。
人間は本当に終わるんだ。
物体として動かなくなった祖父を見て、自分の未来をそこに重ねてしまったのかもしれません。
それはある意味で薄情な涙だったのかもしれません。しかし、あの時感じた冷たい恐怖は、私の根底にずっと張り付いていました。
そんな恐怖としての死を、『帰宅』という温かいイメージに塗り替えてくれたのが藤井風さんの『帰ろう』です。
“ああ 全て忘れて帰ろう ああ 全て流して帰ろう”
私たちは生きている間、多くのものを抱え込みすぎているのかもしれません。物質的なものは勿論、憎しみや後悔、プライド、そして私が抱いていたような死への恐怖さえも。
「何も持たずに帰ろう」と、彼は歌います。
それは、死ぬことを『終わる』や『失う』と捉えるのではなく、元いた場所へ、荷物を降ろして身軽になって帰る、のだというメッセージです。
病院のベッドでもなく、暗い棺の中でもなく、夕焼けの道を家路につくような安堵感。あの日、祖父の前で私が感じた恐怖は、私がまだ現世という場所に執着し、荷物を降ろす準備ができていなかったからかもしれません。
死んだらどうなるのか。それは死んでみないと分かりません。
何を考えることも、感じることもできない完全なる無になるのか、天国や地獄があるのか、それとも一面の花畑か。誰も答えを知らないからこそ、私たちは自由に想像することができます。
ここで少し、私の個人的な死後の世界の理想についてお話します。
私が死後の世界が、人生を自分の思い通りに創造できる人生サンドボックスモードだったら最高に楽しいな、と思っています。
砂場のように、リソースや制限を気にせず、自分の好きなように世界を作り変え、理想の人生をシミュレーションできるモード。
現世では、どうしようもない制約や、ままならない関係性に縛られることもあります。そのしがらみから解放され、自分の理想の世界で過ごせたら、と思います。
そう考えると、死ぬことも少しだけ楽しみに……。とまで言いませんが、少なくとも絶望だけの闇ではないように思えてきます。
『帰ろう』の中に、こんな一節があります。
“去り際の時に 何が持っていけるの 一つ一つ 荷物 手放そう”
もし、私の願う死後の世界が待っているのだとしても、そこへ行くには、この現世での荷物を全て手放さなければならないのでしょう。
重たい執着や恐怖を抱えたままでは、軽やかに空を飛ぶことはできません。
この曲は、死の歌でありながら、究極の生の歌でもあります。
いつか来る帰る日のために、今日をどう生きるか。
誰かを憎んだままにしていないか、余計なプライドで自分を縛っていないか。
あの葬儀の日、私が流した涙の意味を今一度考えます。あれはきっと、まだ手放せていない自分が、逃げ場のない現実を突きつけられたことへの恐怖でした。
でも今は違います。
いつかその時が来たら、「さて、そろそろ帰ってゲームでもやるか」くらいの軽やかな気持ちでいたい。
そのためには、今ある命を、今日という一日を、執着ではなく愛で満たしていく必要があるのだと、この曲は教えてくれます。
私のいない世界が、今よりもっと優しい場所であるように。
そう願いながら、今日も少しずつ、心の荷物を整理していこうと思います。
以上です。
……ところで、生贄を捧げたら二回目の命が手に入るらしいですよ。
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