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電話を切って、私は専務の部屋の扉を叩いた。
初めてだった。この家に来て二か月、この扉を自分から叩いたことは、一度もない。
「開いている」
開けた。専務は机の前に座っていて、ネクタイを外していて、青いペンを持っていた。何かを書いていた。私を見て、ペンを置いた。
「契約違反です」
私は、言った。
「前払いは、契約にありません」
専務は、すぐには答えなかった。父から電話があったことを、私の顔で読んだのだと思う。
「……父親か」
「はい。昼に来た、と。名刺を置いて、全額、と」
「俺の金だ」
専務は、立ち上がった。
「何に使っても、自由だ」
「契約の報酬は、期限に一千万円。それ以外の金の動きは、契約にありません。十一月に、前払いはしないと言いました。専務は、頑固だな、と言いました」
「言った」
「それでも、しました」
「した」
専務は、否定しなかった。否定しないで、私を見た。
「お前の父親は、朝六時に人の印刷所に行く。母親は督促の電話に出る。お前は月に八万円を振り込む。三人で、九百八十万を少しずつ減らしている。今日、お前の父親に聞いた」
父が、話したのだ。会ったこともない相手に、三人の数字を。
「その数字を、俺は消せる。消せる人間が、消さない理由がない」
「理由はあります」
声が出た。
「これでは、私が十二日に、専務の隣に立つ理由が、なくなります」
専務の目が、動かなくなった。
「契約の報酬のために、隣に立つ。それが、私の理由でした。報酬が先に払われたら、理由は、なくなります」
「……」
「明日、私は、何のために隣に立つんですか」
聞いてしまった。聞くつもりは、なかった。
専務は、長く黙っていた。机の上の青いペンを見て、私を見て、もう一度ペンを見た。
「……それでも」
低い声だった。
「それでも、立つか」
私は、鞄のことを思った。台所の机の上の黒い鞄。緑の台帳。原本。メール。予約表。私のために持っていく、と決めた紙の束。
理由は、もう一つあった。あったけれど、口に出す言葉を、私は持っていなかった。
「立ちます」
それだけ、言った。
専務は、私を見た。
「……そうか」
目を、そらした。先に。
それから、私の横を通って、部屋を出ていく。台所に行く音がして、水を飲む音がして、戻ってこない。
私は、専務の部屋の入口に立ったまま、机の上を見た。青いペンが、一本、横に倒れている。書きかけのメモが、ペンの下に伏せてあった。読まなかった。
理由は、もう一つあった。それを言わなかったのは、私だ。言わなかった私を、この人は、そうか、と受け取ったのだと思う。受け取って、出ていった。
部屋に戻って、机の前に座ったのは、十二時を過ぎてからだった。
スマホが鳴った。課長からだった。こんな時間に、課長から電話が来たことはない。
「水瀬さん。起きてる?」
「はい」
「ごめんね、夜に。明日の前に、どうしても見せたいものがあって」
課長の声は、少し震えていた。
「昼間、予約表の綴じを出しに倉庫に入ったとき、奥の棚に、古い段ボールがあって。言うか、迷ってた。でも、明日の前に」
「……はい」
「緑の台帳が、一冊、出た」
息が、止まった。
「古いやつ。三十年くらい前の。表紙に、名前が書いてある。佐野、って。会社では、旧姓で通してた人だから」
佐野。
「水瀬さん。言ってなかったな、って、今、思って」
課長は、少し間を置いた。
「俺が新人のとき、台帳をつけてたのが、千代さんだ。佐野千代さん。結婚して、桐谷になった人。俺は一年だけ、あの人の下にいた」
「……課長」
「写真、送る。見て」
電話が切れて、すぐに、写真が届いた。
緑の表紙。角が擦れている。開いたページ。欄の切り方。品目。数。
その横の、小さな字の欄。
寄贈。
三十年前の字で、そう書いてあった。匿名、とは書いていない。でも、同じ欄だった。同じ場所に、同じ字の大きさで。
私は、写真を長く見た。
母も、規定で買えない物を自分で買って、棚に置いていたらしい。欄に書いていたのは、母自身だ。専務は、そう言った。
その欄が、ここにあった。捨てられたはずの台帳が、総務の倉庫の奥に、一冊。
明日の荷物のついでに、課長が見つけた。
私は、スマホを置いた。置いてから、思った。契約書を、確かめたい。明日の前に、二通が、あの引き出しにあることを。
手帳から書斎の鍵を出して、部屋を出る。
廊下は暗い。台所の明かりだけが、ついている。専務が、消していなかった。この人は、台所の明かりを消し忘れる人ではない。
書斎に行く前に、台所の前を通った。
通って、足が止まった。
食卓の上に、紙が一枚、開いて置いてあった。
白い封筒が、その横に。
契約書だった。専務の一通だと思った。私のものは、書斎の引き出しにあるはずだった。専務が、ここに置いた。開いたまま。
近づいた。読むつもりはなかった。でも、目が、一か所に止まった。
第七条。互いに恋愛感情を要求しない。
その一行に、青い線が、一本、引いてあった。
0.5ミリの、青。会社の支給品と同じ。七階の机に何本も立っている、あのペンの線だった。
線は、一本だけだった。消すための線なのか、しるしの線なのか、分からなかった。
誰が、いつ引いたのかも。
コメント
1件
なんて繊細な回でした……。青い線が第七条に引かれてるの、心臓が止まりましたね。契約だけじゃなくなってく二人の距離感の描き方、本当に繋がってるのを感じられてすごく好きです。“立ちます”と言ったあおいさんの声が、ずっと残ってます。