テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
食堂の音が、止まった。
今度は遠のいたのではない。
止まった。
青鱗の椀から、細い湯気だけが上がっている。
墨兎が、完全に立ち上がった。
「陛下」
声は軽くなかった。
「今のは、たぶん一番言ってはならないやつです」
清帝は墨兎を見た。
その目には、わずかな険があった。
「霊獣が、皇帝の言葉を咎めるか」
墨兎の耳が一度、強く伏せられた。
それでも、墨兎は引かなかった。
「ここは天灯食堂です。陛下も、それを承知でいらしたはずです」
清帝は、しばし墨兎を見ていた。
長い沈黙だった。
帝という身で生きた年月が、簡単に頭を下げることを許さない。だが、この場が、その身分の外にあることもまた、清帝自身が分かっていた。
「……賛じたつもりであった」
清帝はようやく言った。
「それは、料理への賛辞です」
墨兎の声は、いつもの軽さを少しだけ失っていた。
「今の青鱗に向けるには、一番危ない言葉かと」
炊源が配膳口の奥で、両手を握りしめていた。
青鱗は動かなかった。
怒鳴りはしなかった。椀を投げもしなかった。
ただ、湯気の向こうで、銀青の光が冷たく硬くなっていく。
「私は」
青鱗は静かに言った。
「今、皿の上にいるのか」
清帝の表情が、わずかに変わった。
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味だ」
青鱗は清帝を見た。
「私は、今、あなたの前に座っている。椀を持ち、匙を持ち、あなたの言葉を聞いている。それでも、あなたの中で私は、まだ食された魚なのか」
清帝は、すぐには答えなかった。
答えられなかった。
黄河の銀鯉、という記憶は、清帝の中で長く一つの形を保ってきた。美しい姿、見事な餡、忘れ難い味。その記憶を疑う必要など、これまで一度もなかった。
だが今、その記憶が指し示していたはずの相手が、目の前で言葉を発し、自分を見据えている。
記憶の中の銀鯉と、目の前の青鱗が、清帝の中でうまく重ならない。
重ねようとすれば、青鱗を再び皿の上へ戻すことになる。
重ねずにいれば、自分の中の大切な記憶が、嘘になるような気がした。
その狼狽が、清帝の表情にわずかに滲んだ。
長く帝として人前に立った者が、容易に見せない種類の狼狽だった。
炊源は、その様子を見ていた。
そして、一歩だけ前へ出た。
御膳房の下働きであった頃、自分は帝の御前に出ることすら許されなかった。名を覚えていただいたあの日でさえ、炊源は床に額をつけたまま、顔を上げることができなかった。
その記憶が、今もまだ体の奥に残っている。
だが、炊源は前へ出た。
「陛下」
声は震えなかった。
清帝が炊源へ視線を向ける。
炊源は深く頭を下げた。
「失礼を申し上げます」
「申せ」
「それは、あの日の御膳へ賜ったお言葉にございます」
「御膳への」
「はい。料理人として、私は生涯忘れませぬ。あの一言のために、これまで火場に立ってきたと申しても過言ではございません」
炊源の声は低く、そこだけは揺るぎなかった。
「ですが、今の青鱗さまへそのまま向ければ、青鱗さまを、あの日へ戻してしまいます」
炊源の指先は、硬く握られていた。
帝の言葉を遮るということが、どれほどのことか、炊源は誰よりも知っていた。
「今ここにおられるのは、御膳に上がった銀鯉ではございません」
清帝は、青鱗を見た。
青鱗は目を逸らさなかった。
長い沈黙が落ちた。
誰も動かなかった。墨兎も、炊源も、食堂の遠くで盆を持ったまま固まっている誰かも。
コメント
1件
第9話、読み終えました。冒頭の「食堂の音が、止まった」という一文で、もう空気が変わったのが分かりましたね。墨兎が「一番言ってはならないやつ」と止める場面、あの引き際の判断が素晴らしい。そして炊源が前へ出た。かつて床に額をつけていただけの下働きが、帝の言葉を遮る——その一歩が、この食堂という場の「掟」を体現しているようで、背筋が伸びる思いがしました。清帝の狼狽が見えたのも初めてで、長く生きてきた者の迷いが、静かに刺さります。