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第1話 いつもどおりの朝
朝。
カーテンの隙間から差し込む光が、布団の上で丸くなっている少年の顔を照らしていた。
「湊ー! 起きなさーい! 遅刻するわよー!」
「……あと5分」
「その5分、さっきも聞いたんだけど!」
朝倉湊、15歳。
ごく普通の高校1年生。
成績はそこそこ。運動もそこそこ。特別な才能があるわけでもない。
ただ、朝に弱い。
それだけは、誰にも負けない自信があった。
「……今日、学校休みじゃなかったっけ」
「今日は火曜日です!」
「うわ、最悪……」
湊は布団を頭までかぶった。
そのとき、母親が部屋のドアを開けた。
「ほら、早くしないと紬ちゃんに笑われるわよ?」
「……紬?」
湊は布団から顔だけを出した。
「なんで紬が出てくんの?」
「だって、いつも一緒に学校に行ってるじゃない」
「まあ……そうだけど」
母親は笑いながら、部屋を出ていこうとした。
そして、何かを思い出したように振り返った。
「そういえば、澪……」
ほんの一瞬。
母親の表情が止まった。
「……じゃなくて、紬ちゃん。今日も一緒に行くんでしょう?」
「……うん」
湊は首をかしげた。
「今、誰かの名前言わなかった?」
「え? 何も言ってないわよ?」
「そう?」
「ほら、早く着替えなさい!」
母親は笑顔のまま、部屋を出ていった。
湊はしばらくドアを見つめていた。
けれど、すぐに考えるのをやめた。
「……まあ、いっか」
いつもどおりの朝。
いつもどおりの母親。
いつもどおりの自分。
何も変わらない。
そう思っていた。
このときは、まだ。
*
「みーなーとー!」
「うわっ!」
家を出て数分。
背後から突然肩を叩かれ、湊は思わず飛び上がった。
「朝からうるさいな……」
「遅い!」
白瀬紬。
湊の幼なじみで、家も近い。
明るくて、よく笑って、少しだけ強引。
そして、湊が寝坊することを誰よりもよく知っている人間だった。
「昨日、何時に寝たの?」
「……12時?」
「絶対うそ」
「なんで分かるんだよ」
「幼なじみだから!」
「便利な言葉だな、それ」
紬は楽しそうに笑った。
春の風が吹く。
道の脇に植えられた桜の木から、淡いピンク色の花びらが舞い落ちてきた。
「ねえ、湊」
「ん?」
「高校生活、どう?」
「まだ始まったばっかりだろ」
「そうだけどさ。なんか、新しい感じしない?」
「……教室が変わっただけじゃね?」
「夢がないなあ」
「現実主義者なんで」
「はいはい」
紬は前を向いた。
それから、少しだけ声の調子を変えた。
「でもさ、こうやって一緒に学校行けるの、結構好きなんだよね」
「……急になんだよ」
「別に? 思ったこと言っただけ!」
「はいはい」
「ちゃんと聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「絶対聞いてない!」
紬が頬を膨らませる。
湊は笑った。
こんな会話を、何度繰り返しただろう。
小学生のころから、ずっと。
これからも、きっと。
何年経っても、変わらないと思っていた。
「ねえ、湊」
「今度は何?」
「明日も一緒に学校行こうね」
あまりにも自然な言葉だった。
だから、湊も自然に答えた。
「はいはい、約束約束」
「絶対だからね!」
「分かったって」
紬は満足そうに笑った。
その笑顔を見て、湊はふと思った。
――明日も、明後日も。
こんな日が続けばいいのに。
けれど、その気持ちは口にはしなかった。
*
「お前ら、朝からうるさすぎ」
教室に入るなり、黒瀬律がこちらを見ずに言った。
黒瀬律、16歳。
頭がよく、冷静で、無駄なことが嫌い。
……というのが本人の主張だ。
「おはようくらい言えよ」
湊が席に鞄を置く。
「おはよう。で、昨日の数学の課題やった?」
「……」
「おい」
「おはよう、律くん!」
紬が元気よく挨拶した。
「おはよう、白瀬。で、湊は?」
「……人間、睡眠が大事だと思うんだよね」
「つまり?」
「やってない」
「知ってた」
「なんでだよ!」
律は呆れたようにため息をついた。
「お前、昨日も同じこと言ってたぞ」
「昨日の俺と今日の俺は別人だから」
「便利な言い訳だな」
「だろ?」
「褒めてない」
紬が声を上げて笑った。
湊もつられて笑う。
律は呆れ顔のままだったが、口元はほんの少しだけ緩んでいた。
そんなやり取りをしていると、担任の先生が教室に入ってきた。
「はい、席について。出席取るよー」
教室が静かになる。
「朝倉湊」
「はい」
「白瀬紬」
「はーい!」
「黒瀬律」
「はい」
名前が呼ばれる。
返事が返る。
当たり前のことが、当たり前に繰り返される。
窓の外では桜が揺れていた。
先生の声。
机を引く音。
誰かの小さなくしゃみ。
紬がノートの端に描いた、よく分からない猫の落書き。
湊はそれを見て、吹き出しそうになった。
「何笑ってんの?」
紬が小声で聞く。
「いや、その猫……」
「かわいいでしょ?」
「どこが?」
「えーっ、ひど!」
先生がこちらを振り返る。
「そこ、静かにー」
「すみません!」
二人の声が重なった。
律が小さく肩を揺らして笑っていた。
何でもない一日。
特別なことなんて、何ひとつない。
でも、湊はこういう時間が嫌いじゃなかった。
むしろ、好きだった。
何も起こらなくていい。
誰もいなくならなくていい。
明日も同じように目が覚めて、同じ道を歩いて、同じ教室で笑っていられればいい。
それだけで、十分だった。
*
放課後。
「寄り道して帰ろうぜ」
湊が鞄を肩にかけながら言った。
「珍しい。いつも早く帰って寝たいって言ってるのに」
律が意外そうに目を細める。
「今日は眠くない」
「朝、あれだけ寝坊してたのに?」
「それはそれ、これはこれ」
「意味分かんない」
紬が笑いながら二人の間に入った。
「じゃあ、駅前のコンビニ行こうよ! 新しいアイス出たんだって!」
「結局コンビニかよ」
「いいじゃん!」
三人は教室を出た。
廊下には、部活動へ向かう生徒たちの声が響いている。
誰かが笑っている。
誰かが走っている。
誰かが、明日の予定を話している。
世界は、いつもどおりに回っていた。
校門を出ると、風が吹いた。
桜の花びらが三人の頭上を舞い、道路の端へと流れていく。
「ねえ、来週もこうやって寄り道しようよ」
紬が言った。
「来週も?」
湊が聞き返す。
「うん。再来週も、その次も!」
「予定決めるの早すぎだろ」
「いいじゃん。約束!」
紬が小指を差し出した。
湊は一瞬だけ目を丸くしたあと、笑って自分の小指を絡めた。
「はいはい。約束」
「絶対だからね!」
「分かったってば」
律はそんな二人を見て、呆れたように言った。
「……お前ら、ほんと飽きないな」
けれど、その声はどこか優しかった。
夕方の空は、少しずつオレンジ色に染まっていく。
湊は思った。
こんな日々が、ずっと続けばいい。
明日も。
明後日も。
ずっと、ずっと。
*
その夜。
湊は自分の部屋で、スマートフォンを充電器につないだ。
明日の時間割を確認して、アラームを設定する。
紬からメッセージが届いていた。
『明日、寝坊しないでね!』
『はいはい』
『ほんとに?』
『ほんとほんと』
『約束だからね!』
湊は小さく笑い、スマートフォンを枕元に置いた。
「……おやすみ」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。
部屋の明かりを消す。
静かな夜だった。
やがて、湊は眠りについた。
午前零時。
枕元のスマートフォンが、一度だけ光った。
画面には、見覚えのない通知が表示されていた。
『本日の修正が完了しました。』
数秒後。
通知は、跡形もなく消えた。
もちろん、湊は気づかなかった。
明日の朝も、いつもどおりに目を覚ますつもりだった。
明日も、紬と一緒に学校へ行くつもりだった。
明日も、今日と同じ一日が来ると信じていた。
――それが、最後の「いつもどおり」になるとも知らずに。
コメント
1件
めっちゃいい雰囲気の日常パートだなあ、って読みながら思わず頬が緩んでました。紬との掛け合いとか、律のツッコミとか、何気ない会話の一つ一つが丁寧に描かれていて、湊にとっての「当たり前」がすごく愛おしく感じられるんですよね。 でも母親が一瞬「澪」って言いかけたところと、最後の「修正が完了しました」の通知……その二つが静かに効いてくる。何も起こらない朝を「最後」だと予感させる構成が本当に巧い。この先、何が修正されちゃうんだろう、って思わず続きが気になりました。素敵な導入でした!
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