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リフェアリー
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銀行のシャッターは、十時になっても開かなかった。
張り紙が一枚、貼ってある。『システム点検のため、本日の窓口業務を休止します』。点検。要はその二文字を見て、乾いた笑いが出た。点検して直るなら、昨夜のうちに直っている。
直らないのだ。壊れていないのだから。
要は人垣の後ろから、張り紙の下に小さく書かれた一文を読んだ。『ATMは通常どおりご利用いただけます』。
ATMには列ができていた。列の先頭で、男が叫んでいる。
「十万って出たんだよ、さっき。今は二千円だぞ。どっちだよ」
行員が出てきて、頭を下げた。頭を下げるしかなかった。どちらが正しいかを、行員も知らない。どちらが正しいかを決める権限は、本店にある。本店は、復旧後の状態を「どの時点のバックアップに戻すか」で揉めている。バックアップが一つなら戻せる。だがバックアップは、昨夜から二千通りある。どれも正しい署名を持って。
要は列を離れた。
銀行は営業していない。営業できないのだ。営業するには「残高はこれです」と言い切る必要があり、言い切る根拠を、昨夜、誰かが全部溶かした。
区役所は、銀行より静かだった。
人は多い。だが誰も怒鳴っていない。皆、窓口で同じことを聞かれ、同じ顔をして、同じ列の後ろに戻っていく。
「ご本人を確認できるものはありますか」
要の番が来て、窓口の女性がそう言った。名札に『日向』とある。要はマイナンバーカードを出した。
女性はカードを見て、端末を叩いて、画面を見た。しばらく見た。それから要の顔を見た。
「……土師要さん。このカードの記録は、四件あります」
「四件」
「生年月日が三種類あります。住所が二種類。一件は、昨日付けで死亡届が出ています」
要は何も言えなかった。
「私は、どれが正しいかを決められません」女性は、画面ではなく要を見たまま言った。「決める権限がないんじゃなくて、決める根拠がないんです。カードは本物です。記録も全部、本物の形をしています」
「じゃあ、どうすれば」
「わかりません」
正直な答えだった。要は今日初めて、正直な答えを聞いた気がした。
女性は少し迷ってから、言った。
「ただ、私は今、あなたの顔を覚えました。土師要さん。二十七歳。眉のところに傷がある。右手の爪を噛む癖がある。昨夜、寝ていない」
「……それで、何になるんですか」
「わかりません。でも、記録よりは確かだと思って」
女性は、小さく笑った。笑うと、ずいぶん若く見えた。
「日向つむぎです。戸籍係。こうなる前は、です」
区役所を出ると、昼になっていた。
要はコンビニに寄った。朝と同じ店だ。電子マネーの読み取り機に、紙が貼ってある。『現金のみ』。
財布には、八千円あった。要は三日分の水と食料を買った。四千二百円。店員は現金を受け取り、釣り銭を数え、渡した。
要は釣り銭を見た。千円札の、印刷された顔を見た。
これも記号だ。この紙が千円であるという信用を、日本銀行が、国家が、裏書きしている。でも今、この紙は確かに手の中にある。増えない。減らない。昨夜、何も触られていない。
要は初めて、紙幣というものを、美しいと思った。
古い神だ。要は思った。皆が捨てようとしていた古い神が、まだ生きていた。
店を出ると、さっきの女性が立っていた。昼休みらしい。
「追いかけてきたわけじゃないです」つむぎは言った。「ここ、私のコンビニなので」
「あの、さっき」要は聞いた。「どうして、顔を覚えるなんて」
「子どものころから、そうなんです。一度会った人は忘れない。戸籍係には向いてました」つむぎは、要の手の中の千円札を見た。「それと、思ったんです。記録が全部嘘になったとき、残るのは、人が人を覚えていることだけなんじゃないかって」
要は、答えられなかった。
昨夜、画面の中で、本物が無限に増えるのを見た。あれに対抗する手段を、要はまだ一つも持っていない。
でも、目の前の女性は、持っていた。
「私はあなたの顔を覚えた」つむぎは言った。「それで、足りる?」
(第3話「記号が現実を裏切る日」へ続く)
コメント
1件
日向つむぎさん、すごくいいキャラですね。戸籍係として「記録より自分の記憶のほうが確かだ」と言い切る強さに、ぐっときました。それと「紙幣が古い神だ」っていう比喩、めちゃくちゃ好きです。データが全部嘘になった世界で、唯一信用できるのは生身の人間の記憶と、物理的にそこにある現金だけっていう寓話性が、しっかり染みてきました。銀行のバックアップが二千通りあるってところも、設定のリアリティがあって「こう壊れるんだな」と納得させられました。第3話も楽しみにしてます!