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三日目。東京証券取引所は、開かなかった。
正確には、開けなかった。前日の終値を確定できなかったからだ。終値を確定するには、取引記録が一つであることが要る。取引記録は、昨夜から一万通りある。
要は会社の会議室で、その知らせを聞いた。十四階。窓の外には、いつもどおりの東京があった。ビルは立っている。車は走っている。信号は変わる。壊れたのは、目に見えないものだけだった。
「復旧の定義を決めたい」
部長が言った。三日間で、声が半分に細っていた。
「復旧って、何に戻すんですか」要は聞いた。
「大剥離の前の状態だ」
「前の状態は、どれですか」
部長は答えなかった。テーブルを囲む十二人のうち、誰も答えなかった。
大剥離。誰が言い始めたのか、もうその言葉が使われていた。記号が現実から、剥がれ落ちた日。
「バックアップは」
「全部、改変されてる。改変っていうか」若い同僚が、言葉を探した。「増やされてる。どのバックアップも、正しいハッシュを持ってる。三日前のバックアップが、四千通りある」
「じゃあ、どれかを正と決めて」
「決めるのは誰だ」
要が言った。全員が要を見た。
「決めるのは誰ですか。部長ですか。社長ですか。金融庁ですか。日銀ですか。決めたとして、その決定が本物だと、誰が保証するんですか。決定の記録も、明日には四千通りになる」
「土師。言い方を考えろ」
「言い方の問題じゃないです」要は立ち上がった。「僕らはずっと、守れる前提でシステムを作ってきた。侵入されたら検知して、止めて、戻す。でも検知できない。止める対象がない。戻す先がない。守れないんです。原理的に」
誰も何も言わなかった。
要は座った。言い過ぎたとは思わなかった。言い足りないと思った。
会議は、「正」を決められないまま終わった。
夕方、要は一人でサーバールームに降りた。
サーバーは動いていた。ファンの音がして、ランプが点滅して、昨日と同じ顔をしていた。要はラックの前に立って、しばらく見ていた。
ここに、二千万人の残高がある。
あった、というべきかもしれない。今ここにあるのは、二千万人の残高の、無数の版だ。そのどれもが正しくて、どれも正しくない。
要は、自分が七年間守ってきたものが何だったのかを、初めて考えた。
金ではない。データでもない。守っていたのは、「この数字は正しい」と誰もが思える状態だった。その状態があったから、見ず知らずの誰かが、この銀行に金を預けた。会ったこともない会社の株を買った。顔も知らない相手に送金した。
遠くの他人を、記録だけで信用できる社会。
それを支えていたのが、このラックの中の数字だった。数字は残っている。信用だけが消えた。
「土師」
振り返ると、部長が立っていた。
「さっきは、悪かった」
「いえ」
「お前の言うとおりだ。もう守れない」部長は、ラックのランプを見た。「本店から通達が来た。明日から、全支店で窓口を閉める。ATMも止める。現金の手持ちだけで回せと」
「それ、いつまでですか」
「書いてない」
書けないのだ。いつまでかを決めるには、いつ「正」が戻るかを知る必要がある。戻らないかもしれない。
「お前、どうする」
要は、答えを持っていなかった。
三日前の夜、画面の中で、本物が無限に増えるのを見た。あのとき感じたのは、恐怖だった。今は、違う。恐怖の底に、別のものがある。
守れないなら、守らなければいい。
「わかりません」要は言った。「でも、守る側は、もう無理だと思います」
部長は、何も言わずにうなずいた。
サーバールームを出るとき、要は一度だけ振り返った。ランプは、まだ点滅していた。何も知らない顔で。
コメント
1件
第3話、めっちゃ引き込まれた、、! 表面的なハッキングじゃなくて「正しさが無限に増える」っていうSF設定がもう深すぎて痺れたよ😭✨ 要くんの「守る側はもう無理」って台詞、ここに来るまでのがっつり重みがあってヤバかった。サーバールームのランプが無邪気に点滅してる対比がエモくて泣ける。次どうなるん!?