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寒くはない。
涼しいくらいだ。これが真夏だったら家に着くまでに汗だくになってしまってたかもしれない。
助かったな、と柚は小さく息を吐いた。
あれは三日前のことだ。
優陽にアパートの前まで送ってもらったあと、部屋の給湯器の調子が悪くなった。
もちろん管理会社には連絡を入れて対応してもらうのだけれど、即日というわけにはいかない。
お湯が使えないのだから自然とお風呂はどうしようと、すぐに考えた。
面倒なので水風呂で少しの間耐えようかとも思ったが、バイト先の近くまで戻ればオフィス街。銭湯はないが、ネットカフェなら見かけたことがある。
二十四時間営業だし、シャワーもある。
そんなわけで柚はあの夜、優陽に送ってもらった道を戻ってネットカフェへ向かった。
それから三日。
毎夜通い続けているのだが。
アパートの前にたどり着いた柚の目に人影が映る。
街灯が少なく、月明かりも雲に隠れて見えない為、顔がよく見えない。
しかし柚の知り合いであるはずはない。元々人とあまり関わってないうえに、引越し先を知る人などほとんどいないはずだ。
アパートへの出入りを塞ぐようにして佇む人物が気味悪く感じたけれど、とりあえず帰らなければいけない。
再び歩き始めた柚の耳に、その人物の声が届いた。
「お前、本気でこんなとこに住んでんのかよ」
「え……」
心臓が軋んだ気がした。
帰り道、程よく涼んだはずの身体が嫌な熱を持って、背中にじわりと汗を感じた。
「く、久世さん……」
「ったく、世話かけさせんなよ。勝手に引越しやがって。探すのも手間なんだけど?」
街灯もまばらな暗がりの、寂れた背景が似合わない。
半年前まで柚にとって初めての恋人だと認識していた久世章仁が目の前で苛立ったように舌打ちをする。眉下あたりまで伸びた前髪をセンターで分けて、乱れぬように程よくワックスでまとめてある髪型は変わらない。定番のネイビースーツ、シャツも淡いブルーで統一されている姿も、記憶にある久世そのものだ。
決して目立ちすぎることなく、自らが冒険することを嫌いながらも虎視眈々と高みを狙う人間だったと思う。
「おい、聞いてるのか」
第一声よりもやや威圧的に低くなった声に、柚はビクリと肩を揺らした。
「はい……」
「はい、じゃねぇだろ。こっちは蒸し暑い中お前のこと待ってやってたんだけど。早く部屋にあげて涼ませてやろうとか考えないのか」
着替えやタオルが入っているエコバッグを抱きかかえるようにして力を込めたなら、久世はその柚の腕を力強く掴み引っ張り上げた。
「聞いてるのか!」
久世の怒鳴り声、柚は自分の手荷物が地面へ頼りなく落ちてゆくさまを眺める。
こんな、物音さえない夜の寂れた住宅街で大きな声をあげるのはやめてほしい。そう思うのに、奥歯がカチカチと鳴るばかりで声にならない。
「…………っ」
浅くなっている呼吸、声を出そうにも息を吸い込んだなら喉につっかえてうまくいかない。
そんな柚に、相手がどんな感情を抱くかなんて知っているのにうまくできない。
「相変わらずイライラする女だ……ぐぁ!?」
柚の耳に恐ろしく響く久世の声が、突然途切れて驚いたような、呻き声。それはこれまで柚が聞いたことのない種類の久世の声だ。
なにごとかと、ようやく伏せていた視線を上へと向けると。暗がりに、もうひとり、人物が加わった。
「誰がイライラする女だって?」