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私が唯一、解放される場所。商店街の片隅にひっそりと佇む『喫茶うさぎ』。もう2年半くらい、メイド喫茶がお休みの日に通っている。
制服のメイド服を脱いで、普通の服に着替えて、商店街の路地を抜けると、いつもそこにあった。古い木造の建物で、看板の文字は少し色褪せてて、うさぎのイラストが描かれた小さなプレートが、風に揺れてカタカタ音を立てる。
昭和レトロな木枠の窓ガラスは、ところどころ曇ってて、中から漏れる暖かい橙色の灯りが、ぼんやりと外ににじむ。ドアを開けると、チリンと小さなベルが鳴って、お店の中は焙煎したコーヒー豆の香りがふわっと包み込んでくる。
甘ったるいキャンディの匂いじゃなくて、深くて、苦くて、でも優しい香り。木目のカウンターには、これまでの年輪が刻まれていて、何十年もここで誰かが座って、誰かが話して、誰かが静かに本を読んできた跡が、指でなぞると微かに凹凸を感じる。
オーナーのお爺ちゃんの名前は、一彦さん。苗字は知らない。お店に来るお客様はみんな『かずちゃん』と呼んでいる。私も、最初は「一彦さん」って呼んでたけど、ある日「かずちゃんでいいよ、堅苦しいのは嫌いだから」って笑われて、それ以来、みんなと同じように『かずちゃん』と呼んでいる。
白髪を後ろで小さく束ねて、いつもチェックのエプロンを着て、コーヒーを淹れる手つきが、ゆっくりで丁寧で。豆を挽く音、ドリップの落ちる音、カップをソーサーに置く小さなカチッという音。全部が、静かなリズムみたいに響いて、メイド喫茶の「きゅんきゅん♡」の喧騒が、遠い夢みたいに感じる。今日は、いつもの窓際の席に座った。
外はもう暗くなってて、商店街の街灯がぼんやり光ってる。かずちゃんが、黙ってブラックコーヒーを運んでくれる。
「今日は少し濃いめに淹れてみたよ」
って、短く言って、去っていく。カップに口をつけると、苦みが舌に広がって、でも後味にほのかな甘さが残る。インスタントの焦げた匂いじゃない。本物の、丁寧に焙煎された豆の味。
ここでは、誰も「おまえ」って呼ばない。誰も腕を掴まない。誰も「きゅんきゅん♡」を強要しない。ただ、座って、コーヒーを飲んで、時々かずちゃんと短い会話を交わすだけ。
「最近忙しい?」
「うん……ちょっと、でも不思議なお客様がお店に来たの」
「そうですか」
「うん」
それだけでいい。言葉が少なくて、でも温かい。
カウンターの奥で、かずちゃんが新しい豆を袋から出してる。「この豆、弥生ちゃんに合いそうだと思ってさ」って、時々そんなことを言ってくれる。私の名前を、ちゃんと「弥生ちゃん」って呼んでくれる。「おまえ」じゃなくて、「弥生ちゃん」。その一言が、胸の奥にじんわり染みて、涙が出そうになるのを、コーヒーでごまかす。
あと少しで、この店を継げる。450万円。あと少しで、資金が届く。ここで、かずちゃんが教えてくれた淹れ方を、自分の手でやってみたい。カウンターの向こうに立って、誰かに「いらっしゃいませ」って、本物の笑顔で言いたい。
でも、モラちゃんの顔が頭に浮かぶ。名刺のことを根に持って、また悪態をついてくるんだろう。壁に押し付けられて、小言を浴びせられるんだろう。それが怖い。
でも、ここにいると、少しだけその怖さが薄れる。『喫茶うさぎ』は、私の唯一の解放の場所。制服のメイド服を脱いだ瞬間から、「高千穂弥生」に戻れる場所。
カップの底に残ったコーヒーを、ゆっくり回す。苦みが、喉を通って、心の奥まで染みていく。あと少し。この香りを、自分の店で出せる日まで。もう少しだけ、耐えればいい。
かずちゃんが、カウンターから顔を上げて、「弥生ちゃん、今日はゆっくりしていきな」って、静かに言ってくれた。私は小さく頷いて、コーヒーをもう一口。外の商店街の喧騒が、遠くに聞こえる。ここだけが、静かで、あたたかくて。私の、ほんとうの居場所。
チリン ベルが鳴った。新しいお客様だ。
閉店間際に珍しいな、常連さんなんだろうな。私は空になったコーヒーカップを見つめたまま、商店街でカレーの具材を買って帰らなければならないことを思い出した。今朝は珍しく、モラちゃんが朝食のテーブルでポツリと言ったんだ。
「遅くなるけど、カレーが食べたい」
照れ臭そうに目を逸らしながら、「家庭の味を作ってくれよ」って。あの時の声が、まだ耳に残ってる。優しさの欠片みたいに聞こえたけど、本当は命令だ。「俺の好みを優先しろ」って意味の、いつもの鎖。でも、私は「うん、わかった」って小さく頷いてしまった。断ったら、家でまた壁に押し付けられるかもしれないから。
「かずちゃん、もう帰るね」
そう言って立ち上がった時、隣の椅子に座った男性に声をかけられた。
「高千穂弥生さん、会えて良かった。話が早い」
振り向いたそこには、メイド喫茶に現れたスーツ男。宇佐美一帆の姿があった。
一瞬、息が止まる。ここは『喫茶うさぎ』。私の唯一の解放の場所。メイド服の制服も「おまえ」も「きゅんきゅん♡」もない、ただコーヒーの香りと木目のカウンターがある場所。
なのに、なぜ。なぜここに。
宇佐美さんは昨日と同じダークネイビーのスーツ。ネクタイは今日は紺色で、髪の一筋が額に落ちてるのも変わらない。でも、ここではメイド喫茶の時より、もっと自然で、もっと静か。名刺入れを胸ポケットから取り出して、このまえ渡したのと同じ深い赤茶のレザーが、橙色の灯りに照らされて光る。
「突然すみません。名刺に書いた連絡先、まだ見てくれてないかなと思って」
声は低くて、穏やか。怒鳴らない。掴まない。ただ、静かに私を見てる。かずちゃんがカウンターの奥から、コーヒーを淹れる手を止めて、こちらをちらっと見る。でも、何も言わない。私は座り直して、「……どうしてここがわかったんですか」って、掠れた声で聞く。
声が少し震えてるのが、自分でもわかる。宇佐美さんは穏やかに、でもどこか楽しげに目を細めて、
「お祖父ちゃんから、弥生さんのこと、ずっと聞いてたんです」
って、静かに言う。 かずちゃんがカウンターの奥で、コーヒーカップを丁寧に拭きながら、目を細めて微笑んだ。その笑顔が、いつもの優しいお爺ちゃんのものなのに、今日はなんだか、秘密を共有してるみたいなニュアンスがあって。
「一帆はうちの孫なんですよ」
「……えっ!そうなんですか!?」
突然の出来事に、頭がぐるぐる回る。カレーライスの具材を買わなきゃいけないことなんて、遥か彼方に飛んでしまった。モラちゃんの「家庭の味」って言葉も、照れ臭そうな顔も、今はただの遠い記憶みたい。
かずちゃんはエプロンの端で手を拭きながら、ゆっくりとカウンターに肘をついて、
「この店、『喫茶うさぎ』って名前、実は『宇佐美』を捩ったんだよ。うさぎ。昔から、孫が継ぐかもしれないって話してたんだけどね」
って、ぽつりと言う。その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。継ぐかもしれない。でも、かずちゃんは腰を痛めて引退するって言ってた。宇佐美さんは名刺入れをテーブルに置いたまま、
「居抜きで売り渡すって聞いたとき、お祖父ちゃんから弥生さんの名前が出てきて、少し気になって調べたんです。メイド喫茶で働いてる高千穂弥生さん。資金をコツコツ貯めてるって聞いて、それで、店に行ってみたんですよ」
調べていた。私の素性を。一瞬、背筋が冷たくなる。でも、宇佐美さんの目は、監視するような冷たさじゃなくて、ただ、興味と、少しの敬意みたいなものが混じってる。
「あなたがこの店を継ぎたいって気持ち、本気だってわかったんです。だから、個人的に話したくなった」
かずちゃんが、黙って新しいコーヒーを淹れ始める。豆を挽く音が、店内に優しく響いて、頭のぐるぐるを少しだけ落ち着かせてくれる。私は座り直して、
「……かずちゃんは、私に継いでほしいって、言ってくれたんですよね」
って、確認するように呟く。 かずちゃんは頷いて、
「弥生ちゃんみたいな子に、このカウンターを預けたいと思ってたよ。でも、一人で全部抱え込むのは大変だから、孫に相談したんだ。一帆は飲食の再生が専門だから、ちょうどいいかなって」
宇佐美さんが続ける。
「資金の450万円、あなたが貯めてる額なら、あと少しで届く。でも、居抜き物件はリスクも多いんです。設備の老朽化とか、近隣の客層の変化とか。僕が手伝える部分があれば、アドバイスしたいんです。……もちろん、無償で」
無償で。その言葉が、胸に染みる。モラちゃんの「おまえは俺がいなきゃ何も出来ねえ」って声が、頭の隅で反響するけど、今はここに、かずちゃんと、宇佐美さんがいて、「一人じゃない」って、静かに教えてくれてるみたい。
私はカップの縁を指でなぞりながら、
「……ありがとうございます。でも、私、まだ……家に帰ったら、カレー作らなきゃいけなくて」
って、情けない声で言う。宇佐美さんは小さく息を吐いて、
「カレーですか。じゃあ、今日は急がなくていいですよ。連絡先は名刺に書いてある。いつでも、気が向いたら電話ください。本物のコーヒー、淹れて待ってます」
かずちゃんが、新しいコーヒーを私の前に置いてくれる。
「今日はこれ、飲んでから帰りな。少し、頭を冷やして」
って、優しく言う。
私はカップに口をつけて、苦みが舌に広がるのを待つ。モラちゃんの「家庭の味」は、今日だけ、少し遅れてもいい。だって、今、ここにいる私が、少しずつ、本物の自分を取り戻し始めてるから。店内の橙色の灯りが、木目のカウンターを優しく照らしてる。チリンとベルが鳴らない、静かな閉店間際。
私の解放の場所が、今、初めて、未来への扉みたいに感じた。