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ホーロー鍋の中で香辛料の効いたカレーがグツグツと煮立っている。玉ねぎの甘い匂いとクミンのスパイシーな香りが混じって、キッチン全体を満たしてる。私はそれをお玉杓子でぐるぐる回しながら、夕方の奇跡的な出会いを思い出していた。鍋の表面に小さな泡がぷくぷくと上がっては消えて、まるで私の胸の中のざわめきみたい。
「宇佐美さんが、かずちゃんのお孫さんだったなんて……嘘みたい」
声に出して呟くと、湯気が頰を撫でて、少しだけ現実味が増す。でも、まだ信じきれない。
『喫茶うさぎ』のカウンターで、かずちゃんが穏やかに微笑みながら「一帆はうちの孫なんですよ」って言った瞬間、世界が一瞬だけ傾いた気がしたんだ。
あの橙色の灯りの中で、木目の年輪をなぞる指が止まって、私はただ「えっ」としか言えなかった。しかも、かずちゃんとの売買の後のコンサルタントを無償でしてくれると言う。居抜き物件のリスク、設備のメンテナンス、開業後の資金繰り、客層の掴み方まで、全部アドバイスしてくれるって。
「弥生ちゃんが継ぐなら、ちゃんと支えたい」
って、かずちゃんが静かに言った言葉が、今も耳の奥で響いてる。そして、聞けば、『喫茶うさぎ』の2階は居住スペースになっていて、暮らすこともできるんだって。狭いけど、木の温もりがあって、窓から商店街の灯りが見える小さな部屋。
そこに住めば、朝起きてすぐカウンターに立って、自分の手でコーヒーを淹れられる。誰にも「おい」って呼ばれずに、「いらっしゃいませ」って、本物の声で言える。
モラちゃんと離れて……ううん、別れて新しい人生をスタートを切ることも可能だ。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、お玉を持つ手が止まった。鍋の中のカレーが、ぐつぐつと音を立ててる。モラちゃんの帰宅時間まで、あと少し。今夜はカレーを作って待ってるって、今朝の照れ臭そうな顔を思い出すと、胸がちくりと痛む。「家庭の味」って言われた言葉が、優しさの欠片みたいに感じて、でも本当は鎖の新しい形だって、わかってる。
別れるって、ただの決断じゃない。壁に押し付けられる小言も、「おまえ」って呼ばれる毎日の息苦しさも、全部終わらせるってこと。怖い。でも、『喫茶うさぎ』の2階で、朝の陽光にコーヒーの香りを混ぜながら、一人で静かに朝食を取る自分が、急に鮮やかに想像できてしまう。
私はお玉を鍋に戻して、火を少し弱める。
カレーはもう十分に味が染みてる。これ以上煮詰めると、スパイスの香りが飛んでしまう。モラちゃんが帰ってきたら、「おかえり」って言って、皿に盛って、一緒に食べるんだろう。でも、今日は違う。今日の私は、少しだけ変わってる。ポケットにしまった名刺の感触が、まだ手のひらに残ってる。
宇佐美一帆。
かずちゃんの孫。私の夢を、無償で支えてくれる人。「別れる」って言葉が、頭の中で何度も反響する。怖いのに、どこかで、「もういいかも」って声が小さく囁いてる。
資金はあと少しで400万円。あと少しで、この家を出て、『喫茶うさぎ』の2階に引っ越して、自分の名前で生きられる。高千穂弥生として。カレーの匂いが、部屋いっぱいに広がってる。モラちゃんの足音が、玄関の方から聞こえてくる。私は深呼吸して、営業スマイルじゃなく、ただの、疲れた笑みを浮かべる。今日も、あと少しだけ耐える。でも、今夜のこのカレーは、最後の「家庭の味」かもしれない。そう思うと、鍋の湯気が、少しだけ優しく見えた。
玄関のドアがガチャリと開く音がした。モラちゃんの帰宅時間。私はホーロー鍋の火を弱めて、エプロンを外しながら、深呼吸する。カレーの香りが部屋中に広がって、いつもなら「いい匂い」って一言くらい言ってくれるのに、今日はその言葉を待つ自分が、なんだか滑稽に思える。
「おかえり」
私はキッチンから顔を出して、作り笑いを浮かべる。モラちゃんは靴を脱ぎながら、コートをハンガーに掛けて、無言でリビングへ入ってくる。顔が少し赤くて、酒の匂いがする。会社帰りに、どこかで一杯やってきたんだろう。ネクタイを緩めて、ソファにどっかり座る。
「おい、カレーできたか?」
「うん、もうすぐ。ご飯も炊けてるよ」
私は皿にカレーを盛り始める。ルーがトロトロで、具材がしっかり煮込まれて、家庭の味って感じに仕上がってる。でも、手が少し震えてる。今日の『喫茶うさぎ』での出来事が、頭の中でぐるぐる回ってるから。かずちゃんの孫。無償コンサル。2階の居住スペース。別れて、新しい人生。モラちゃんはテーブルに着いて、スマホをいじりながら待ってる。私はご飯をよそって、カレーをかける。
「いただきます」って小さく言って、向かいに座る。スプーンを手に取った瞬間、彼の視線が上がった。
「今日も何かあったか?」
声は低くて、探るみたい。名刺のことを、まだ根に持ってるんだ。宇佐美さんの顔を思い出すと、胸がざわつくけど、平静を装って、「お休みだったから何もないよ」って答える。モラちゃんはカレーを一口食べて、「まぁ、食えなくはないな」って、いつもの調子で言う。
でも、今日は少し違う。スプーンを使ってる手が、時々止まる。視線が、私の顔をちらちら見てる。
「おまえ、なんか変だぞ。ずっと、ぼーっとしてる」
心臓が跳ねる。変化に敏感なのは、いつも通り。でも、今日は隠しきれない自分がいる。
「そんなことないよ。疲れてるだけ」
って、誤魔化すけど、声が少し上ずってる。モラちゃんはスプーンを置いて、テーブルに肘をつく。
22
「おい、あのスーツの野郎、まだ連絡してねえよな?」
直球。私はカレーを口に運ぶふりをして、時間を稼ぐ。
「……してない」
頭の中では、宇佐美さんの「本物のコーヒー、淹れて待ってます」って言葉が、繰り返されてる。モラちゃんは鼻で笑って、
「当たり前だろ。おまえみたいなのが、あんなのに相手にされるわけねえよ。俺がいなきゃ、何も出来ねえくせに」
いつもの言葉。
「おまえは俺の女だろ」
って、暗に言ってる。でも、今日は胸の奥で、何かがきしむ音がする。これまでなら、黙って耐えてた。でも、今日だけは違う。『喫茶うさぎ』の2階で、朝の陽光にコーヒーの香りを混ぜて、一人で立つ自分が、はっきり見えてしまうから。
「カレー、美味しい?」
私は話題を変える。モラちゃんはもう一口食べて、
「まぁな。家庭の味だろ、これ」
って、照れ臭そうに目を逸らす。今朝の言葉を、繰り返してる。でも、その言葉が、今はただの鎖にしか聞こえない。モラちゃんはソファに座って、テレビをつけて、ビールを飲み始める。私はキッチンで、シンクの水音に紛れて、小さく息を吐く。別れの言葉を、心の中で練習し始めてる自分がいる。
「おい、ビール」
「あ……うん」
冷蔵庫から冷えたビールを取り出す。指に伝わる冷たさが、私の心を凍らせる。缶の表面に付いた水滴が、ぽたりと床に落ちて、小さな染みを作る。ビールのプルタブを開け、空になったグラスに注ごうと傾けると、目の端に天鵞絨の深紅の小さな箱が見えた。
「……これ」
モラちゃんは照れ臭そうにその箱を手に取った。ソファに座ったまま、膝の上で箱を弄ぶようにして、視線を少し逸らしながら。いつも不機嫌そうな顔が、今日は少しだけ柔らかくて、でもその柔らかさが、逆に息苦しい。
「ありがたく思えよ」
低い声でそう言って、箱の蓋を開ける。中にはダイヤモンドが輝くエンゲージリングが煌めいていた。小さな石だけど、光を浴びるとキラキラと七色に散って、まるで宝石箱の中の星みたい。指輪の内側に、小さく刻まれた文字が見える。「M to Y」かな。幹雄から弥生へ、って意味なんだろう。でも、私の胸は、凍ったまま動かない。
「プロポーズ……?」
声が掠れて、出てきた。モラちゃんはビールを一口飲んで、
「当たり前だろ。おまえ、俺の女なんだから。結婚して、ちゃんと俺の家で暮らせよ」
って、ぶっきらぼうに言う。照れ隠しなのか、目が少し赤い。でも、その言葉は優しさじゃなくて、「所有権を確定させる」って意味にしか聞こえない。私はグラスをテーブルに置いて、指輪の箱を見つめる。ダイヤモンドが、冷たく光ってる。
今日の『喫茶うさぎ』で聞いた言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
「2階は居住スペースになってる」
「無償でコンサルする」
「弥生ちゃんみたいな子に継いでほしい」
かずちゃんの穏やかな声と、宇佐美さんの静かな微笑みが、この深紅の箱を、急に小さく見せてる。
「どうした?喜べよ」
モラちゃんが、少し苛立った声で言う。私は小さく息を吸った。