四月の終わり。
キッチンで二人、朝食の支度をしながら実篤はすぐ横に立つくるみに声を掛けた。
「生クリームは無理でもホイップクリームなら常温でも割と大丈夫そうよね」
今朝はくるみが持ってきてくれたブリオッシュをサンドイッチにして食べようと言う算段になっている。
具材は卵やハムやチーズなどアレコレ用意してあったけれど、手始めにオーソドックスなクリームたっぷりのマリトッツォにチャレンジしてみたいと思ったのは当然と言えた。
普通のパンより砂糖や卵の割合が多い、フランスではリッチな菓子パンとして扱われるブリオッシュで出来たマリトッツォを、くるみは同窓会の席で試食して帰って以来アレコレと試行錯誤の真っ最中。
「何かうちの実験に付き合わせるみたいになってしもうてごめんなさい」
コロコロ艶々の、テニスボールくらいの大きさの可愛らしいブリオッシュをこんもりバスケットに入れて実篤の家へ泊まりに来たくるみに、実篤は「くるみちゃんが作るパンはみんな美味しいけん、大歓迎よ」とにっこり笑った。
実篤は甘いものが苦手だ。
そのことを知っているくるみは、ホイップクリームや生クリームを挟んだ甘いマリトッツォを実篤に食べさせることに大きな抵抗を感じているのだけれど。
移動販売の手伝いにしてもそうだけれど、真剣にパン屋業を頑張るくるみを、実篤は色んな形で支えたいと常日頃から思っている。
だから例え苦手な甘いものを食べなくてはいけないとしても、くるみの試作に付き合うことに対して、苦痛なんて感じたことはない実篤だ。
だが、くるみとしては申し訳なさがどうしても拭えないらしい。
シュンと萎れるくるみに、
「俺、くるみちゃんの家族になりたいって言うたじゃん? 亡くなったくるみちゃんのご両親だって、くるみちゃんがこうやって作った試作品、喜んで食べてくれよったんじゃないん?」
自信満々に言ったら、くるみがコクッとうなずいて瞳を潤ませる。
実篤はくるみの小さな身体をギュウッと腕の中に抱き締めると、「俺も同じ気持ちよ?」と彼女の柔らかい髪の毛に口付けを落とした。
きっと両親を亡くして以来、実篤が知らないところで、くるみは頼れる人を見つけられないままにずっと一人で頑張って来たんだろう。
小悪魔の癖に、未だに肝心なところでは甘えるのが下手くそなくるみのことを、実篤は心の底から愛しい、守ってあげたいと思った。
「俺、くるみちゃんのためじゃったらケーキのホール食いだって出来るで?」
クスクス笑いながら言って、腕の中のくるみに、「うち、ケーキ屋さんじゃないけん」と微笑まれる。
さっきまでしょぼくれていたくるみが、ほんのちょっぴりだけど笑顔になってくれたことが実篤にはとても嬉しかった。
***
実篤の協力のお陰もあって、五月から本格的に暑くなる前――六月の終わりまで、『くるみの木』のメニューにブリオッシュを使ったマリトッツォが加わることになった。
冷蔵庫のない移動販売車『くるみの木号』では生クリームを扱うのは難しいと言う判断で、ふんわり甘さ控えめのホイップクリームが採用されたのだけれど。
シンプルにプレーンタイプのホイップクリームのみのもの以外にもバナナ、イチジク、干しブドウ、リンゴジャムと言った水分が少ない果物を入れたものや、ホイップクリームに抹茶やチョコレートを練り込んだものなど、数種類ずつを日替わりで選べるようにした。
その全種類をくるみと共に試食した実篤だ。だが――。
「俺の口に合わせよったらどれもこれも甘うなくなりそうじゃけん、うちの従業員らにも食べてもろうて話聞いてみん?」
至極もっともな提案をした実篤に、「じゃけど……ご迷惑じゃないでしょうか」とくるみが言う。
実篤はふふんと鼻を鳴らすと、「うちのメンバーが『くるみの木』のパンのファンなん、知っちょるじゃろ?」と笑い飛ばした。
中でもとりわけチョココロネは、実篤にとって思い入れのあるパンだ。
くるみがクリノ不動産横にパンを売りに来てくれるようになって以来、従業員たちに結構な頻度でそれを買ってはプレゼントしているのだけれど、 従業員らもそのことを楽しみにしてくれていて、週に一度は休憩時のおやつのお供はくるみの木のチョココロネ、というのが定番付いている。
善は急げ。市内への配達が終わった後、くるみにクリノ不動産まで来てもらった実篤は、くるみとともに従業員らにマリトッツォの開発に手を貸して欲しい旨を伝えて、 皆から二つ返事で「むしろ大歓迎です!」と言うお墨付きをもらった。
そんな風にしてみんなで試行錯誤しまくった新商品のマリトッツォが美味しくないわけがないのだ。
コンビニなどで買える、生クリーム入りのマリトッツォにも引けを取らない美味しさだとお客さんたちから褒めてもらえて、くるみはとても嬉しそうだった。
そんなくるみの様子を見るのが実篤は本当に大好きで、
「社長が木下さんを見よーる優しそうな目、嫌いじゃないです」
いつもは〝気持ち悪い顔〟と揶揄ってくる田岡や野田が、そんな風に言ってくれるのも心地よくて幸せだなと思った実篤だ。
実篤自身、繁忙期を終えて割とすぐくらいからくるみの家への引っ越し準備として実家にある荷物の整理を少しずつ開始しているし、そう言うことをしているとどうあってもくるみとの共同生活を夢想せずにはいられない。
嬉し恥ずかしな結婚生活へ向けて秒読みを開始した二人は、今まさに幸せの絶頂期。
実篤もくるみも、ずっとこんな穏やかな日が続けばいいと心から願っていたのだけれど――。
***
「五月十九日はくるみちゃんの誕生日じゃん?」
三月いっぱいを目処に引っ越しラッシュもほぼ終わり、クリノ不動産の繁忙期もやっとひと段落が付いたということで、四月の月初めに広島に住む実篤の両親へ婚約のあいさつに行った二人だったけれど、引っ越し準備もさることながら、くるみの誕生日までに結婚指輪を何とかしたいと思っている実篤だ。
彼女の誕生日を目処にしているのは、くるみに誕生日プレゼントは何がいいかと尋ねたら、実篤とペアになるリングが欲しいと言われたのがきっかけになっている。
「結婚指輪は誕生日プレゼントとは別に用意するつもりなんじゃけど……ホンマにプレゼント、ペアリングでええん?」
実篤の言葉に、くるみが慌てたようにフルフルと首を横に振ったのだ。
「うち、年明けにも実篤さんにアクセサリー買うてもろうちょります。実篤さんはあれ、クリスマスプレゼントじゃとか言うちゃったですけど……イヤリングとチョーカーをくれたけん、明らかにひとつ多いです。それに――」
そこでギュッと実篤の手を握ると、くるみが大きな目で実篤を見上げてくる。