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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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小石川の坂の途中で、自動車が止まった。
古い長屋門の向こうに、松の枝がのぞいている。白河子爵家だった。
五月の半ばの、よく晴れた日曜日だった。
麻布からここまで、冬馬様はほとんど口をきかなかった。窓の外を、若葉の並木と、日傘の婦人と、自転車の御用聞きが流れていった。
千鶴さんも、この坂を自転車で下っていたのだろうか。袴の裾を翻して、ブレーキをきいっと鳴らして。
「私は、ここで待つ」
冬馬様は、門のほうを見ずに言った。
「白河の家は、私の顔を見たくないだろう。……訪ねたいという君の手紙を、取り次いだだけだ」
「旦那様は、去年の一周忌に」
「一番後ろに座って、一番先に帰った。それでいい」
冬馬様は、手袋の指で、私の帯留めの銀の活字をまっすぐに据え直した。
「何時間かかってもいい。ここにいる」
それから、座席の脇から、竹皮の包みを出して、私の膝に置いた。
「帰りに、食べろ。白河の菓子は、甘すぎる」
私は、包みを両手で受け取った。まだ、ほのかに温かかった。
*
通された座敷で、小柄な婦人が待っていた。
鼠色の縮緬の着物に、髪を低くまとめている。顔を上げた瞬間、息が止まりそうになった。
口元が、千鶴さんにそっくりだった。
「栞さんね」
子爵夫人は、私の手を取った。
「覚えていますよ。女学校の文芸部の冊子を、届けに来てくださった。袴の裾に、インクの染みをつけて。カステラを、三切れも召し上がって」
「……お恥ずかしゅう、ございます」
「あの子が、笑っていたわ。栞は、紙と食べ物のことになると、目の色が変わるのって」
子爵夫人は、そう言って笑い、それから、袂で目元を押さえた。
「あの子の、親友。……その方が、あの家に嫁がれたと聞いたときは、眠れませんでした」
私は、畳に手をついた。
「千鶴さんのことを、知りたいのです。どうして、あの崖へ行かれたのか」
子爵夫人は、長いあいだ私を見ていた。
「侯爵様から、お手紙をいただきました。妻に、千鶴のものを見せてやってほしい、と。……それだけの、短いお手紙でした」
白い指が、膝の上で重なった。
「一周忌のとき、あの方は、本堂の一番後ろに座って、お経のあいだじゅう、一度も頭を上げなかった。主人は、お声もかけませんでした。私も」
子爵夫人は、そこで言葉を切った。
「三回忌は、今年は鎌倉の長谷のお寺で、と侯爵様から。あの子が好きだったお寺ですって。……私、あの方のことが、いまだによくわからないのよ」
「千鶴さんは、亡くなる前の夏、こちらへお戻りになりましたか」
「七月の初めに、一度だけ。鎌倉へ発つ前に」
子爵夫人は、庭の松に目をやった。
「明るい顔をしていましたよ。いつもより、よくしゃべって。でも、帰りぎわに、妙なことを訊いたの。お母様、明治の頃の紙と、今の紙と、見分けがおつきになる、って」
私は、思わず指を握りこんだ。
「私は、わからないわ、と答えました。あの子は笑って、そうよね、栞ならわかるのに、って。……それが、あの子とこの家で話した、最後でした」
*
運ばれてきたのは、黒塗りの文箱だった。
蓋に、萩の蒔絵。角の金具が、少しくすんでいる。
「鎌倉の別荘にあった身の回りのものと一緒に、久遠寺家から送り返されてきたの。家令の方が、目録をつけて、それは丁寧に」
子爵夫人は、蓋に手をかけて、少しためらった。
「私は、一度開けて、それきり。……どうぞ」
蓋を取ると、千鶴さんの匂いがした。
いや、そんな気がしただけだ。紙と、古い墨と、ほんのかすかな、白粉の匂い。
手紙の下書きが、数枚。女学校の文芸部の集合写真。押し花の栞。
下書きの一枚を、何気なく開いて、手が止まった。
「栞、元気? 鎌倉は風が気持ちいいわ」
私が行李の底に隠し続けた、あの手紙の下書きだった。
近況の行は、すらすらと書かれている。けれど、終わりのほうで、筆が何度も迷っていた。
「栞、この家には」と書いて、線で消してある。「栞、気をつけて」と書いて、また消してある。三度目に、ようやく、「この家の紙は嘘をつく」。
千鶴さんは、この一行を書くのに、こんなに迷ったのだ。私を巻きこむかどうか、最後まで。
清書のほうには、迷いの跡など、ひとつも残っていなかったのに。
そして、一枚の写真。
志摩活版所の、格子戸の前だった。
自転車のハンドルを握って、海老茶袴の千鶴さんが、八重歯を見せて笑っている。その隣に、前掛けをかけた私が、手を後ろに隠して立っていた。
インクで汚れた指を、見られたくなかったのだ。
裏を返すと、鉛筆の字があった。
「大正七年五月 志摩活版所の前にて 栞と」
「す」の結びが大きくて、行の終わりが、右へ逃げていく。千鶴さんの字だった。
あの罫を落とした、同じ月だ。店に写真をやる客がいて、刷り代の代わりに一枚撮っていったのだった。
私は、その写真を、長いこと膝の上で見ていた。
「それは、あなたが持っていてちょうだい」
子爵夫人が、静かに言った。
「あの子が、二人で写っているのは、それ一枚きりなの。私が持っていても、泣くだけですもの」
*
文箱の下のほうに、小さな当用日記があった。大正十年の、臙脂の布張り。
子爵夫人に目で問うと、静かにうなずいた。
頁をめくる。日記というより、覚え書きだった。一日に一行か、二行。
四月の頁に、目が止まった。
「本郷の宇佐美先生へ。頭痛と申して。小夜子様のことを伺う。流行性感冒と。先生の目が逃げた」
七月二十日。
「十二階。一人で、てっぺんまで。八階の写真屋さんに、預けもの」
宇佐美先生の、あの青い顔が浮かんだ。十二階の写真屋の、前垂れの主人も。
千鶴さんは、一人で、全部の道を歩いていたのだ。私より、二年も先に。
七月二十五日。
「鎌倉へ。海の色が、去年より青い。旦那様は、お盆にいらしてくださるそう」
八月に入ると、字が急に細かくなった。三字ほど書きかけて、上から濃く塗りつぶした跡。罫、という一字だけが、丸で囲んである。
最後の頁は、八月十三日だった。
「明日、旦那様にお電話をする。明後日いらしたら、全部お話しする。旦那様は、きっと信じてくださる」
字が、少しだけ大きかった。
嬉しいときの、千鶴さんの字だった。
私は、日記を閉じられなかった。
千鶴さんは、冬馬様を疑っていなかった。
私がこの一年、毎朝、卵焼きを食べながら疑い続けた人を、千鶴さんは、最後の夜まで信じていた。
信じて、打ち明けるつもりでいた。
「……栞さん」
子爵夫人の声で、自分が泣いていることに気づいた。
*
日記を戻そうとして、指が止まった。
文箱の底に敷いた紙が、隅のほうだけ、ほんのわずかに浮いている。
女学校の頃、千鶴さんと二人で決めた、秘密の隠し場所があった。箱の底板と、敷き紙のあいだ。教師に見られたくない詩の下書きを、二人ともそこへしまった。
嫁ぐとき、私も、千鶴さんの手紙を行李の同じところに隠した。
「奥様、少し、よろしいですか」
子爵夫人が、怪訝そうにうなずいた。
爪の先で、敷き紙の端を持ち上げる。
底板の上に、細長い紙の包みが一つ、平たく貼りつくように置かれていた。
持ち上げると、中で、硬いものが動いた。
包みを開く。
小さな真鍮の鍵が一本、出てきた。持ち手に、細い紐で木の札が結んである。札には、千鶴さんの字で「かまくら」とだけ。
鍵を包んでいた紙を、私は広げた。
生成りの、少し焼けた色の、厚手の和紙。上の端に、細い輪の中に葉が四枚の、古い紋。四方を囲む、子持ち罫。
帯からルーペを抜く手が、震えた。
左下の角。太い罫の外側に、米粒の半分ほどの、三角の欠け。
鎌倉の別荘の鍵は、私の欠けで、包まれていた。
コメント
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もうもうもう…!😭💦 第51話、読み終わってしばらく動けなかったよ…! 千鶴さんの文箱、一つ一つの遺品が全部、彼女の息づかいとか温度とか伝えてきて、胸がぎゅうぎゅうしたよ…。特にあの隠し場所の鍵!「かまくら」って札に書いてあったとき、栞ちゃんと同じで私も指が震えた…! そして最後の日記の「信じてくださる」の字が大きくて嬉しそうなところ、千鶴さんがどれだけ冬馬様を想ってたか伝わってきすぎて涙が止まらなかった…😢💕