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朝の光が、薄い白いカーテンを柔らかく透かしていた。
そのやわらかな光は、まるで手のひらで撫でるように、部屋の隅々を静かに照らしていく。
まだ少しひんやりとした空気のなか、季節は確かに冬を抜け、春へと歩き始めていた。
ケビンは、まぶたの裏に射すその光に導かれるようにして、ゆっくりと目を開けた。
いつもよりずっと静かな朝。
目を覚ました瞬間、心のどこかがふわりとほどけていく感覚があった。
隣に目をやると、史記がベッドの端で丸くなって眠っていた。
毛布からのぞく腕が無防備で、寝息は規則正しく、穏やかだった。
寝癖で跳ねた前髪が、いつもより幼く見える。
まるで昔、部活帰りにソファでうたた寝していた姿を思い出させるような――そんなあどけなさが残っていた。
ケビンは静かに毛布をかけ直し、ベッドを抜け出すと、そっとキッチンへ向かう。
キッチンに差し込む朝日が、磨かれたガラスコップやステンレスのポットをやわらかく照らす。
棚の上には、昨夜史記が「絶対これ美味いから」なんて言いながら買ってきたご当地グミの袋が、控えめに存在感を放っていた。
ケトルのスイッチを押し、豆を挽く。
キッチンに広がるのは、ほろ苦く、それでいて心を落ち着かせる香ばしいコーヒーの香り。
(昔の俺だったら、こういう時間にさえ怯えてたかもしれない)
“平穏”は失うのが怖くて、手を伸ばすことすらできなかった。
でも今は――この静かな穏やかさが、ただただ、愛おしかった。
テーブルに並んだのは、ふたりぶんのオムライス。
あたたかい湯気が立ちのぼるそれは、完璧とは言い難いけれど、どこか嬉しそうに見えた。
ケチャップで書かれた文字は、ちょっと曲がっていて、不器用な愛情の形をしている。
「ケチャップで“ありがとう”って書いてみたけど、読める?」
史記が寝ぼけた目をこすりながら席につき、むにゃむにゃと言葉を返す。
「“ありがす”?って読めた」
ケビンは笑いをこらえきれず、ふっと肩を震わせた。
「……ぐっすり寝てるくせに、文句は一人前だな」
「うん。でもさ、お前が起きるより先に、コーヒーの香りがしてるとさ。
なんか、ああ……“幸せ”ってこういうことなのかもって、思うんだよね」
史記の声はまだ少し眠たげだったが、その一言には確かな重みがあった。
ケビンは笑って、軽く頷いた。
「俺も、君のくしゃくしゃの寝癖を見ると、ちょっと安心する」
「そこ!?」
史記が目を丸くして突っ込むと、2人の間にまた小さな笑いが弾けた。
窓の外では、春の風が街路樹の若葉を揺らしている。
遠くから鳥のさえずりが届いてきて、それがまるでふたりを祝福しているかのようだった。
まるで、「大丈夫、今日もちゃんと始まってるよ」と教えてくれているように。
食後、ケビンは自分のノートパッドを取り出し、小さな譜面を書き始めた。
五線譜の隙間に、小さな旋律がひとつずつ生まれていく。
その隣で、史記はバスケ部の練習メニューをノートに書き込んでいた。
フォームを確認するための図、筋トレの時間、シュート練の割合。
黙々と、でも楽しげに書き込んでいる。
違うリズムのなかにいるようで、どこかでぴたりと重なる。
音と鼓動が寄り添うように、ふたりの日常が重なっていく。
ケビンはふと顔を上げ、横顔を見つめた。
「この先もさ、きっといろんな壁があると思う。
だけど……もう、“一人で乗り越えなきゃ”とは思わない」
史記はその言葉に、すぐに顔を上げてまっすぐ見返した。
「うん。一緒に行こう。音が止まっても、俺が背中押す。
お前が迷っても、俺が前を照らす」
静かな決意が、その瞳に宿っていた。
ケビンは、小さく微笑んだ。
「じゃあ、君が疲れたときは、俺が弾く。眠れるように、優しい曲を」
「……ずるいな。そう言われたら、何も言えないじゃん」
「君が、好きだから」
その一言に、史記は顔を赤くして、でも何も言わなかった。
ただケビンの肩に、自分の頭を軽く預ける。
それだけで、十分だった。
言葉が途切れても、沈黙が怖くなかった。
2人の間に流れていたのは、もう迷いではなく、確かな愛情の温度だった。
窓の外では、また春風がふわりと舞い上がる。
薄いカーテンがゆるやかに膨らみ、陽だまりが床の上を静かに滑っていった。
光はまるで、未来を照らすようにやさしかった。
世界はまだ忙しく回っている。
でも、この小さな部屋の中には、確かに“今”が満ちていた。
この世界のどこかに、たしかに君がいて、
そして今は――隣にいる。
それだけで、何よりの奇跡だった。