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太平洋戦争(たいへいようせんそう、スペイン語: Guerra del Pacífico)は、1879年から1884年にかけて、ボリビア共和国およびペルー共和国とチリ共和国の間で行われた戦争である。1941年に勃発した同名の戦争と区別するため、硝石戦争(スペイン語: Guerra del salitre)とも呼ばれる。
戦争:太平洋戦争
年月日:1879年–1884年
場所:旧ボリビア領およびペルー領の海岸から内陸地; 現在のタラパカ州からアントファガスタ州
結果:チリの勝利; ボリビア領だったアントファガスタ州と、ペルーの旧タラパカ県、アリカ県など、現在のチリ共和国の第一州、第二州および周辺の領土をチリが獲得。
交戦勢力
ペルー
ボリビア
チリ
指導者・指揮官
🇵🇪 ペルーの大統領
マリアーノ・イグナシオ・プラード (1876-1879)
ルイス・ラ・プエルタ (1879)
ニコラス・デ・ピエロラ (1879-1881)
フランシスコ・ガルシア・カルデロン (1881)
リサルド・モンテーロ (1881-1883)
ミゲル・イグレシアス (1882-1885)
🇧🇴ボリビアの大統領
イラリオン・ダサ (1876-1879)
ウラディスラオ・シルバ (1879-1880)
ナルシソ・カンペロ (1880)
アニセト・アルセ (1880)
ナルシソ・カンペロ (1880-1884)
🇨🇱 チリの大統領
アニバル・ピント (1876-1881)
ドミンゴ・サンタ・マリア (1881-1886)
1878年においてペルー・ボリビア軍 7,000人
1878年においてチリ軍 4,000人
損害
ペルー:死傷者35,000人
ボリビア:死傷者5,000人
死傷者15,000人
概略
南アメリカ大陸の太平洋岸の資源地帯を巡る戦争であり、係争3カ国の主要鉱石が硝石であったことから「硝石戦争(しょうせき せんそう、スペイン語: Guerra del Salitre)」とも呼ばれる。「太平洋戦争」とは、スペイン語の“Guerra del Pacífico”の訳にあたり(“Guerra”が「戦争」、“El Pacífico”が「太平洋」の意)、主に海戦が主体であったことによる。
イキケの海戦
16世紀にスペインやポルトガル王国などの植民地となっていた南米諸国は、フランス革命などの影響で19世紀には独立運動が起こり、ホセ・デ・サン=マルティンにより1818年にはチリが、1822年にはペルーが独立した。その後サン=マルティンに代わって、北のベネスエラからヌエバ・グラナダ、グアヤキル、キトと解放戦争を進めていたシモン・ボリバルと、アントニオ・ホセ・デ・スクレによってスペイン軍最後の拠点となっていたアルト・ペルーは1825年に解放され、南米の解放戦争が終わった。同年アルト・ペルーの指導者は、解放者シモン・ボリーバル (Simón Bolívar) にちなんで国名をボリビア (Bolivia) と改め、独立した。これらの国々では独立後も主導権争いが起こり、ペルーとボリビアではカウディージョ(地方の軍事指導者)間の内戦が続き、1836年にはボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを征服して、ペルー・ボリビア連合が成立するなどの動きがあったものの、チリとアルゼンチンのフアン・マヌエル・デ・ロサスの攻撃により1839年にこの連合が崩壊すると、以降は再び内戦と無政府状態が続いていた。ペルーでは1845年にラモン・カスティージャがこの混乱を収め、イギリス資本の借款によってグアノが開発されると、その資金を背景に1868年頃までは経済的にも安定し、公共事業が進められ、鉄道が各地に建設された。1860年代にスペインはペルーの再侵略を図ったが、1866年5月2日のカヤオの戦い(スペイン語版、英語版)でペルー軍が勝利すると、最終的にスペインのアメリカ再植民地化の試みは打ち砕かれた。しかし1870年代に入ると鉄道建設は莫大な赤字を生み、そのために対外債務はますます増え、さらに内政も混乱を迎えた。一方ボリビアでは1855年にポプリスモ的なマヌエル・イシドロ・ベルスー政権が崩壊した後も、事実上の支配者としてベルスーが君臨していたが、1864年にベルスーを暗殺して大統領になったマリアーノ・メルガレホの時代に国家の混乱は頂点に至った。メルガレホは奢侈に耽るために紙幣を乱発し、さらにはアタカマの硝石採掘権もチリに売ってしまった。インディオの共有地を解体して大土地所有者に分配し、自由貿易を導入してそれまで保護されていた手工業を崩壊させ、このような政策に反対したティティカカ湖周辺のインディオを虐殺するなど人種間の対立も強められた。こうして暴政を行ったメルガレホは1871年に追放されたが、その後も政治は安定しなかった。一方でラテンアメリカの中ではパラグアイと共に、独立後の自由党と保守党の間の内乱と無政府状態を逃れていたチリは、ディエゴ・ポルターレスをはじめとする保守派の強力な指導の下に1833年憲法を制定し、保守派の指導の下で国家の安定と、強国政策を実現した。その後南部のパタゴニア先住民、マプーチェ族を討伐して領域を安定させると(アラウカニア制圧作戦)、経済政策として硝石を始めとする鉱山開発を開始した。アタカマ砂漠において硝石や鉄鉱石の鉱脈が発見されると、イギリス資本の提供を受けたチリ企業がボリビア国境地帯へと進出し、ボリビア領アントファガスタ県、ペルー領タラパカ県において、採掘権を得て開発を開始した。そして上述したように、メルガレホの追放後財政難であったボリビアと、グアノ(鳥糞石)の枯渇と価格暴落に直面していたペルーは硝石採掘に注目。1873年にペルー・ボリビア両国は対チリ硝石地帯防衛のための秘密同盟を結んだ(相互防衛条約 (ペルー=ボリビア)(スペイン語版、英語版))。1874年にボリビアとチリの間でアントファガスタ県においては、ボリビアがこれ以上チリ・イギリス系企業に対して輸出税率を上げないことを決めた条約が結ばれた。1875年にはペルーがタラパカのチリ系企業を有償接収した。1878年12月、秘密同盟を後ろ盾にしたボリビアのイラリオン・ダサ大統領はチリ系企業に輸出税を課税した。チリがこれを1874年協定違反だとして拒否すると、ボリビアは硝石を禁輸し、チリ企業を接収した。1879年2月、硝石企業の保護のため、チリが5000人の兵力を派遣してアントファガスタを軍事占領し、ボリビアの太平洋地域を制圧した。ボリビアのダサ大統領はペルーに援軍を要請しようとしたため、4月5日にチリはペルー・ボリビア両国間の秘密条約破棄を迫って両国に宣戦布告した。
コメント
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難しすぎて、頭が追いつかない…(°ω。)