テラーノベル
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雪のように静かな始まりだった。妹が生まれた日のことを、フョードル、否フェージャはよく覚えている。
小さくて、柔らかくて、壊れてしまいそうな命。
産着に包まれたその子を抱き上げながら、幼い兄は嬉しそうに笑っていた。
「可愛いねぇ、ぼくのフェーニャ」
その頃の世界は、まだ優しかった。
父と母がいて、温かな食卓があって、窓辺には陽が差し込む。
何の縛りもない、ただ穏やかなだけの日々。
――そんなものが、永遠に続くと信じていた。
けれど。
「……母さん? 父さん?」
ある日、その平穏は呆気なく壊れた。
家の中に広がる鉄の匂い。
倒れ伏す両親。
そして、その傍らに立つ異能者たち。
幼いフェージャは理解できなかった。
何故。
どうして。
何をしたというのか。
「すまないね、我々のために死んでくれ」
向けられる刃。
次の瞬間には、焼けるような痛みが身体を貫いていた。
崩れ落ちながら、フェージャの頭にあったのは、自分のことではない。
(あぁ、まだダメだ)
霞む視界。
遠のく意識。
(フェーニャは? まだ、妹だけは……)
死ねない。
そう思った瞬間だった。
身体の奥で、何かが蠢いた。
――どくり。
嫌な感覚。
けれど、それを理解する前に意識が途切れる。
そして。
「……は?」
次に目を開けた時。
フェージャは生きていた。
傷の痛みは残っている。
だが確かに、生きている。
しかし。
自分を殺したはずの異能者たちの姿はなかった。
代わりに周囲へ散らばっていたのは、彼らが身につけていたであろう服だけ。
まるで、中身だけが消え去ったかのように。
「……まさか、これはぼくの異能?」
その瞬間だった。
本人すら気づいていなかった天才的な頭脳が、急速に回り始める。
状況を分析し、仮説を立て、答えへ辿り着こうとする。
だが。
次の瞬間。
「おぅ、うぇ……!」
幼い少年は、その場で吐きそうになる。
頭に浮かんだ感情は、ただ一つ。
(気色悪い)
自分もまた、“あちら側”の存在だった。
両親を奪った怪物たちと同じ、人ならざる異能者。
その事実が、どうしようもなく気持ち悪かった。
けれど。
「フェーニャ! フェーニャは⁈」
震える足で部屋を駆ける。
そして見つけた。
小さな妹は、何も知らぬまま眠っていた。
静かな寝息。
温かな体温。
その姿を見た瞬間、フェージャは崩れるように膝をつく。
「……よかった」
ぽろり、と涙が落ちた。
幼い兄は、眠る妹へそっと触れる。
「兄さんが、兄さんがお前を守ってやるから……ね」
その誓いだけが。
血に染まった世界の中で、唯一残った光だった。
ーーーーー
降りしきる雨の音さえ、そのボロ屋の中ではひどく大きく響いていた。
「兄さん、大丈夫?」
フェオドラ――愛称“フェーニャ”が、心配そうに僕の顔を覗き込む。10年前、僕たちは両親を失い、それ以来二人きりで泥を這うように生きてきた。小さな子供が明日を繋ぐことすら困難なこの街で、僕たちは学校にも通わず、ただひたすらに働いた。元々、僕たちの頭の回転は速かった。読み書きも計算も、泥棒紛いの大人たちよりずっと正確にこなせたから、学校など必要なかったのかもしれない。
「おや、お前の綺麗なお髪(おぐし)が汚れているよ。ぼくは大丈夫だから、心配いらない」
僕は無理に微笑み、彼女の柔らかな髪についた汚れを指先で払う。だが、フェーニャの瞳は誤魔化せなかった。
「兄さんは体が弱いもの。病院へ行くべきよ」
「それは生活費だからダメだよ。これくらい、寝れば治る」
言い争う僕たちの声を遮るように、建付けの悪いドアが蹴破られた。
「じゃますんでぇ……。おお、可愛い女の子がいるじゃねえか」
部屋に踏み込んできたのは、脂ぎった顔に下卑た笑みを浮かべた男たちだった。その一人が、逃げる間もなくフェーニャの細い腕を乱暴に掴む。
「誰ですかあなたたち!? 離して!」
「……! 僕の妹に触らないでください!離してくれ!」
必死に食い下がる僕を、男は嘲笑うように見下ろした。
「お前らみたいな孤児を売るのが俺たちの仕事なもんでなぁ。……依頼主は女の子をご指名なんだよ」
刹那、視界が火花を散らした。背中に走る、焼けるような熱。
一人の男が、背後から僕を深々と刺したのだ。
「ぐっ……、あ……」
「無駄に動くんじゃねえ。ガキ一人の命なんて、この街じゃ石ころ以下なんだよ」
視界が急激に暗転する。
(ああ、フェーニャ……。僕が、君を……)
次に目を開けたとき、世界は「色」を失っていた。
自分の感覚が、自分のものではない。目の前には、血のついたナイフを握りしめた男が、驚愕の表情でこちらを見ていた。……いや、違う。鏡のように見えるその男は、僕自身だった。僕を刺した男に、僕は「成って」いたのだ。10年前のあの気色悪い感覚が蘇る。
(異能…力)
「フェーニャ! どこだ!?」
視線を落とした先。そこには、赤黒い水溜りの中に沈む、小さな花のような妹がいた。
「フェーニャ!!」
僕が男の体を乗っ取る刹那、この肉体の主だった「ゴミ屑」が、最後の足掻きに妹を突き刺したのだ。
「兄さん……?」
「僕だ、フェーニャ! すぐに医者を、今すぐ――」
「だめ……。それは、生活費……ですもの…」
死に瀕してなお、彼女は僕の生活を守ろうとした。
「嫌だ! そんな金、いらない! 死なないでくれ、置いていかないでくれ!!」
僕の絶叫は、ボロ家に大きく響いた。
「だいすき……な、にい……さん……」
カラン、と。
彼女の瞳から光がこぼれ落ち、魂の火が消えた。
その瞬間だった。
彼女の亡骸が、非現実的な黄金の粒子へと崩れていく。
『異能力ーー』
「え…?」
意味は完全には掴めない。
ただ、それは確かに存在していた。
そして次に目を開けたとき。
そこに“妹の死体”はなかった。
代わりにあったのは――
“別の何か”の始まりだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
無意識領域にて。
「ただいま、フェーニャ」
穏やかな声が、庭園の静寂に落ちた。
「……お帰りなさい、兄さん。……なぜ、わざわざ殺されたんです?」
問いかけに、兄——フェージャはいつものように微笑むだけだった。
「さて、何故でしょう。それを話す時間は――ないようですね。」
その言葉と同時に、世界が滲み始める。
「待って、まだ——」
伸ばした手は、触れる前に空を切った。
「いってらっしゃい」
一拍。
やわらかな声が、最後に落ちる。
「愛しのフェーニャ」
ーーーーー
「……ここは」
次に目を開けた時、そこは廃ビルの屋上だった。 冷たい雨が、容赦なく肌を打つ。
手には、見慣れた重み。ライフル。
(“死の家の鼠”の構成員……なるほど)
一瞬で状況を整理する。
(自身を殺すよう命じたのね)
驚きはない。 こういうことは、何度もあった。
さっきまで、あの庭園で紅茶を飲みながら“見ていた”のだから。
「……寒い」
ぽつりと漏れた言葉は、雨音に溶けた。
胸元はきつく、袖と裾はやけに余っている。 慣れているはずの違和感が、今日は少しだけ鬱陶しい。
「……アジトに帰ろ」
誰に向けるでもない独り言。
それだけを残して、フェーニャは歩き出した。
ーーーーー
あの庭園以外で、一番安心できる場所はどこか。
答えは、決まっている。
そう、アジトだ。
濡れた衣服を脱ぎ捨てると、冷えた空気が一瞬だけ肌を刺した。だがそれすらも、この場所では“日常の一部”に過ぎない。
(……! 新しい本が入ってる。イワンかしら)
口元がわずかに緩む。
忠実な部下の気遣いに小さく感謝しながら、フェーニャ――いや、ドストエフスキーは手早く着替えに取りかかった。
「……きっつ」
胸を抑えるために巻かれたサラシは、いつもながら容赦がない。息をするたびに締め付けが意識に絡みつき、毎回のことながら辟易する。
(何度やっても慣れない……)
だが結局、雑になる。
結び目が多少適当でも構わない。どうせ上から幾重にも服を重ねるのだ。形など隠してしまえば、それでいい。
「……まぁ、ヨシ」
鏡に映る自分を一度だけ見て、肩をすくめる。
多少の歪みは、問題ではない。
服を選ぶ手は慣れたものだった。ロッカーから取り出すのは、あらかじめ用意された“小さめのサイズ”。すべてが最初から、自分のために整えられている。
シャツに腕を通し、上着を重ね、外套を羽織る。
最後に肩を落とすように整えれば――そこに立つのは、ほとんど“兄”そのものだった。
(やっぱりこれはいいな)
頭に被るウシャンカは、フェーニャのささやかな我儘だった。
「兄さんと同じものを」
ただそれだけの理由で、彼に頼み込み、譲り受けたもの。ふわりとした毛並みが妙に落ち着く。
変声機の確認も終えると、次は仕事だ。
あの庭園で目を通した資料を、もう一度頭の中でなぞる。抜けがないか、誤りがないか。確認は念入りに。
――コンコン。
「……どうぞ」
扉が開く。
「おかえりなさいませ、“ドストエフスキー”様」
紅茶を手に入ってきたのは、侍従長イワンだった。
「悪いけどこれを置いたら部屋を出てください。少し集中したいので」
「はい、“ドストエフスキー”様の頼みとあらば」
礼儀正しく頭を下げると、イワンは静かに退出していく。
その背中が完全に消えるのを確認してから、ドストエフスキーは紅茶に口をつけた。
温度、香り、ブレンド。
一口で分かる。
(やっぱり、気づいてるのね)
“兄”の時は「主様」。
“自分”の時は「ドストエフスキー様」。
さらに紅茶の好みまで、微妙にずらしてある。
本棚の本も同じだ。兄の趣味からわずかに外した選定。それでも不自然ではない絶妙な距離。
(全部、見てる)
気づかれているのに、何も言われない。
守られているのか、それとも観察されているのか。その境界すら曖昧なまま。
「……言葉に甘えるべきですね」
紅茶を置き、静かにそう呟く。
その声は、誰に向けたものでもなかった。
その時だった。
ドアの外に、わずかな気配が落ちる。
(……確か今日って……天人五衰の人に挨拶だったか)
紅茶を置く手は止めないまま、ドストエフスキーは静かに思考を巡らせる。
「どうぞお入りください」
返事は、淡々としていた。
だが――開いた扉の先には、誰もいない。
一瞬の間。
次の瞬間。
「はーい!めちゃくちゃご機嫌よう‼︎」
視界の正面に、突如として“色”が割り込んできた。
白と黒だけで構成された、やけに主張の激しい男。存在そのものが騒音のような気配だった。
「さーて!僕は誰でしょう‼︎」
「道化師ニコライ・ゴーゴリさんですね。初めまして」
即答だった。
間がない。揺れもない。呼吸と同じ速度で、正解だけが置かれる。
「そのとおっり!正解正解大正解だ〜!」
ゴーゴリは両手を広げ、過剰に喜びを表現する。動きのひとつひとつが、やけに大きく、やけに軽い。
「“魔人”って聞いてたからどんなやつかと思ってたけど、まさかこんなに華奢で可愛らしい男とは‼︎女の子かと思ったよ‼︎」
ぎくりとするような気配すら、そこにはない。
ただ、静かに返答だけが落ちる。
「僕は男ですが」
「そりゃあ失敬!」
謝罪の形をしているが、まったく謝っていない声だった。
「一応自己紹介しとく?」
「要らないでしょう。あなたの名前くらいは聞いています」
「えーとね、なっがいから途中忘れてるんだけど、ドス、ドスなんだっけ……」
「ドストエフスキーです」
「いいや、じゃあドス君で‼︎」
その瞬間、フェーニャの思考はひとつの言葉に収束する。
(なんだコイツ)
だが表情には出さない。出す必要もない。
「……随分と適当なようで。まあでも、お好きにお呼びください」
「わーい、ドス君公認だ〜!」
(資料には二十六歳って書いてあったけど、本当かしら)
目の前の男は、年齢という概念そのものが信用できない。
軽さと異常さだけで構成された存在。
「申し訳ありませんが仕事が立て込んでおりまして。早々にお引き取りください」
微笑みは崩さない。
だがその奥に、確かな“線引き”がある。
ゴーゴリは目を細めた。
「残念ながらね、人間は好奇心に勝てないのだよ」
次の瞬間、彼は軽く手を振る。
「ってことで、もうちょっと居座らせてもらおうか‼︎」
――静寂。
(そうだ、イワンを呼ぼう)
思考が結論に到達した、その直後だった。
「お呼びでしょうかドストエフスキー様‼︎」
「まだ呼んでないですが、ナイスタイミングです」
完璧なタイミングで扉が開く。
そして結末は、あまりにも予定調和だった。
ゴーゴリはあっさりと連れ出される。
抵抗も執着もなく、まるで最初からそうなると分かっていたかのように。
「またね〜ドス君〜‼︎」
その声だけが、廊下の奥へと消えていく。
静けさが戻る。
紅茶の香りだけが、やけに丁寧に部屋を満たしていた。
「……嵐みたいな人ですね」
ぽつりと、誰にでもなく呟く。
そして何事もなかったかのように、ドストエフスキーは再び本へと視線を落とした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「白鯨の墜落には失敗しましたか。」
目の前のパソコン画面に視線を落としたまま、淡々とした声が室内に響く。そこには焦りも怒りもなく、ただ事実を確認するための静かな温度だけがあった。
「ですが、ほぼ計画通りです。組合に内乱を誘発させ、その隙に資産の四割を簒奪。」
キーボードに触れる指先は止まらない。報告はすでに整理され、結果として“成功”の形を成している。
「またヨコハマを傷つけ、敵を弱体化させ有能な異能力者の勧誘にも成功しましたから。」
その言葉は、あまりにも自然だった。
昨夜、夢の中で兄と交わした会話。その延長線上にあるような感覚。まるで最初から決まっていた結論を、ただ読み上げているだけのようだった。
(……でも)
その思考の端に、小さなノイズが混じる。
背後から声がした。
「私は勧誘されたつもりはない」
フェーニャは振り返らないまま、その声を受け止める。
後ろに立っている青年。つい先日まで組合の幹部だった男。
「意識不明のミッチェルを治す条件で一時的に手を貸しているだけです。」
マーガレット・ミッチェル。
その名を思い浮かべた瞬間、フェーニャの思考に一瞬だけ“温度”が生まれる。
(ぁあ、なんと優しい、慈しみのある方かしら)
自分の身を犠牲にしてでも他者を救おうとする選択。
その在り方は理解できる。理解できるからこそ、遠い。
愛する人のためとはいえ、“魔人”に魂を売ることの重さ。それを理解した上でなお選んでいるのだろう。
「結構です、牧師殿」
静かに告げる。
「共にこの地を、罪深き者の血で染めましょう。」
言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに重くなる。
(ごめんなさい、貴方も、ミッチェルさんも……)
胸の奥で、確かに痛みが走った。
けれど、それは選択を止める理由にはならない。
(それでも目的のためだから……それに殺す必要はないもの)
ほんのわずかな間。
そして、フェーニャは再び口を開いた。
「より良き世界のために」
その声は揺るがない。
その一言で、契約は成立した。
この後、ホーソーンは脳を改変され、感情と意思を奪われた“実行装置”となる。
それは世界を変えるための一手であり、同時に――誰かの罪がまた一つ積み重なった瞬間でもあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ある夜――そこは、時間の流れすら忘れたような庭園だった。
風は吹かず、空は色を持たず、ただ静寂だけが均一に広がっている。
その中で、二つの存在だけが確かに“在った”。
「おかえり、愛しのフェーニャ」
柔らかな声が、どこからともなく降りてくる。
「……ただいま兄さん」
わずかに間を置いて返す声は、どこか現実よりも軽かった。
ここは“無意識領域”。
肉体が眠りに落ち、意識が現世から切り離されたときだけ、二人が交わることを許される場所。
触れることも、語ることも、すべてが許されているようでいて、同時にどこか夢の延長のように曖昧だった。
「今日も大変なことを任せてしまいましたね、お疲れ様。」
「いいの、兄さんと、目的のためだもの。……ただ、何度やっても、やっぱりダメですね。必要な犠牲と頭でわかっているのに心は否定してしまう。」
伏せられた瞳の奥に、わずかな揺らぎがあった。
それを見た兄は、静かに言葉を落とす。
「フェーニャ、それは悪いことではないのだよ。お前は優しいから、仕方のないものだし、良いことでもある。」
二人の間に置かれたカップの中で、紅茶がゆらりと揺れる。そこに映る自分たちは、どこか他人のように遠かった。
「もう、兄さんは甘いんです 。」
軽く息をつくような声。
そのまま立ち上がったフェージャは、音もなく距離を詰める。
背後に立つ気配。
そして――そっと、髪に触れる。
「……僕は心配しているのですよ。お前は優しいから、変な輩に付き纏われるのではないかと。」
指先が、長い髪をすくう。
「まぁ、私は兄さんみたいな男の姿に変装してますよ? よくよく観察でもしない限りバレるとは思いませんが」
どこか小さな自信が滲む声だった。
何度も繰り返してきた“偽り”。それはすでに、彼女の中で確かな技術となっている。
その様子を見て、フェージャは小さく笑った。
「ふふ、そうですね。ただ、勘が良いものはそうともいえない。」
「イワンとか?」
「あれは論外です。忠実すぎるのは困ったところですね。」
いつの間にか、フェージャは完全にフェーニャの背後に回っていた。
その手は止まることなく、彼女の髪を丁寧に編み込んでいく。
(これは何か怒っているのね……)
長年の感覚が、わずかな変化を拾い上げる。
言葉ではなく、仕草で伝わる機嫌。
「では何を警戒すればいいですか?」
一瞬、指が止まる。
次の瞬間、頭上から落ちてきた声は、わずかに低かった。
「あのゴーゴリという男、利用するだけ利用するべき。そして便利な異能力です。だけれどもお前との距離が近すぎる。」
抑えたはずの感情が、わずかに滲む。
その声には、確かに“機嫌の悪さ”が混じっていた。
(まぁ、他人が聞いても違いはわからないでしょうけど)
「嫉妬は見苦しいものですよ、兄さん。」
「嫉妬ではないよ。計画遂行のために、必要不可欠な存在ではあるが、フェーニャの兄としては納得できない。」
その言葉に、ほんの少しだけ間が生まれる。
フェーニャは、くすりと息を漏らした。
「……おやまぁ」
その声音には、わずかな驚きと、ほんの少しの愉しさが混じっていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ドッスくーん!!!めちゃくちゃご機嫌よう!!」
アジトの扉が、まるで破られるような勢いで開いた。
空気が一瞬で塗り替えられる。静寂という概念が吹き飛び、代わりに現れたのは――騒音そのものだった。
ニコライ・ゴーゴリ。
その存在は、相変わらず場違いなほど鮮やかだった。
「お久しぶりです、ゴーゴリさん。急ぎの用でしょ…」
言い終える前に、声が叩きつけられる。
「ちょっと聞いたよ⁈マフィアに誘拐されるって!!」
鼓膜が震える。
先程以上の音量に、思わず眉がわずかに寄る。
「私かっなり心配したのだよ?かなーりかなーりかなーり…」
「ゴーゴリさん、五月蝿いです。」
ぴしゃりと遮る。
先に話を断ち切ったのは向こうだ。これくらいは、礼儀の範囲内だろう。
「なぜ貴方が僕を心配するのです?貴方にとって僕はお使いすら一人で行けない小さな子供とでも思っているのでしょうか?」
言葉は冷静に、だが棘を含んで落ちる。
(この人は自分自身を私の保護者とでも思っているのだろうか……)
「だってだってだってー!!私のドス君が何処ぞのマフィアにあんなことやこんなことされるかもしれないと考えるとさー?!?!」
「何考えてるんですか貴方」
即座に切り捨てる。
(誰が“私のドス君”だ。この体は兄さんのものだし、この意思は私のものでしょう?)
冷ややかな視線を向けるが、その温度はまるで届かない。
ゴーゴリはまったく気にした様子もなく、ただ楽しげに笑っている。
小さく、ため息をひとつ。
「それに、これは仕事ですから。」
その一言に、わずかな線引きが込められていた。
「ダメーーー!!嫌に決まってるよね?ってことでこの作戦は人員変更をしてもらおう!よしそうしよう!」
(ダメに決まってるでしょう!これは兄さんが決めた作戦なんですよ⁈)
喉元まで出かかった言葉を、無理やり押し込める。
代わりに、別の手を探す。
そして――
「…作戦の変更はしかねます。が、代わりに貴方の欲しいもの、一つ差し上げましょう。だから、とにかく黙りなさい。」
空気が変わった。
先ほどまでの喧騒が、嘘のように止まる。
ゴーゴリはぴたりと動きを止め、まるで初めて何かを見つけたかのような顔でこちらを見つめた。
「ほんとに、本当になんでもいいのかい?」
「可能な限りお答えしましょう。」
短く、確実に返す。
ゴーゴリは客人用の椅子へと腰を下ろし、大人しく思案を始めた。
(珍しい姿…)
そして――
「よし決めた。ドス君、一緒に出かけないかい?」
「…は?」
思考が一瞬、止まる。
意図を測るより先に、驚きが表に出た。
普段なら決して許さない“隙”だったが、今回ばかりは仕方がない。
「…どういう意図でしょうか?」
慎重に言葉を選ぶ。
ゴーゴリは軽くウィンクをしてみせた。
「その言葉通りの意味さ、君のことがもっと知りたいし、君に私のことも知って欲しい。だから、やはり手っ取り早く一緒に出かけたいと思ってね。」
まるで当然の提案のように、さらりと言う。
そして、付け加えるように。
「あっ、あと…名前で呼んでくれるかい?」
「…一つのみと言ったはずですが…」
「私は欲張りなのだよ!さぁ!呼んでくれ給え‼︎」
食い気味に迫ってくるその勢いに、わずかに沈黙する。
「承知しかねますが…まぁ、気が向いたらということで。お出かけの件は任務が終わってからにしましょう。…では。」
結論だけを残し、会話を切る。
それ以上の余地は与えない。
だが――
その場に残った空気は、先ほどまでとは少しだけ違う色を帯びていた。
(変な人…)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「……それじゃあ、約束の報酬だ」
くぐもった声とともに、布袋を探る音が響いた。指先が何かをかき分け、硬いもの同士が触れ合う。
チリン、と乾いた金属音。
(……硬貨かしら)
視界を塞がれているせいで、音だけがやけに鮮明に伝わってくる。
「チッ。二倍払っても割に合わないぜ」
吐き捨てるような声。
それに続いて、コツ、コツ、と靴音が遠ざかっていく。やがて完全に消え、残されたのは重たい沈黙と、誰かの唾を飲み込む小さな音だけだった。
次の瞬間。
頭に被せられていた袋が乱暴に引き剥がされる。
バサッ、と音を立てて地面に落ちた布。
(……久々の視界)
光が差し込む。
ずっと閉ざされていた世界が、一気に開けたような感覚に、ほんの一瞬だけ目が細まる。
「……お前を移動させる。抵抗はするな」
目の前に立っていたのは、頬に十字の傷を持つ少年だった。年の頃はまだ若く、どこか未完成な危うさが残っている。
(確か、カルマ……だったかしら)
記憶の中の資料と照らし合わせる。
状況は理解している。捕らわれの身。抵抗する理由も、意味もない。
椅子に縛り付けられていた拘束は解かれたが、すぐに別の形で自由は奪われる。腕と胸をまとめて縛り上げられる感触。
(……胸が痛い)
違和感に、わずかに意識が向く。
服装が変わっていた。見慣れた衣服ではなく、簡素な拘束着のようなもの。そして――
サラシは、ない。
(……バレたわね)
自分の身体の輪郭が、隠しようもなく露わになっている。
それでも表情は動かさない。
(まぁ、イワンが消すのでしょうけど)
事実を知ってしまった者たちの末路は、決まっている。
それを“仕方がない”と割り切るしかない自分に、ほんの一瞬だけ影が落ちる。
(ごめんなさい……)
心の中でだけ、短く謝罪した。
やがて、重い扉が軋む音とともに開かれる。
足音がひとつ、部屋に入ってくる。
視線を向けた先。
皺ひとつないスーツ。整えられた髪。片目を隠すように垂れた前髪。
(この人が、A)
事前に得ていた情報と一致する。
“胡散臭い”という第一印象は、あえて頭の隅へ追いやった。
「ナイフを」
短い指示。
そして、こちらへ歩み寄る気配。
「やあ、初めまして。マフィアへようこそ。私はA(エース)……君が人生で最後に話す相手だ」
芝居がかった口調。
だが、その言葉の終わりを待たずに――
閃光。
次の瞬間、空気を裂く音とともにナイフが振り下ろされる。
ザクッ――
鈍い音が、すぐ近くで響いた。
だが、痛みはない。
視線を落とすと、切り裂かれていたのは自分の身体ではなく、拘束していたベルトだった。
「客人を床に転がしておく奴があるか‼︎」
突然の怒号。
先ほどまでの落ち着いた声とは別人のような激しさに、鼓膜がじんと震える。
(……やはり、そうきましたか)
予測通りの展開。
兄の読みは、今回も外れなかった。
だが。
(……にしても)
視線が、ほんのわずかに下へと落ちる。
(胸の辺りにナイフを入れるのは、さすがに迷惑だわ……)
そんな場違いな感想が、心の奥で静かに浮かんだ。
ーーーーー
「同僚のマフィアは私を信じていない。そして私も、マフィアという組織を信じていない」
男——ポートマフィアの幹部であるA(エース)は、手元のカードを弄びながら、傲岸不遜な笑みを浮かべた。
「私が信ずるのは、この札遊戯(ポーカー)と、金庫室の宝石。それに五十人の私設部隊だけだ」
地下室の重苦しい空気の中、用意された豪奢な服を纏い、最高級の食事を供されたドストエフスキー……否、フェーニャは、内心で静かに溜息をついた。
(……随分と信用のない方なのね。これほど持てるものを誇示しなければ、己を保てないほどに)
現在進行形で行われているポーカーの戦況は、圧倒的なフェーニャの“負け”であった。だが、それすらも彼にとっては計算の一部に過ぎない。
「ダイヤのストレートフラッシュ」
Aがカードを卓上に叩きつける。無慈悲な勝利の宣言。しかし、彼の真の目的は勝負の先にあるようだった。
「そして今日、私は五十一枚目の札を見つけた。……ドストエフスキー君、私と手を組まないか?」
覗き込んできたAの瞳は、野心と支配欲にギラギラと乾いた光を宿している。その輝きだけで、彼の狙いは明白だった。
(なるほど……首領である森鴎外を殺したい。そういうことですね)
フェーニャは視線を落とし、力なく微笑んだ。
「そして若し断れば、僕は一生青空を拝めない。……というわけですね?」
「その通り。賢いな」
「……拒否権はなさそうですね。ここは脱出不可能の地下密室。その上、僕は見ての通り虚弱な貧血体質。……」
フェーニャは一度言葉を切り、目の前の「傲慢な飼い主」を真っ直ぐに見据えた。その瞳の奥に、得体の知れない静謐な狂気が宿る。
「……なので、こうしましょう。…僕が貴方を殺します」
刹那、フェーニャは傍らに置かれていたワインボトルを掴んだ。
驚愕に目を見開くAの眼前で、彼は迷うことなく、そのボトルを自らの頭上へと叩きつけた。
激しい破砕音。
飛び散ったガラスの破片と共に、濃い赤紫の液体がドロリと彼の額を伝い落ちる。
「……少々がっかりだ。ドストエフスキー君」
低く冷めたAの声が響く。
フェーニャの視界は、ワインの赤か、あるいは自身の血か、混ざり合った赤色に染まっていく。
(あぁ、人の血を見るのは、堪らなく悲しくなるのに……)
ポタポタと床を叩く不吉な滴りの音。
他者の死には敏感でありながら、自分の命が削れる痛みには、欠片ほどの感慨も湧かない。
(自分の死の“慣れ”に、これほどの恐ろしさを感じるなんて)
ワインの香気と鉄錆の匂いが混ざり合う密室。
「異能力――『宝石王の乱心』」
その言葉が響いた瞬間だった。
Aの隣に控えていた青年が、突然喉の奥から掠れた呻き声を漏らす。
「……ぁ、が……ッ」
苦しげに身体を震わせたかと思えば、その輪郭が崩れ始めた。
皮膚が、肉が、骨が。
まるで熱に溶かされた蝋細工のように形を失い――次の瞬間には、床へ無数の宝石が散らばっていた。
カラン、カラン、と。
冷たい音が地下室に響く。
赤、青、翠、紫。
照明を受けて煌めくそれらは、確かに美しかった。
だからこそ、なおさら悍ましい。
「これが私の異能だ。」
Aは愉しげに言う。
まるで自慢の蒐集品でも見せるような口調だった。
座ったままのフェーニャを見下ろすその姿には、妙な不快感がある。
人を人として見ていない目。
所有物を眺める目。
それが、ひどく気味悪かった。
「心配するな。君にはきっと首輪が似合う。」
薄く笑いながらそう告げる。
その言葉だけを残し、Aは踵を返した。
重い扉が開き――
そして閉まる。
鈍い音とともに、地下室は再び静寂に包まれた。
残されたのは、宝石の冷たい輝きだけ。
フェーニャはしばらく無言のまま、それらを見つめる。
(……趣味が悪いですね)
ーーーーー
コチ、コチ、と。
静まり返った地下室に、時計の針だけが規則正しく音を刻んでいた。
その音をぼんやり聞いていた時だった。
背後に、人の気配が落ちる。
振り返れば、そこにいたのは――この場所で最初に顔を合わせた、あの少年だった。
頬に十字傷を持つ少年。
カルマ。
「……」
何かを言いたげにこちらを見る。
だが、その視線はどこか落ち着かず、迷いを含んでいた。
(……兄さんなら、この程度で思考を読み取れるのでしょうけど)
残念ながら、自分にそこまでの読心術はない。
やがて、カルマは諦めたように口を開いた。
「……あんた、諦めな。」
その声には、妙に重たい疲労が滲んでいた。
「Aには勝てない。生き残るにはこいつをつけるしかないよ。」
指先が、自らの首を示す。
そこには鈍い金属光を放つ首輪があった。
まるで“所有物”の証。
「この部屋を出るのも不可能だ。扉を開ける鍵を持つのもAだけ。……俺たち部下でさえAの許可なしに出入り出来ない。」
一瞬だけ視線が合う。
だが、カルマはすぐに目を逸らした。
「………あんた先刻言ったよな。『貴方を殺します』。正直……痺れたよ。俺もいつかあんな強い台詞を言ってみたい。」
ぽつり、と。
床を見つめたまま呟く声は、どこか寂しげだった。
「でも、俺には……俺たちには無理なんだ。」
その言葉だけで十分だった。
Aという男が、どれほど恐怖で人を縛っているのか。
この地下にいる者たちが、どれほど“諦め”を染み込ませられてきたのか。
それがよくわかる。
そして――
「はっ」
不意に、短い音が静寂を裂いた。
カルマがびくりと肩を震わせる。
こちらを振り向く目には、一瞬だけ緊張が走っていた。
(こいつ……本気でAを殺す気なのか‼︎)
そんな警戒。
だが次の瞬間。
「……っくしゅん!」
可愛らしいくしゃみが響いた。
空気が止まる。
カルマはぽかん、と目を丸くした。
「濡れて冷えました。」
平然と言う。
(女性の身体は寒さに弱いんですよねぇ……)
当然のように濡れたまま放置されれば冷える。
特にこの地下は空気まで湿っぽい。
数秒の沈黙の後。
「っ、はは……!」
カルマが吹き出した。
「なはは!あんたには勝てないよ‼︎」
笑いながら、乱暴な手つきでこちらの濡れた髪をわしゃわしゃと拭き始める。
「わっ」
あまりに突然だったせいで、思わず声が漏れた。
カルマは笑いながらも、どこか遠くを見るような顔になる。
「………俺さ、いつかポートマフィアの首領になるのが夢だったんだ。莫迦みたいだろ?……それが今や首輪の奴隷だ。」
髪を拭いていた手が止まる。
静かな声だった。
「俺は物心つく前に人攫いに売られ、流れ着いて此処に来た。他の仲間も似たり寄ったりさ。」
一度息を吐く。
そして、またぽつぽつと話し始めた。
「或る日、正義の誰かがAを倒して俺達を首輪から解放する……そんな奇跡を皆一度は夢みる。でも、やがて気づくんだ。」
カルマは自嘲気味に笑う。
「俺達みたいな悪人を救う正義の味方はいないって。」
その声には、希望を捨てた人間特有の乾きがあった。
「……だけど先刻思ったんだ。あんたがAを倒して俺たちに自由を……」
そこまで言って、カルマは振り返る。
そして、“ドストエフスキー”の姿を見て――
「……何してんの?」
思わず真顔になった。
そこには、胸元でぎこちなく手を動かしている“ドストエフスキー”の姿があった。
濡れた白い服地が肌に張りつき、細い身体の線を隠しきれていない。
(ワインのせいで白い服が濡れて胸が張り付いた……なんて言えるわけもないですし)
誤魔化すように視線を逸らす。
「あー、あの、瓶の破片が指を……」
言い訳を口にしかけた、その時だった。
「………えっ、いや、おま、えっ真逆、お、お……女ァ⁈」
カルマの声が裏返った。
勢いよくこちらを指差したまま硬直している。
サラシも巻いていない状態で、ここまで隠せていたことの方がおかしかったのだろう。
(まぁ、そろそろバレる頃合いとは思ってましたけど……)
フェーニャは小さく肩を竦めた。
「おやまぁ、バレてしまいましたか」
いつものように、にこりと微笑む。
その瞬間。
「はぁァァぁぁぁぁぁぁあ⁈」
地下室に絶叫が響いた。
カルマは見る見るうちに顔を真っ赤に染め、耳まで熱を持っていく。
「あっ、ちょ、まっ、これ! このバスタオルッ‼︎」
慌てた様子で近くにあったタオルを投げ渡してくる。
「あらどうも。」
素直に受け取る。
だが内心では、別のことを考えていた。
(おそらくこの会話は盗聴されている……)
カルマの首輪。
あれには監視機能も備わっているはずだ。
ならば当然――
(Aにも、バレてしまいましたね)
少し面倒なことになった、とだけ思う。
「はっ、早く拭けよ‼︎」
カルマは壁の方を向いたまま叫んだ。
耳まで真っ赤である。
数分後。
「……あの、拭き終わりました。タオルありがとうございますね」
「えっ、あ、ああ。」
ぎこちない返事。
沈黙が落ちる。
妙に気まずい空気だった。
やがて、カルマがぽつりと呟く。
「あんたさ、怖くないの?」
その問いに、フェーニャは少しだけ瞬きをした。
怖い? そんな感情は――
「いいえ? こんな部屋など自室と同じです。」
あまりにも自然に答えていた。
(人に殺される恐怖なんて、とうの昔に忘れてしまったもの……)
その事実にすら、もう何も感じない。
カルマは呆然とした顔でこちらを見ている。
フェーニャは静かに微笑み、
「何故なら、“僕の異能は意識と空間を操る”からです。」
そう、嘘を吐いた。
ーーーーー
「やっぱり湿っていて気持ちが悪いので、シャツ、脱いでもいいですか?」
静かな声だった。
けれど、その一言の破壊力は凄まじかったらしい。
「なっ、はぁ⁈ 何言ってんだ⁈」
カルマが勢いよく振り返る。
その顔は先ほどよりもさらに真っ赤だった。
フェーニャはきょとんとした顔のまま、濡れたシャツの裾に指をかける。
「このままでは風邪を引いてしまいますし――」
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
最後まで聞かれることはなかった。
カルマは悲鳴にも似た声を上げると、そのまま部屋を飛び出していく。
重い扉が勢いよく閉まり、地下室に静寂が戻った。
しん――と。
数秒。
フェーニャはぱちりと瞬きをする。
(脱ぐそぶりをしただけなんですがね……)
実際、本当に脱ぐつもりはなかった。
見張り役だというのに飛び出していってしまう辺り、随分と初心な少年である。
(……見張りなのに出ていってもいいのか、と言いたくなりますね)
思わず小さく息が漏れる。
だが、その表情からすぐに柔らかさが消えた。
部屋を見渡す。
無機質な壁。
監視。
閉ざされた地下室。
――そして、盗聴されている可能性。
(……さて。)
フェーニャはゆっくりと目を細めた。
(あれを始めますか)
その瞬間。
先ほどまでの穏やかな空気は、完全に消えていた。
ーーーーー
「――勝負?」
静まり返った地下室に、Aの低い声だけが響いた。
フェーニャ――否、“ドストエフスキー”は椅子に腰掛けたまま、静かに微笑む。
「はい。貴方は僕を勧誘したい。然し、勧誘不可能な場合は僕から仲間や資金源、次の作戦を聞き出さなければならない。」
Aは何も言わず、顎に手を当てた。
値踏みするような視線。
その目には警戒と興味が混ざっている。
「………」
沈黙。
だがフェーニャは気にした様子もなく、テーブルの上に置かれたトランプへ指を伸ばした。
「そこで――」
す、とカード束を持ち上げる。
「これで勝負するのは如何です?」
Aの片目が細められる。
数秒後。
「………良いだろう。」
低く笑った。
「但し、ルールはこちらが決めさせてもらう。」
提示されたのは単純な札遊びだった。
ハイ&ロー。
前の数字より大きいか、小さいかを当て続けるだけ。
運だけに見える遊戯。
――普通なら。
「君に先行を譲ろう。」
Aが一枚目を引く。
机に置かれたカードには、“9”の数字。
「次の一枚は9より大? 小?」
フェーニャは一瞬だけカードを見つめた。
「札は1から13。つまり9より小さい数が出る確率の方がやや高い……故に、小。」
カードが捲られる。
“4”。
Aの口角がわずかに上がった。
「正解だ。……では次は4より大? 小?」
「小。」
捲られる。
“3”。
Aの眉がぴくりと動いた。
「……やるじゃないか。」
フェーニャは微笑むだけだった。
だがAの脳内では、別の計算が始まっている。
(だがそれも今だけ。)
ギャンブラーの目。
(私には札勘定――カードカウンティングがある。後半戦は私が圧倒的に有利。)
そう考えているのが、表情から丸わかりだった。
(ポートマフィアの五大幹部ともあろう者が、にやけ顔を晒してどうするのですか。)
内心だけで小さく呆れる。
「次です。……小。」
“2”
「大。」
“6”
「大。」
「小。」
「大。」
「大。」
次々とカードが捲られていく。
地下室に響くのは紙の擦れる音だけ。
そして。
「……⁈」
Aの顔色が変わった。
当然だった。
ここまで一度も外していない。
一度たりとも、Aに回答権が回ってこない。
山札はみるみる減っていく。
「大。」
捲る。
「…………。」
最後の一枚。
そして――空になった山札。
「⁈⁇‼︎?」
Aが初めて露骨に動揺した。
信じられないものを見るような目で空のカード束を見つめている。
フェーニャは静かにカードを置いた。
「終了ですか……。」
ふ、と目を細める。
そして、一拍置いて。
「実に――善い勝負でしたね。」
その微笑みだけが、異様なほど穏やかだった。
だが。
その一言が、Aにとって引き金だったのだろう。
「――っ!」
ガタッ‼︎
椅子を乱暴に蹴るように立ち上がり、Aは即座に通信機の釦を叩く。
「……おい!」
苛立った声。
何度も、何度も釦を押す。
しかし。
返答はない。
雑音一つ返ってこなかった。
「なぜだ……!」
焦燥が滲む。
その様子を、“ドストエフスキー”は静かに見上げていた。
「無駄です。」
「‼︎」
「扉も開きません。……急な誘拐で少し時間がかかりましたが、仲間が外を制圧しました。」
椅子に座ったまま、フェーニャはゆっくりAを見上げる。
下から見上げるその視線は、妙に静かだった。
「結局のところ、地下室とは《鼠》――つまり、僕の組織の場所ですから。」
Aの顔色が変わる。
「……挑発と賭けも、凡て時間稼ぎか。」
「如何します? 宝石金庫の鍵を渡すなら命を保証しても――」
その瞬間だった。
「……くくっ、くくくく」
密室に、笑い声が響く。
Aが笑っていた。
肩を震わせながら。
やがて片目を細め、“ドストエフスキー”を見つめる。
「――嘘だな。」
「‼︎」
フェーニャの目がわずかに見開かれる。
それを見たAは、勝ち誇ったように笑った。
(あぁ、やはりこの方も……“殺されるほかない”のですね)
内心でそう結論づけながらも、表情だけは驚愕を装う。
Aはその反応に満足したのだろう。
愉快そうに語り始めた。
「まず、ここは地下室ではない。」
両手を広げる。
「ボスさえも知らない、私の組織だけのアジト……海に浮かぶ巨大船なのだから‼︎」
熱を帯びた声。
「しかも対異能用に造られている。そんな場所を、この短時間で制圧などあり得ない!」
そして。
Aは勢いよく柱時計を指差した。
「決定的なのは――この部屋の時計が一切動いていないことだ‼︎」
古びた柱時計。
確かに、その針は止まったままだった。
「この結果から導き出される答えは一つ。」
Aの目がぎらりと光る。
「ここはお前の異能空間だ。」
沈黙。
「ギャンブラーの観察力を舐めるなよ?」
口角が吊り上がる。
「誘拐屋から聞いた情報、そして盗聴した会話内容から推測するに――お前の異能力は、“自分の頭の中の異能空間に相手を閉じ込める異能”。違うか?」
フェーニャは黙ったままだった。
だが数秒後、静かに口を開く。
「……異能がわかったからなんなのです?」
冷たい声。
「現実世界では僕らは昏睡状態と言っても良い。しかし、その部屋の中には誰も入れない。何故なら鍵を持つのは貴方だけだから。」
微笑む。
「僕は訓練していますので問題ありませんが……貴方はどうでしょうね? 餓死の恐れがありますから。」
「ふはははは‼︎」
Aが高らかに笑った。
「なら何故、誘拐された時に異能を使わなかった?」
その目が細められる。
「答えは簡単だ。誘拐屋に異能の正体と突破方法を知られていたからだ‼︎」
指を突きつける。
「だからお前は異能を使わなかった。否――使えなかった‼︎」
自信。
優越。
その顔には勝利を確信した人間の醜さが浮かんでいた。
「現実世界で、お前の死に顔を眺めるとするよ。」
そう言って、Aはランプとそのコードを掴む。
だが。
ふと、笑った。
「まぁ、どうしても命だけは助けて欲しいと願うなら――」
わざとらしく間を置く。
「ドストエフスキー君。……否、“ドストエフスキーちゃん”か。」
「やはり盗聴していましたか……悪趣味ですね。」
「ははは!なんとでも言うがいい!」
Aは愉快そうに肩を揺らした。
「今お前を助けられるのは、この私一人なのだから。」
そして、その視線がフェーニャの身体を舐めるように這う。
不快だった。酷く。
「簡単なことだ。異能を解き、私の首輪をつけろ。」
口元が歪む。
「組織の奴隷……いや、性奴隷になればいい。」
ぞわり、と。
空気そのものが汚れた気がした。
「君は私が見てきた女の中でも抜きん出て美しい。……きっとうまくやれるさ。」
Aは笑う。
「後は、その声を変えている忌々しい変声機さえ取れればな。」
(気色悪いことを言いますね)
フェーニャは、静かに目を細めた。
「絶望的に不愉快です。気持ち悪い。」
「なんだと⁈」
Aの顔が怒りで歪む。
「お前のような女に、此の私が救いの手を差し伸べてやったのに‼︎」
だが。
その怒声も、一呼吸の後には止んだ。
Aはふっと笑う。
「……では、ご機嫌よう。」
その瞬間。
ぶつり、と。
一人分の“足音”が、この世から消えた。
ーーーーー
首を吊った男の身体が、ゆらゆらと揺れていた。
軋む縄の音。 途切れ途切れの呻き。そして、床へ滴る微かな音。
「ゴッホ! ゔ! ぅう……」
その光景を前にして、フェーニャは思わず唇を押さえた。
(……っ)
胃の奥がひっくり返るような感覚。 喉に込み上げる吐き気。 呼吸が浅くなる。
(何度、何度人を殺しても……やっぱり慣れない……)
兄のため。 目的のため。 必要な犠牲。
頭では理解している。
けれど、“私”だけは、いつまで経っても殺人を肯定できなかった。
視界がぐらりと傾く。
(倒れる――)
そう思った瞬間だった。
ぽす、と。 予想していた冷たい床の感触は訪れなかった。
「ドス君⁈ドス君!大丈夫かい!ドス君っ⁈」
騒がしい声が耳元に降ってくる。
ぼやけていた視界が徐々に輪郭を取り戻し、その人物の顔を映した。
「……ゴーゴリさん? 何故ここに?」
白と黒の道化師は、心底焦った顔でこちらを抱き支えていた。
「そんなことはどうだっていい!……まあ、私の異能でチョチョイのチョイってね!ってとにかく!私は君のことが心配で心配で仕方なかったのだよ‼︎」
鼓膜が震える。
(耳元で大声を出すのだけは本当にやめていただきたいのですが……)
だが、その抗議を口にするだけの気力がない。
身体に力が入らず、フェーニャはされるがまま肩を預けていた。
ゴーゴリはじっと彼女の顔を覗き込む。
「……怒鳴り声が聞こえたから、耳だけ異能力で部屋に移動させて話は聞かせてもらったのだけど……」
一瞬、間が空く。
そして。
「君、女の子だったんだね」
(……バレるのが流石に早すぎるのでは?)
フェーニャは内心で頭を抱えた。
イワンですら、気づいていても“気づかないふり”をしてくれていたというのに。 この男は、妙なところだけ勘が鋭い。
沈黙を肯定と受け取ったのか、ゴーゴリはぱちぱちと目を瞬かせたあと、急に顔を近づけた。
「えっ、本当に?本当に?うわぁ〜!だからあんなに華奢で可愛かったのか‼︎」
「……近いです。」
「しかも声も本当はもっと可愛いんだろう?ねぇ今の聞かせて!」
「嫌です。」
「即答!」
ぐいぐい距離を詰めてくるゴーゴリに、フェーニャはうんざりした目を向ける。
しかしその直後、ふと彼の表情が変わった。
道化師めいた笑みが薄れ、真剣な目になる。
「……でも。」
静かな声だった。
「無事でよかった。」
「……」
「君、すぐ無茶するようだから。」
その言葉に、フェーニャはわずかに目を伏せる。
心配されることに慣れていなかった。 兄以外に、こんな風に真っ直ぐ案じられることなど、ほとんどなかったから。
だからこそ、少しだけ困る。
「……僕は大丈夫です。」
「大丈夫じゃないよ。」
即答だった。
「顔真っ白だし、ふらふらだし、今にも倒れそうじゃないか。」
「これはいつものことです。」
「いつもならなおさら問題だろう⁈」
また声が大きい。
フェーニャが眉を寄せると、ゴーゴリは「あっ、ごめん」と口を押さえた。その様子が妙に子供っぽくて。思わず。
「……ふふ。」
小さく笑みが漏れた。
ゴーゴリが目を丸くする。
「おや?おやおやおや?」
「……なんです?」
「いやぁ、君ちゃんと笑えるんだなぁと思って。」
からかうような声音。
フェーニャはすぐに真顔へ戻った。
「失礼ですね。僕は人間ですから当たり前でしょう。」
「だって普段のドス君、ずーっと澄ました顔してるじゃないか。」
「仕事中ですから。」
「へぇ〜?」
にやにやと覗き込まれる。
――そうだ。
今は任務中だった。
こんな場所で、こんな男と雑談をしている場合ではない。
フェーニャは小さく息を吐くと、支えられていた身体をそっと離した。
「おや、もう動くのかい?」
「ええ。抱き抱えていただいたことには感謝しますが、やるべきことがありますので。」
床へ降り立つ。 まだ少し足元は覚束なかったが、歩けないほどではない。
フェーニャは天井からぶら下がっているAの亡骸へ視線を向けた。
その手に握られた鍵。
金属の冷たい感触を指先で確かめながら、それを拾い上げる。
背後からゴーゴリの声が飛んできた。
「その鍵、宝石金庫の?」
「ええ。」
短く答え、歩き出す。
長い通路。 薄暗い灯り。 海の上だからか、どこか湿った空気が肌へまとわりつく。
やがて重厚な金庫扉の前へ辿り着いた。
鍵を差し込み、回す。
重たい音を立てて開いた内部には、無数の宝石と書類の山が眠っていた。
(……あった。)
フェーニャは迷うことなく目的の書類を抜き取る。
ポートマフィア構成員の異能力情報。異能力名、危険度、行動傾向。 兄が必要としていたもの。
紙束を抱えながら、ふと周囲を見渡した。
(静かね……部下たちは……)
異様なほど静まり返っている。
そこで、隣を歩く男へちらりと目を向けた。
視線に気づいたゴーゴリは、にこりと笑う。
「ここの奴らは私が全員殺しておいたからね。」
まるで「掃除しておいたよ」くらいの気軽さで言う。
(ありがたいと言えばありがたいのだけど……)
胸の奥が僅かに重くなる。
助かった命。 失われた命。
そのどちらも、今の自分には軽く扱えなかった。
少しの沈黙のあと、フェーニャは静かに口を開く。
「少し、手を合わせてから帰るでもいいですか?」
ゴーゴリは一瞬きょとんとした顔をした。
まるでそんなことを言われると思っていなかったみたいに。けれど次の瞬間には、ぱっと花が咲いたような笑顔になる。
「もちろん!ドス君のためならいくらでも待つよ!」
その声音には茶化しも嘘もなかった。
フェーニャは小さく目を伏せる。
「……ありがとうございます。」
そして静かな廊下へ歩み出た。
転がる亡骸の前で足を止める。
敵だった者たち。 自分を殺そうとした者たち。
それでも。
そっと瞼を閉じ、静かに手を組む。
(……どうか。)
救いの言葉など、持っていない。
祈る資格があるとも思わない。
けれどせめて。
(次は、もう少し穏やかな人生でありますように。)
白い吐息が、静かな船内へ溶けていった。
ーーーーー
帰路。
夜の潮風が冷たい。
巨大船を抜け、人気のない岸壁を進むゴーゴリの足取りは妙に軽かった。 その腕の中では、フェーニャが書類を抱えたまま静かに揺られている。
「……自分で歩けますが。」
「駄目だね!」
即答である。
「ドス君はいま見るからに貧血ふらふら状態なのだよ?放っておいたら海に落ちそうだからね!」
(そこまでではないと思うのですが……)
とはいえ、実際まだ身体は重い。 抵抗する気力も薄く、フェーニャは小さくため息をつくだけに留めた。
すると、ゴーゴリがふと思い出したように口を開く。
「ちなみに、どうやってあの密室を作り上げたんだい?」
唐突な問い。
「どう、とは?」
「あの異能空間に見せかけたやつさ! あとトランプもね! 私も聞いていて理屈があまりわからなかったもんだからねぇ! ぜひ聞かせて欲しい!」
目を輝かせる姿は、まるで新しい玩具を見つけた子供そのものだった。
フェーニャは少しだけ考え、口を開く。
「なにも、難しいことはないですよ。」
「ほう?」
「異能空間に見せたのは、まず“情報”です。」
夜風が紫がかった黒髪を揺らす。
「“意識と空間を操り、その脱出方法はその空間で意識をなくすこと”――その情報は、僕がわざと誘拐屋へ流した偽情報でした。」
「あ〜、なるほど!」
「加えて盗聴です。Aは人を信用しない反面、“自分が盗み見た情報”を信じる傾向があった。」
だからこそ、こちらはわざと“聞かせた”。
異能の正体も。
制約も。 突破方法らしきものも。
「そうして“異能空間説”を本人の中で完成させた…。あとは簡単です。鍵穴にはワインのコルクを詰め、通信機と時計はワインで壊しました。」
その瞬間。
軽快だったゴーゴリの歩みが、ぴたりと止まる。
「……君ほんっとに頭いいね」
「お褒めいただき光栄です?」
フェーニャは首を傾げた。
けれど内心では、少しだけ妙な気持ちになる。
(兄さんの方が賢いから、頭いいと言われるのはなんだか不思議……)
自分の策も、兄の思考をなぞったに過ぎない。
そう思ってしまう。
しかしゴーゴリはそんな内心など知らず、ますます興味津々な顔になる。
「ただトランプはそんなことできないだろう?」
「あぁ、それはトランプをすり替えていたんですよ。」
「え?」
ゴーゴリがぱちりと瞬く。
「でも相手はギャンブラーとしてかなり名を上げているやつじゃあないか。それくらいのイカサマはバレるだろう?」
「いいえ?」
フェーニャは淡々と答える。
「僕がすり替えたのは、“同じメーカー、同じ管理状況で、僕が既にそれぞれのカードの傷やシミを凡て記憶していたトランプ”です。」
数秒。
沈黙。
ゴーゴリの顔がゆっくり引き攣った。
「……凡て、記憶?」
「はい。」
「五十二枚?」
「ええ。」
「傷も?」
「シミも。」
「配置も?」
「当然。」
「…………」
道化師は空を見上げた。
まるで現実逃避するみたいに。
やがて。
「簡単に言ってるけどさすがドス君!天才!」
「そんなことはありません。」
即答だった。
(兄さんなら、わざわざカードを用意せずともその場で暗記していたでしょうし。)
比較対象がおかしい。
そんなことを考えているフェーニャとは対照的に、ゴーゴリは本気で感動していた。
「いや〜、ますます気に入った!」
「それはどうも。」
「君、ほんと見た目と中身の差が激しいよねぇ。」
「褒めてます?」
「もちろん!」
にこにこと笑うゴーゴリ。
その視線がふとフェーニャの顔へ落ちる。
「でもさ。」
「?」
「そんなに頭良くて強くて演技も上手いのに、死体見ると倒れそうになるんだね。」
ぴたり。
フェーニャの表情がわずかに止まる。
ゴーゴリは責めるでもなく、ただ不思議そうに首を傾げていた。
「普通、あそこまで割り切れる人間なら慣れてそうなのに。」
「……慣れませんよ。」
静かな声だった。
「人が死ぬのは、嫌ですから。」
潮風が吹く。
ゴーゴリは少しだけ目を見開き、それからふっと笑った。
「そっか。」
それ以上は聞いてこなかった。
ただ、抱き上げる腕だけが、ほんの少し優しくなっていた。
夜の海風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。
「……君は鈍感なようだから言っておくけど。」
不意に、ゴーゴリがそんなことを言った。
フェーニャは腕の中で小さく瞬く。
「私は君が無事で本当に良かったと思っているんだよ。」
その声は、いつもの芝居がかった調子とは少し違っていた。
ふざけた笑いも。大仰な身振りもない。
ただ、静かだった。
見上げれば、道化師の瞳が微かに揺れている。
「そうですか、それはありがとうございます。」
フェーニャは淡々と返した。
(……どうせ、この人のことだもの。)
本気なのか冗談なのか。 その境界線はいつだって曖昧だ。
だから今回も、きっと。
そう思っていた。
しかし。
「……Aとやらが君を性奴隷にするなんて言う言葉を聞いて、“許せない”と思ったんだ……。」
「は?」
思わず、素の声が出た。
ゴーゴリが珍しく真顔だったから。
(この人、まさか本気で心配だけで私を助けに来たのかしら?)
フェーニャは思わず彼の横顔を見つめる。
するとゴーゴリは少し視線を逸らしながら、ぽつりと続けた。
「だってドス君は、私の大切な……」
そこで言葉が止まる。
珍しく迷うような沈黙。
「大切な……?」
フェーニャが首を傾げると、ゴーゴリは一瞬だけ目を泳がせた。
「な、仲間だからね」
妙にぎこちない言い方だった。
「仲間……ですか。」
フェーニャは小さくその言葉を繰り返した。
夜の港を進む足音だけが静かに響く。
そして不意に、彼女は視線を上げた。
「……時にゴーゴリさん。」
「ん?」
「貴方が此の《天人五衰》に入ろうとしたのは、“鳥になりたいから”と聞いています。」
抱えられたまま、静かに問いかける。
「何故そのように思うのですか?」
その瞬間。
ゴーゴリの目がわずかに見開かれた。
普段なら軽口で流しそうな問いだった。 けれど彼は、少しだけ考えるように夜空を見上げる。
「何故……そーだねぇ。」
白い息が宙へ溶ける。
「ドス君、君は鳥は好きかい?」
「嫌いではありません。」
「…僕は好きだ。」
その声は、どこか夢を見る子供のようだった。
「重力に囚われず飛翔する完全な自由……僕はそれを求める。」
夜風がマントを揺らす。
「だから《天人五衰》に入った。」
そこまで言うと、ゴーゴリはぱっといつもの笑顔に戻った。
「まあそんなところさ!」
わざとらしいほど明るい声。
けれど、フェーニャには、その奥にあるものが見えてしまった。
「……貴方は真の存在証明をする為に……」
その言葉に、ゴーゴリの動きが止まる。
腕の中の少女は、感情を大きく表に出さぬまま静かに続けた。
「自らの感情すら疑い、神の定めた“心”から自由になろうとしている。」
「……あゝ、そうだ。」
ゴーゴリはゆっくりと笑った。
その笑みは先ほどまでの道化師のものではなく、ひどく静かだった。
「でもその動機を他者が理解するとは思っていなかったし、実際誰も理解しなかった。」
当たり前のことのように告げる。
フェーニャは目を伏せた。
(この人にも、この人なりの生き方があるのでしょう。)
狂っている。 危険だ。 理解不能。
そう断じるのは簡単だ。けれど、
(私や兄さんのように……)
誰しも、何かに縋らなければ生きられない。
フェーニャは静かに言った。
「なるほど……。素晴らしい。」
「……え?」
「貴方は神に抗い、自分自身を見失う為に戦っているのですね。」
「⁈」
本気で驚いた顔だった。
ゴーゴリはぱちぱちと何度か瞬きを繰り返し、それから徐々に口元を歪める。
「……感動したよ。」
低い声だった。
「君は本質を見抜いていた。」
抱える腕に僅かに力が入る。
「ドス君こそ人生で唯一の理解者であり、僕の親友だ!」
(あら?仲間からグレードアップした気が……)
フェーニャは内心で小さく首を傾げる。
だが、その直後。
ゴーゴリの笑みが変わった。
にたり、と。
どこか狂気を孕んだ笑み。
「……そして気づいてしまったんだ。」
「?」
「その親友を殺せば、僕達は感情という洗脳から解放され自由であると、真の自由の鳥だと証明できるのでは?」
ぞくり、とするような声音。
その顔は今まで見た中で最も“彼らしい”。
道化師。 狂人。 自由を求める男。
その全てが滲んだ笑みだった。
けれど。
フェーニャは怖がるどころか、ふっと口元を緩めた。
「……では、殺してみてごらんなさい。」
「⁈」
「殺せるものならば、ですけれど。」
悪戯っぽい笑み。
挑発するように細められた瞳。
その瞬間、ゴーゴリは完全に固まった。
「‼︎……君って本当に飽きないね……」
帽子の鍔を下げ、顔を隠す。
だが隠しきれていない。
耳まで真っ赤だった。
フェーニャはそれを見て、小さく瞬く。
(……何故照れているのでしょう?)
理解できない。だが、ゴーゴリ本人も理解していないようだった。
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番外編〈可愛い〉
(まぁ、なんで可愛らしいのでしょう)
ショーウィンドウ越しに見えたそれに、思わず足が止まった。
小さな猫の縫いぐるみ。
錆猫模様の長毛種で、ふわふわとした毛並みが実に愛らしい。丸いその瞳も、三角の耳も、絶妙に庇護欲を誘ってくる。
(これはずるいわ……)
視線が吸い寄せられる。
だが、すぐに小さく息を吐いた。
(でも、兄さんは買わないわよね……)
今の自分は“フョードル・ドストエフスキー”として存在している。
魔人が猫の縫いぐるみを抱えて歩いているなど、あまりにも色々と終わっている。
(我慢我慢……)
名残惜しく店から離れようとした、その時だった。
「あっ、あの……」
不意に、声をかけられる。
振り返れば、そこには少女が立っていた。
黒髪を丁寧におさげに結び、紅い着物を纏った小柄な少女。どこか人形めいた整った顔立ちと、静かな青い瞳。
(確か、探偵社の“泉鏡花”さんという方だったかしら……)
その腕には――
先ほど自分が見つめていたものと同じ猫の縫いぐるみが抱えられていた。
「どうかされましたか? お嬢さん。」
いつものように柔らかな笑みを浮かべる。
すると、泉鏡花は少しだけ視線を揺らしたあと、ぽつりと口を開いた。
「……これ、よかったらどうぞ」
差し出されたのは、やはりその縫いぐるみだった。
「これは貴方のものでしょう? 大切にしてあげてください。ね?」
目線を合わせるために、少しだけ屈む。が、シークレットシューズを履いているせいで、思った以上に高さがある。
鏡花は縫いぐるみを抱え直しながら、小さな声で続けた。
「私、社長に……いや、祖父に買ってもらったのだけど……。とっても可愛いから、この子もあなたに貰ってもらったほうが嬉しいと思う。」
その瞳は驚くほど真っ直ぐだった。
打算も警戒もなく、ただ“譲りたい”という善意だけがそこにある。
(あら、まぁ……)
ほんの少しだけ、目を丸くする。
その時だった。
「鏡花ちゃーん‼︎」
店の外から少年の声が響いた。
おそらく連れなのだろう。
すると鏡花は、急に慌てたように縫いぐるみをこちらへ突き出した。
反射的に受け取ってしまう。
「そ、それじゃあ」
短く言い残し、少女はぱたぱたと駆けていった。
紅い着物の裾が、小さく揺れる。
その背中を見送りながら、ドス君(フェーニャ)は腕の中の猫を見下ろした。
「……どうしましょうかねぇ」
困ったように呟く。
けれど、その口元は緩んでいた。
指先でふわふわの毛並みを撫でる。
(可愛いものは仕方ないわ)
それに――
あんな風に真っ直ぐ渡されてしまえば、無下になどできるはずがない。
小さく笑い、縫いぐるみをそっと抱き直した。
少女の善意に、今日くらいは甘えることにしよう――そう思いながら。
ーーーーー
雪崩になった服の山を前に、フェーニャは静かに腕を組んだ。
「……これは、流石に増えすぎでは?」
返事をする者はいない。
当たり前だ。今この肉体の主人格は自分であり、“兄”は眠っている。
それでも。
(絶対わざとでしょう、兄さん……)
視線の先には、淡い色合いのワンピース。 フリルにレースに、リボン、可愛らしい刺繍。
しかもどれも絶妙に品が良い。
安っぽくない。 子供っぽすぎない。 そして何より――
(趣味が良すぎるのよねぇ……)
だからこそ捨てることもできない。ただただ増えていく一方なのだ。
フェーニャは深々とため息をついた。
あの兄は、普段こそ“魔人”だの何だのと恐ろしい顔をしているくせに、妹関連になると妙な方向へ情熱を発揮する。
以前など、 『フェーニャ、このブランドは生地が良いですよ』 などと真顔で語り始めた時は、本気で頭でも打ったのかと思った。
「……まぁ、打ってるのは昔からだけど」
ぽつり、と小さく零す。
その時だった。
コンコン
部屋の扉が叩かれる。
「……どうぞ。」
「失礼いたします、“ドストエフスキー”様」
入ってきたイワン・ゴンチャロフは、一礼――しようとして止まった。
視線。
固まる空気。
フェーニャは嫌な予感を覚えた。
イワンの目線の先。
そこには。
猫の縫いぐるみを抱えたまま、服の雪崩の前に立つ“魔人”。
沈黙。
数秒。
「……お取り込み中でしたか?」
「違います。」
即答だった。
「これは、その……部屋の整理を」
「左様で。」
絶対わかってない顔だった。
フェーニャはそっと縫いぐるみを背後へ隠す。
だが遅い。
長毛の錆猫は存在感が強かった。
イワンの視線が一瞬だけ柔らかくなる。
(あっ、この人ちょっと微笑ましいと思ってるわね)
フェーニャは悟った。
「ところで、“主様”より伝言を預かっております。」
「……兄さんから、ですか?」
イワンはこくりと頷く。
この際何故自分と兄が別人格であるが分かるかなど論点にも当てていなかった。どうせ何もしなくても知っていただろうし、この様子だと兄から直接伝えられたのだろう。
そして、イワンは妙に真面目な顔で告げた。
「“フェーニャにあまり薄着をさせないように”とのことです。」
「……………………」
一瞬、時が止まった。
「兄さん本当に何を言ってるの?」
思わず素で返してしまった。
「加えて、“冷えは万病の元”だそうです。」
「そういう問題じゃないのですが……」
頭を抱える。
だがイワンは至って真剣だった。
「ですので追加で数点ほど衣類を――」
「買わなくて結構です‼︎」
珍しく食い気味に遮った。
その瞬間。
ぼふっ。
抱え込んでいた猫の縫いぐるみが腕から落ちた。
ころり、と床を転がる。
沈黙。
イワンはゆっくり縫いぐるみを拾い上げる。
そして丁寧に埃を払うと、
「……こちらは新しいご家族ですか?」
「違います。」
「泉鏡花さんからいただきました。……可愛かったので。」
最後だけ少し声が小さくなった。
イワンは数秒黙り――
そして静かに頷いた。
「ええ、とてもお似合いですよ。」
「……………………」
何故だろう。
今すぐこの場から消えたくなった。
ーーーーー
無意識領域――静かな庭園の東屋にて。
ティーカップから立ち上る湯気は白く、花弁の一枚すら風に揺れない。 その完璧すぎる静寂の中で。
フェーニャはじとりとした目を兄へ向けていた。
「……兄さん。」
「なんでしょう、愛しのフェーニャ。」
にこやかである。 腹立たしいほどに。
「どうしてイワンにあんな伝言を?」
「可愛い妹の健康を気遣うのは兄として当然でしょう?」
当然、の部分だけ妙に力が入っていた。
フェーニャは深く息を吐く。
「だからって、“薄着をさせないように”は意味がわからないのですが。」
「意味なら大変わかりやすいですよ。」
フェージャは紅茶を一口。 優雅である。 だが内容が優雅ではない。
「お前は身体を冷やしやすいでしょう。しかも普段は男装で無理をしている。締め付けも多い。睡眠も浅い。」
「……。」
「加えて最近はゴーゴリとかいう騒音まで寄ってきている。」
「最後関係あります?」
即座に返す。
フェージャは静かにカップを置いた。
「あります。」
「ないでしょう。」
「ある。」
真顔だった。
(ああ、これはダメな時の兄さんね……)
フェーニャは悟る。昔からこうなのだ。 兄は普段どれだけ冷静でも、“妹関連”になると時折おかしな方向へ突き抜ける。
以前など。
『フェーニャ、その靴は踵が高すぎます。転倒の危険がある。』
『シークレットシューズですから当たり前ですよ。』
『もっと安定感のあるものを用意しようか。』
本気で十数足持ってきた。
しかも全部高級品だった。
(なんであんなに種類があるのよ……)
思い出して頭が痛くなる。
すると。
フェージャがふいにこちらを見た。
「ところでフェーニャ。」
「なんです?」
「その縫いぐるみ、名前は決めたのですか?」
ぴたり。
フェーニャの動きが止まる。
現在、その腕の中には例の長毛錆猫が抱えられていた。
「……別に、名前とかは。」
「可愛がるなら必要でしょう。」
「そんな頻繁に話しかけたりしません。」
「話しかける予定はある…と。」
「……。」
しまった、という顔になる。
フェージャがふっと笑った。
その笑みは普段の“魔人”のものではなく、ただ年相応に妹をからかう兄の顔だった。
「ふふ、安心しました。」
「何がです?」
「お前がちゃんと年頃の女の子らしい感性を持っていて。」
その瞬間。
フェーニャは完全に黙った。
数秒の静寂。
やがて、そっと視線を逸らす。
「……別に。」
「ええ。」
「可愛いものくらい、好きでも普通でしょう。」
「もちろん。」
返事が優しい。だから余計に調子が狂う。
「……兄さん、なんだか今日は機嫌がいいですね。」
「当然です。」
フェージャは即答した。
「イワンから報告を受けましたので。」
「余計な報告しないでほしいのですが。」
「猫を抱えながら服の山の前で困っていたそうですね。」
「……………………。」
終わった。
フェーニャは静かに顔を覆う。
(あの人ほんと何報告してるの……?)
しかしフェージャは止まらない。
「しかも“可愛かったので”と。」
「兄さん。」
「はい。」
「それ以上喋ったら紅茶かけますよ。」
「おや怖い。」
全く怖がっていない声だった。
むしろ楽しんでいる。
フェーニャはじわじわと羞恥が込み上げるのを感じながら、猫の縫いぐるみをぎゅっと抱きしめた。
すると。
フェージャがふっと目を細める。
そして。
「……本当に可愛い。」
ぽつり、と。
まるで独り言のように零した。
「――っ!」
フェーニャは勢いよく立ち上がった。
「兄さん‼︎」
「なんでしょう。」
「そういうことを真顔で言うのやめてもらえます⁈」
「事実ですが?」
「そういう問題じゃないのよ‼︎」
珍しく素の声を荒げる妹を前に。
フェージャは、心底幸せそうに笑っていた。
――ちなみに。
後日、その長毛錆猫の縫いぐるみには“グレイ”という名前がついたらしい。
フェーニャお気に入りの紅茶の名前から取ったのだとか。
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あとがき
失礼致します。作者の猫の小判と申します。
別作品で文ストとヒロアカのクロスオーバー作品も書いており、そちらでは太中をメインに書かせていただいているのですが、実は推しはフョードル・ドストエフスキーなんです‼︎
今作はそんなドス君の妹として、オリキャラのフェオドラ・ドストエフスキー…愛称フェーニャを主人公として、原作のストーリーを書いています。
フェーニャの異能力とは何か、と、諸々の詳細を載せておきます。
フェオドラ・ドストエフスキー
身長…158センチ
体重…44キロ(シンデレラ体型。ただ胸はDくらいあるのでかなり痩せてます)
異能力…“〇〇”(いい名前が思いつきませんでした)
『自分の死後最初に触れた者のもう一人の人格になれる。その者が死んだ時体の主導権を握れる。』
兄のフョードルの個性と相待って、交互に人格が入れ替わる感じです。フェーニャの人格の際はフョードルの体が女体化します。ただし、フェーニャの姿になるのではなく、あくまでフョードルの女体化姿です。
性格…人を殺すこと、死ぬことに対して深い悲しみも持ちながらも、兄の考えに同意し暗い世界を歩いている。優しい心根だが完全な善人ではない。
可愛いものが好きだが、主人格の際も兄のふりをしなくてはならないため我慢してる。
世界の中心は兄であると考えている。が、シスコンが加速している兄に対しては少し困ってしまう。
異能力の名前は自分ではいいものが浮かばなかったので、是非コメントしてくれると嬉しいです。
#フョードル・ドストエフスキー(文豪ストレイドッグス)
コメント
1件
わあ〜〜〜〜!!第1話からもう既に胸がぎゅうぎゅうです😭💕 フェージャとフェーニャの切なくて深すぎる絆、もう尊すぎて倒れるかと思った…!幼い兄が妹だけは守ろうと誓うシーンとか、フェーニャが“兄さん”のふりして生きてるところとか、全部がエモすぎるよ〜!!特にゴーゴリとのやりとり、最初はうるさいだけかと思ったら急に距離詰めてきて“親友”とか言い出すの良すぎ😳💖 しかも「♡♡♡ば自由の証明になる」的な発言からの照れ!?とかフェーニャの返しが天才すぎてもう…っ!!続きが気になりすぎるよ🌸✨ 作者さん、素敵な物語をありがとうございます…!