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鴻上野の花は、高見馬場電停でユートラム(低床式路面電車)を降りると、自宅のある加治屋町へ足を向けた。8月は台風シーズンだというのに、最近では季節がズレているように野の花は感じていた。現に、今年は6月に台風が直撃して、九州各地ではそれに伴う豪雨被害が出た。
「こんな暑い時期に、わざわざ帰って来んでもよかのにねえ」


野の花は、キャリーバックを押しながら、燦々と照り付ける真夏の太陽の下、ひとり娘との久方振りの再会に胸を躍らせていた。

来年、古希を迎える野の花に、キャリーバックをプレゼントしたのは娘の翔子で。


「これで少しは、買い物も楽になるがね。どうせお母ちゃん、タイヨーにしか行ってないんでしょ」


「んなことなかよ、ちょっと遠くに行けばね、谷山だけどイオンもあるし」


「イオンができたの?」


「そおそお、それとね、中央駅にはハンズもあるが」


「へえ〜ハンズね、東急も走ってないのに?」


「あら、東急はホテルだがね、ホテルは走らんよ〜」


「もお、お母ちゃん!」


楽しげに笑うスマホの向こう。

ひとり娘の翔子は、毎月欠かさず10万単位の生活費を振り込んでくれる。それはそれで有り難いが、無理をさせてはいないかと野の花は気掛かりそうに。


「翔子、あんたは今月のお金多過ぎやしないね?」


「うんにゃ、ぜんぜんだよ」


「だけど、30万くらいあったよ、なにかー」


「もお、お母ちゃん、心配せんでもよかがね。なんね、あたしは泥棒もせんし、オレオレ詐欺もせんよ、そのお金はね、アレだよ、守秘義務があるから誰にも言っちゃダメだからね、アレよー」


「なんね」


「アレ!」


「アレじゃわからんが、なんね?」


翔子は悪戯っぽく焦らしながら。


「重版が決まったの、そのお祝いよ」


「あらあ、ひったまがった、なんとかだよね、桐野・・・桐野・・・」


「桐野ミカエラ、ラノベの世界では有名なんだよ」


「あら、だったねえ、先生だもんね」


「もお、センセイはやめて」


今晩の、親子水いらずの会話を想像しながら歩くと、毎日ひとりで行き交うスーパーと自宅までの距離も苦痛ではなかった。

先天性ペルテス氏病という足の病に苦しみながらも、この歳まで杖なしで暮らせた幸福と、ろくでなしだった夫との早めの別離に、野の花は大いに感謝して笑っていた。

今がいちばん幸せ。

これまでも、幾度となく口にしたこの言葉を、古希を目前にして噛み締めることができている。

若い頃はそうでもなかった。

翔子を預かり、看護師として勤めていた市立病院を辞め、夫の慎之助と共に開いた小料理屋・いであ。

開店直後は、バブル景気と重なって順風満帆だったこの店も、慎之助の蒸発によって閉店を余儀なくされた。

幸運だったのは、先祖代々から譲り受けた土地に店を建てたことと、飛行機事故で他界した父母の遺産が入ったこと。

両親の居なくなった不安や淋しさは、娘の成長していく姿で補えた。


加治屋町と東千石町を隔てる、大きな交差点の角地に自宅はあって、今では使われなくなった小料理屋・いであの奥の母屋で野の花は暮らしていた。手狭な庭は、かつての鴻上家の幸せの象徴だった。

両親が作り上げた、宝石箱のような小さな菜園。

小ぶりの茄子の紫は、アメシストのように美しかった。

深い緑のズッキーニはエメラルド。

白緑色のオクラはクリソベリル。

野の花は色褪せた想いでを一瞥して、足早に母屋に入って行った。

見たくないものがある。

削除したい記憶もある。

だが人間の脳は、それをリセット出来ない。

まるで、不完全なコンピューターの如く、継ぎ接ぎだらけの記録の塊という人生を、ただ単に蓄積するだけが脳髄の役割とするならば、ピストルを口に咥えて脳幹を撃ち抜いて、いっそのこと全てとバイバイ。

そんな終焉も良いのではないか。

野の花は常に思っていた。




きみの瞳に恋をしている 壱

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