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 花子は、いつも通りに仕事をしていた。


 提出物の形式を守り、締切を守り、余計な注釈をつけない。

 会議では発言を求められたら答えるが、自分から話題は振らない。


 理念文案の件についても、彼女は一切触れなかった。


 誰かが水をこぼしたように、周囲だけがざわついている。

 だが、花子の机の上は、何一つ変わらない。


 それが、逆に目立ち始めていた。


 「……花子さんって、あの件、どう思ってるんでしょうね」


 給湯室で、声を潜めた囁きが交わされる。


 「どうもこうも、何も言ってないでしょ」 「だから、怖いんですよ」


 怖い、という言葉は、

 「分からない」を言い換えただけの音だった。


 花子は、自分に向けられた視線の質が変わったことに、

 気づいていないわけではない。


 だが、気づいたところで、

 変える行動がない。


 以前と同じ動線で歩き、

 同じ速度で入力し、

 同じトーンで返事をする。


 彼女の内側では、すでに言葉は揃っている。


 ――これは、おかしい。

 ――でも、今は使わない。


 使わない、という選択が、

 誰かにとっては「何かを企んでいる」ように見える。


 だから、分類が始まった。


 内部システムの、静かな更新。


 > 対象:花子

 > 備考:意図不明な沈黙が継続

 > 対応:要観測


 要観測、という言葉は、

 危険の手前で使われる。


 同じ頃、別の場所で、

 津川進は、自分の名前が表示された通知を見ていた。


 「……ああ、来たか」


 彼は、深くため息をつく。


 業務連絡の体裁をとった、その文面は丁寧だった。


 > 最近の発言および行動について、

 > 一部確認を要する点が見受けられます。


 官僚としては、曖昧すぎる文章。

 だが、彼には十分だった。


 「人としては止める」

 その一言が、どれほど制度にとって異物か。


 彼は知っている。


 かつて、止められなかった案件。

 正しさだけが積み上がり、

 誰も止まれなくなった流れ。


 今回も、似ている。


 違うのは、

 止めようとしている人間が、

 最初から“外”に分類され始めていることだ。


 津川は、机に肘をつき、

 静かに天井を見る。


 「……まあ、そうなるよな」


 一方、葉芹は、戸惑っていた。


 自分が「善意の紹介者」であることを、

 疑われたのは初めてだった。


 「え? だって、良かったから……」


 誰かを傷つける意図など、ない。

 むしろ、助けたつもりだった。


 だが、制度は、意図を見ない。


 > 過去の紹介行動について、

 > 再評価を行う必要があります。


 再評価、という言葉が、

 彼女の胸を冷たくする。


 「……私、何か、悪いことしました?」


 答えは返ってこない。


 返ってこないこと自体が、

 答えだった。


 花子は、その報告を間接的に知る。


 津川が危険視されていること。

 葉芹が“善意のまま”揺さぶられていること。


 だが、花子は動かない。


 声を上げれば、

 言葉は使われる。


 使われた言葉は、

 次の規約に組み込まれる。


 だから、彼女は黙る。


 黙ったまま、

 同じ成果を出し続ける。


 それが、今できる最大の抵抗だった。


 その頃、月影は、

 未選択を渡す直前にいた。


 端末の画面に表示された案件。

 選択肢は、いつも通り二つ。


 最適化。

 更新。


 だが、今回は、

 どちらも選ばない。


 選ばない、という行為が、

 誰かの手に渡ることを、

 彼女はまだ知らない。


 ただ一つ、分かっている。


 ――もう、戻れない。


 月影は、指を止める。


 その一瞬が、

 制度にとっての「揺れ」だった。

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