ユカリがコドーズ団長の邪な鞭に締め上げられて意識を失い、ベルニージュが忌まわしい邪眼によって石のように硬直した後、レモニカは銀の格子に覆われたどこかの部屋に閉じ込められていた。古ぼけた扉と小さな窓を除けば粗末な寝台があるばかりの寒くて寂しい部屋だ。射し込む明かりは少なく、火があるはずもなく、そのうえ落ち込む心にはなお寒々しく感じさせる。
レモニカの姿は筋骨隆々の例の男になっていた。どれほどの距離かは分からないが、いまレモニカの最も近くにいるのはベルニージュだということだ。その肉体も立派な衣も自信に満ち満ちた者に相応しいが、レモニカはその顔を青ざめさせ、行き先の暗い未来を思って震えていた。
しかしいつまでもこうしてはいられないと立ち上がり、胸を張り、剣の鞘を握れば、少しばかり雄々しい戦士にでもなったような気分になった。レモニカは堅固な城砦を行く見張りのような気持で、部屋の中を歩き回る。部屋のどこにいてもその姿は変わらなかった。ベルニージュの他に同じくらい近くにいる者はいないということだ。
この男の膂力ならば、と扉のあるべき空間を覆う銀の格子に手をかけるがびくともしなかった。レモニカは知る由もないが、三人の少女たちに用意された魔法の檻はどれも特別だが、レモニカに用意されたものはとりわけ頑強な代物だった。それはレモニカの変身能力への警戒であると同時に、クオルのレモニカへの執心をも表している。
雄々しいレモニカは窓の外を覗き込む。そこは神殿の中庭であるようだった。しばらく踏まれていない色褪せた芝と春を待ちわびる葉の枯れた木々といくつかのくすんだ魔除けの石像。そのように冬の中庭の景色は一年で最も魅力に欠けるはずだ。しかしあらゆる光を吸い込んでしまう黒の建物に囲まれているためだろうか、あるいは虜囚の身ゆえに感じる存在感なのか、レモニカはその中庭に朝露に濡れた初夏の野原のような瑞々しさを感じた。
しばらくそうして眺めていると銀の格子をつかむ指が細くなる。今度はクオルの姿になったのだった。コドーズ団長が戻ってきたのだと分かり、レモニカは緊張する。
待ち受けていると、コドーズ団長がいつもの日常と変わらないとでもいうように姿を見せる。
「よう。ケブシュテラ。さっきの今だが、元気にしてたか?」コドーズ団長はユカリの合切袋とベルニージュの背嚢を肩にかけ、右手に鞭を持っている。廊下の向こうに伸びた太く長い鞭は一人でに蠢いていた。「あのぼったくり女の姿になっちまって、これじゃあ前のような人気は得られないかもなあ? まあ、だがすぐに元の生活に戻れるからな」
「見世物小屋には、戻りませんわ」
レモニカはコドーズ団長から目を背け、視線をさまよわせ、喉につかえながらも毅然と言おうと努める。
コドーズ団長は格子の隙間から顔を減り込ませて激昂する。「ああ!? 戻らない!? 戻らないでどこに行くんだケブシュテラ! お前がどこに行けるってんだ! なあ、おい!? 世界で一番惨めな嫌われ者が俺に大事にされるだけでもありがたく思えねえか!?」
「見世物小屋には、二度と、戻りません」レモニカは俯きながらも泣くまいと堪え、言い渡す。
「まあまあ、喧嘩はいけませんよ。仲良くしましょうよ」
そう言ったのはクオルだ。レモニカの所からは見えないが、それはクオルの弱々しくも陽気な声だった。
コドーズ団長が驚いて振り返る。「てめえ! 何しに来た!?」
「そう怒らないでください。この街には、商品の様子を見に来ただけです。でも、どうやら大丈夫みたいですね。安心しました。その蛇鞭、しっかりと働いてくれているみたいです」
コドーズ団長は感謝の気持ちなど少しも示さずに怒鳴る。「働きすぎなんだよ! 獣一匹捕えるのに何で街をぶっ壊す必要があるんだ!」
「力の制御が難しいことは事前にお伝えしたじゃないですか。してませんでしたっけ? まあ、ともあれお客様のご希望は叶ったようで良かったです」
「いくら払ったと思ってるんだ!? ごみだったらてめえを鞭の餌食にしてやるところだ!」
「ごみだったら餌食にできないと思いますけど」
「うるせえ! 他に用がないなら帰りやがれ!」
「ところで、それ、あの子たちの持ち物ですか?」
クオルの言葉を受けてコドーズ団長が警戒し、一歩退く。
「ああ!? それが何だってんだ。俺の戦利品だ。お前にはくれてやらねえぞ」
「見せてくださいよ。物によっては良い値段で買い取りますよ。団長さん、他に魔法使いの伝手なんてないでしょう?」
コドーズ団長は躊躇いつつも合切袋と背嚢を放る。レモニカには見えない壁の向こうでクオルが物色している。レモニカは何とかして食い止めたかったが、何も方法が思いつかなかった。
「うーん。どれも欲しい。けど手に入らないんですよね。どうしたものか」クオルは何かを思い悩んでいる。「こっちがベルニージュさんの背嚢ですね。あ! これくださいな。値はこれくらいでどうです?」
コドーズは目を見開き、すぐさま応じた。「持ってけ」
コドーズ団長の怒りは多少収まったようだが、レモニカの姿はあいかわらずクオルの姿だった。
「クオルさん!」とレモニカは呼びかける。
するとクオルがコドーズ団長の脇から顔を見せる。「うわ! ちょっと! 団長さん! 私のこと嫌いなんですか!」
「当たり前だろうが! 他に何も買わないならさっさと失せろ!」
「酷いですね。こっちはお得意様だと思っているのに。それでレモニカさん。何か御用です?」
レモニカは焦る。クオルの登場は好機なのだ。何とか引き留めようと頭を巡らせる。レモニカはさりげなく中庭の見える窓のそばまで行って、格子をつかみ、もったいぶって言う。
「ラミスカのことを知りたいそうですね」
するとクオルがコドーズ団長の脇から飛び出して銀の格子にすがりつく。
「ラミスカのことを何か知っているんですか!?」
同時にレモニカは、クオルの大嫌いな鼠の姿に変身する。窓に張られた即席の格子の隙間を脱出するのには十分な大きさだ。
「ケブシュテラ! てめえ!」
コドーズがクオルを突き飛ばしたのとレモニカが檻を抜け出したのはほぼ同時で、危うく格子の間でクオルの姿に戻り、想像するも恐ろしい有様になるところだった。
レモニカはクオルの姿で中庭の少し枯れた芝に転がり落ちる。そしてコドーズ団長の怒鳴り声から逃れるように忍び歩く。一番近くにいるはずのベルニージュを探そうと中庭を壁伝いに歩くが、コドーズ団長もまたレモニカを探して移動しているために、クオルの姿と例の男の姿で変身が安定せず、ベルニージュの位置をなかなかつかめない。
しとしとと雨が降ってくる。絹糸のように細く穏やかだが力強い雨だ。雲はなく、陽光もまた変わらず斜めに降り注いでいる。あの雨乞いの成果ではないだろう、とレモニカは確信する。前に雨乞いを行使した時と様子が違い過ぎる。
クオルの姿に変身し、レモニカの体が反射的にびくりとし、屈みこむ。いま最もレモニカの近くにいるのはコドーズ団長だ。しかしその心のそばにいるのはユカリであり、ベルニージュだ、とレモニカは固く信じていた。すぐに立ち上がり、ベルニージュの姿を探し求めて、窓を覗き込む。
その時、雷のように破壊的な轟きがどこかから聞こえてきた。レモニカは驚いて壁から離れ、音の方向を見上げる。神殿の壁の一部が崩れ、レモニカをここまでさらってきたあの忌々しい魔法の鞭の姿が見え隠れした。
コドーズ団長と誰か、ユカリかベルニージュが戦っているのだ。いや、クオルの可能性もある。
戦いになれば自分に何ができようか、とレモニカは思い悩む。足を引っ張るかもしれない。レモニカは目を落とし、気づく。足元にあるのは泥濘だ。今なら【祈雨】を、泥の雨、混沌、降り落ちる哀しみ、堕する者、追放、大いなるものの裁き、等々と呼ばれる元型文字を作ることができる。いま文字を完成させれば、魔導書の衣が光り、その位置が判明する。つまりベルニージュの居場所が分かる、とレモニカは考えた。
レモニカは屈み、泥濘に指を突っ込んで【祈雨】の字を書く。しかし文字は光らなかった。理由は分からない。文字が歪んでいるのかもしれない。
レモニカは自分の手がまだ震えていることに気づく。神殿の悲鳴と、ずっと大きいが聞き慣れた鞭の音がレモニカの心を焦らせる。ユカリやベルニージュの鞭打たれる恐ろしい想像がレモニカの心の中を我が物顔でうろつく。
獅子の体で受けていた鞭は大して痛くなかったが、打たれるたびに惨めに感じていた。その間のことはよく覚えている。毎日が辛く悲しかったが、それが自分に相応しい人生だと思っていた。
しかし鞭で打たれても惨めに感じなくなった後のことはほとんど何も覚えていなかった。あの時のレモニカは死んでいたようなものだった。
レモニカは涙を流し、何度も何度も泥濘に文字を書き直す。ユカリであれば、ベルニージュであれば、このような時に泣いてはいないだろう。二人だって泣く時はあるかもしれないが、それは事を成し遂げたあとであるはずだ。
何が間違っているのだろう。文字を覚え違いしているだろうか。いや、そのようなことはないはずだ。”雨降る泥で”。とても単純な言葉だ。
「あ」と言葉を漏らす。
勘違いに気づく。レモニカは両手で泥を集め、盛り上げて【祈雨】を作る。『泥に』ではなく『泥で』だったのだ。
それはまるで祝福のように禁忌文字は輝きを放つ。
とても眩かったが、レモニカは目を閉じることなく、辺りを見渡す。どこかで光っているはずの魔導書の衣を探す。もう一つの光は予想外の方向から飛び込んできた。まだ崩れていない黒い壁を貫通して、一番星のように瞬いている。それはいままさに神殿から離れていくようだった。
それがどういうことなのか、レモニカにはすぐに分からなかった。しかし魔導書の衣を着たベルニージュが離れていくのだとすれば、クオルに連れ去られたのかもしれない。つまりいま団長と戦っているのはユカリということになる。
自分が少しでも助けになれるとすれば、クオルを憎むコドーズ団長よりも、鼠を恐れるクオルとの戦いだろう、とレモニカは考え、離れ行く魔導書の衣を追って駆け出した。
そして雨が止む。禁忌文字を完成させた時に同じ文字を使っている周囲の魔法は一時的に力を失うからだ。どうやら誰かが【祈雨】を使って雨を降らせていたのだ、とレモニカは気づく。しかしそれがユカリやベルニージュ以外の誰かである可能性まで思い至らなかったために、離れ行く魔導書の衣を追うというレモニカの判断は覆らなかった。
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