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リフェアリー
128
大剥離から二週間。商店街の向こう側、川沿いの倉庫街に、旗が立った。
白地に、黒い丸。何の意匠でもない。ただ、遠くから見えるようにというだけの旗だった。
「御殿だって」
肉屋の息子が、要に言った。
「元の警備会社の社長が、倉庫を押さえたんだ。食料と水と、発電機。警備員が五十人。中に入れば、三食出る。働けば、もっと出る」
「条件は」
「従うこと。それだけ」
要は、川沿いまで歩いた。
倉庫の前には、既に列があった。家族連れが多い。子どもを抱いた母親。年寄り。スーツのまま二週間過ごしたような男。列の先頭で、黒い作業着の男たちが、一人ずつ顔を見て、中に通している。
そして、倉庫の入口に、男が立っていた。
五十代半ば。背は高くない。だが、立ち方で分かる種類の人間だった。周りの誰よりも、動いていない。
権田虎雄。要は、名前をあとで知った。
「兄ちゃん」
権田が、要を見て言った。列に並んでいないのが目についたらしい。
「何か用か」
「見に来ただけです」
「何を」
「ここが、どうやって回ってるのか」
権田は、少しだけ笑った。
「簡単だ。俺が食わせる。奴らが働く。それだけだ」
「記録は」
「記録?」
「誰がどれだけ働いて、どれだけ食ったか。それを誰かが決めないと、揉めますよね」
「俺が決める」権田は言った。「揉めたら、俺が見て、俺が決める。文句があるやつは、出ていけばいい。外には、何もない」
要は、倉庫の中を見た。パレットに積まれた米。ペットボトルの水。壁際で唸る発電機。それを囲む黒い作業着。
ここには、信用がなかった。代わりに、力があった。権田が食料を握り、権田が人を握り、権田が正を決める。サーバーの代わりに、権田がいる。
そして、それは動いていた。要が三冊のノートで二十人のツケを管理している間に、権田は三百人を食わせていた。
「兄ちゃん、何やってる人だ」
「元、銀行のシステムです」
「ああ」権田は、心底どうでもよさそうに言った。「終わったな、それは」
「終わりました」
「じゃあ、うちで働け。システムは要らんが、数は数えられるだろう」
要は、答えなかった。代わりに、聞いた。
「権田さん。これ、いつまで持ちますか」
「何がだ」
「あなたが決める、という仕組みが。あなたが倒れたら、誰が決めるんですか。あなたが嘘をついたら、誰が正すんですか。この倉庫の米が尽きたら、隣の町の米を、誰の信用で買うんですか」
権田の顔から、笑いが消えた。怒ったのではなかった。考えている顔だった。
「……隣の町は、取る」
「取れなくなったら」
「そのときは、そのときだ」
要はうなずいた。それは正直な答えだった。権田は、自分の仕組みが広がらないことを知っている。知っていて、今日を回すことを選んでいる。それは間違いではなかった。今日を回せない仕組みに、明日はない。
でも、明日しか回せない仕組みにも、明日はない。
「兄ちゃんは、何をやってるんだ」
「商店街で、帳面をつけてます。三冊」
「三冊」権田は、今度は本当に笑った。「遅いな」
「遅いです」
「俺のは速い。朝、米が要ると思ったら、昼には倉庫を開けてる。許可も、承認も、帳面も要らん」
「はい」
「遅い仕組みより、速い棒だ。覚えとけ」
権田は、そう言って背を向けた。列が動いた。
要は、川沿いを歩いて帰った。
速い棒。たしかに速い。今日の東京で、三百人を食わせられるのは、棒だけだ。帳面では、食わせられない。
でも、棒は、棒を持つ男の長さまでしか届かない。
商店街に戻ると、つむぎが文房具屋の前に立っていた。今日、新しく顔を覚えた人が四人いた、と言った。
「全部で、三十二人」
三十二人。三百人の、約十分の一。
「遅いって言われました」要は言った。
「誰に」
「速い人に」
つむぎは、少し考えてから言った。
「速い人は、速い人がいなくなったら、どうするのかな」
要は、それを権田に聞いてきたばかりだった。答えは、「そのときは、そのときだ」だった。
(第6話「瑠衣」へ続く)
コメント
1件
「速い棒」と「遅い帳面」の対比が、すごく鮮烈でした。権田さんの仕組みの強さと脆さが、あの倉庫の光景にぎゅっと詰まっていて。要くんが「誰が正すんですか」と聞くシーン、じわりと心に残りました。つむぎさんの「速い人がいなくなったらどうするのかな」という問いかけも、優しくて鋭い。三十二人、大事に育てていってほしいなあ。続き、気になります。