テラーノベル
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出勤前の朝ユリアは大きくため息をついた・・・ジュンとキスをしてからどういうわけか、ここ数日、良ちゃんに電話が出来なくなっていた、幸い向こうからもかかってこない、きっと忙しいのだ、なぜかユリアは心の中で安心していた
少なくとも頭の中はジュンでいっぱいなのに、そんな時に良ちゃんと何を話せばいいのか分からなかった、楽しみにしていた良ちゃんとの電話のあの行為も、今はとてもじゃないが楽しめそうにない
気まずく罪悪感しか残っていなかった、ユリアは自分自身に何が起きたのかを把握しきれずにいた、分かっているのはあれはまったく、完全に、予想外の出来事だったということ・・・
自分の年齢、ならびに社会経験からすれば、相応の男性経験があると考えていた、つきあった相手の数は2~3人だがそのどれも誰一人としてジュンとキスをしたほんの一瞬であれほど燃え上がってしまうなんてありえない
まさにジュンとのキスは想像を絶していた、それを想うと恥ずかしくて仕方ない、しかも自分はきちんと交際している相手がいるのに、会ったばかりのジュンは警官なのに、その男性の腕の中でとろけてしまうなど、自分の倫理観に自信が無くなってきた
何度も心に言い聞かせる・・・私に必要なのは良ちゃんだ、彼との将来を育むべきだ、目を閉じて彼の少し眺めの前髪・・・やせた長身の体、ジュンに比べれば肩幅は彼の半分とまではいかないかしら・・・
ほっそりした彼の白い手の指を思い出す、しかし、すかさずあの日に焼けたえくぼのジュンの笑顔が出てくる、
ダメッ!どうしてここにジュンが出てくるの?
だって良ちゃんは安全だから・・安全ってどういうこと?体の奥は鬱積した欲望で疼いてる、ジュンの笑顔はカップケーキの様だった
マジックバーで彼の腕に包まれて遊んだ時、全体重をかけてもたれても、彼はびくともしなかった、圧倒するほどの男らしさ、彼の胸の体温を背中に感じ、守られて大切にされていると感じた
あんなに安心したことはなかった、そう自分の人生でただ一人、父を除いて・・・もうここ何年も父の事を思い出すことはなかった、良ちゃんと家族構成について話した時も、軽く父の事にふれただけだったのに
ジュンとお互いの生い立ちや家族の事について話し合った時、心に温かいものが溢れて、父の思い出が鮮やかによみがえった、しばらく考え・・・ユリアは結論づけた
朝倉淳という男性は、どうやら自分の理性をめちゃめちゃに引っ掻き回すらしい、だからできるかぎり彼を避け、どうしても顏を合わせなければならない時には、できるだけ冷静な態度を取る事とする
その時ユリアのスマホが光り、軽快な着信音が鳴った。
画面の着信番号を見てチッと舌打ちしす
「もしもし」
『ああ、ユリア、ママよ、元気?そちらはどう?』
「ええ・・・元気よ」
『あなた聞いたわよ、みゆきちゃんの結婚式破談になったんですって?』
いつもの事だがこちらに振っておいて、自分の言いたい事を一方的にしゃべる母、に心の中で沸き起こる嫌悪感に、体を抱いた
「ええ・・・そのことだけど、みゆきがかわいそう・・・」
『あなた、ご祝儀はどうしたの?女子高からのお付き合いだから。鈴と私からも包んで出しておいてって言ったじゃない?あれって破断になったら戻ってくるのかしら?だって戻ってこなきゃおかしいわよ、ママ、調べたんだからネットで』
今すぐ電話を切りたい、母とは5分としゃべっていられない、小さい頃から母とはそりが合わなかった、自分の事しか見えていない
子供も旦那も、自分の思い通りにしないと気が済まない母に、姉の鈴は辛抱強く、母の言いなりだった、逆に自分は我が強く、言いたいことはハッキリ言う、そんな母にとってもちろんお気に入りは姉で、ユリアは意固地で頑固者のレッテルを貼られた
「ママ、いい?今はみゆきは襲撃犯に襲われて入院してるの、ご祝儀がどうのこうの言える状態じゃないわ」
ユリアは半分Gパンに脚をつっこみながら話を聞いた、このまま母と無駄話をしていたら遅刻してしまう
『やっぱり、政治家のお家柄なんてみゆきちゃんには合わないのよ、これでわかったでしょう?あなたはちゃんとした勤め人と結婚しなさいね、婚活パーティーで知り合った彼は?ようちゃんと言ったかしら?どうなったの?』
「ママ良ちゃんよ、何度言ったら覚えてくれるの?」
どうしてこんなにデリカシーがないのだろう?どうしてこんなに自分勝手なんだろう?我ながら自分の母親なのに、彼女を責める気持ちしか出てこない
『彼は大きな会社の公認会計士でしょ、ボーナスも福利厚生もちゃんとしてるわよね?いつ結婚するの?もうあなた30前よ?どう考えているの?』
「まだ26よ」
ユリアはムッとして言った、通じるわけもないけど
『』あら、お姉ちゃんは26歳でもう結婚していたのよ?ねえ、また鈴が妊娠したのよ、あの子が妊娠したらどうなるか知ってるでしょう?『』
さんざんあなたに甘えまくるでしょうね・・・でも姉をそういう風に育てたのはあなたでしょ?もう少しで口に出してしまう所だった、姉の鈴は母の意見無しでは何も決められない、もちろん自分の結婚相手も、見合いで母のお気に入りの、今の歯医者の旦那にしたのだ
「おめでとうって言っておいて」
つっけんどんに言った
『だから早くあなたの結婚式を決めて欲しいの、このままでは鈴は大きなおなかを抱えてあなたの結婚式に出ないと行けなくなるわ、産んでしまえばしばらくは鈴も赤ちゃんも動けないのよ』
「別にいいじゃない」
『あなたはいつもそうやって、どうしてママの言う事を素直に聞いてくれないの?』
親としての都合を押し付けられるのはまっぴら、そう言って電話を切ってやったらどんなにすっきりするだろう、母とのこの数分間の会話で不快感しか感じない
ユリアは大きくため息をついた
『とにかく、今週末でもその良ちゃんを連れていらっしゃい、あなたが結婚を切りだせないならママが彼に言うから、もう何ヶ月も付き合ってるのだから男として責任をとってもいい頃よ、いいえ、むしろそうすべきだわ』
ユリアは弾かれたように立ち上がった
「ママ!責任だなんて!彼は良い人よ」
『そうでしょうとも、だからこそ事を早急に進めないと、ああ・・・鈴が帰って来たわ、それじゃまたね!』
切れたスマホをテーブルに放り投げ、ユリアは頭を振った、一方的にかけてきて一歩的にしゃべり、一方的に切る
母とはもう何年もこの調子だ、どうやら長女が3人目を出産する前に、行き遅れの次女をかたずけておきたいらしい、母の結婚生活は決して幸福であったものではない、それ故に娘たち特に長女の人生に自分の幸せを託してるんだわ・・・
かわいそうな人だ、あんな風には生きたくない、ユリアは父が恋しかった、今夜こそは良ちゃんに電話しよう、
そう・・・ジュンとはもう会わない方がいい、ユリアは彼とのキスが頭の中を駆けまわるのを無理やり押し止めた
・:.。.・:.。.
ユリアが勤めるイタリアンレストラン(ジュリア―ノデッタポルタリストランテ)の、ガラスの両開きドアを入って行くと、受付にいたチェンさんがハッとしたように顔をあげた
「ああ・・!ユリア姉さん来まシタ!」
「おはようチェンさん!今日はお昼から雨みたね」
ユリアは笑顔でタイムカードを押し、厨房に向かおうとした時チ、ェンが不安そうな目でユリアの腕をつかんだ
「ユリア姉さん大変デス、とにかくホールへ」
なにごとかと眉をしかめたが、とにかくユリアはチェンに引きずられるまま、二人はホールに向かった、ホールには何やら人だかりが出来ていた、たぶん出勤してきた従業員全員がそこに集まっているようだ
「ああ~・・・かわいそうなスタンウェイちゃん!」
この店のオーナー「釜奴さとし」が大ホールに設置している、グランドピアノに突っ伏して泣いていた、泣いているオーナーのグランドピアノを見ると「なんとまあ」みごとにグランドピアノの鍵盤がそっくり無くなっている
ユリアと他のシェフも目を丸くしてこの光景を見張った
「こっちも見ろよ」
すぐ横のグランドピアノの横のガラスも叩き割られていた
「夜中にガラスを割って侵入したんだな」
ユリアのすぐ後ろにいたシェフが言った、ユリアも首を振った、みんな口々にしゃべり出す
「昨日も、なんでも地下アイドルの路上ライブで、夜遅くまで若者が御堂筋に溢れていましたからね」
「ヤンキーやパリピもいまシタ」
「チェンさんどこでそんな言葉を?」
あきれたユリアがさらに言った
「でもなんでグランドピアノの鍵盤なんかを盗んでいくの?ねえ、釜奴オーナー他にも被害は?」
「やめてよユリア!あたしのことはジュリーって呼んでって言ってるでしょ!」
オーナーは不快感を吐き捨てるように言うと、椅子にもたれて再びさめざめと泣きだした、チェンがオーナーにハンカチを差し出し、背中をさする
麻のズボンの折り目がピシっと綺麗だ、ハンカチを持つ手の小指が立っている、オーナーのジュリー(もちろん男)自慢のレストランは、このVIP席がとりわけ人気で、この空間だけを完璧にイタリアの貴婦人のサロンと言う感じに変貌させてある
もちろんユリアもここがお気に入りだった、夜になるとガラス張りの空間で人々が楽しく料理に舌鼓を打っている様子が御堂筋からは丸見えで、中でもこのホールの中でひときわ存在感があり、目を引くのがこのグランドピアノだった
「信じられないわっ!このスタンウェイちゃんはあたしがわざわざドイツのハンブルクから買い付けたのよ!それをなんて姿に・・・」
ふぅ~っと倒れそうになるオーナーのジュリーに、チェンが紅茶を奨める
「全部は盗めないからね、でも鍵盤だけでも売りとばしたら、結構な額になるだろうね」
他のシェフもつぶやく
「ええそうでしょうとも」
ジュリーは今やハンカチの端を噛みしめて苛立っている
「オーナー、興奮するとお姉言葉が・・・」
チェンがジュリーを諌める、それにハッとして落ち着こうと震える手で紅茶を飲んでいる、オーナーが続けた
「とにかく!こんな事をした犯人を捕まえてもらわなきゃ!」
嫌な予感がした、ユリアが両手で顔を覆った、
まさか・・・うそでしょ?ああっっ・・・やめて
ジュリーがここにいる皆に指示をだした
「警察を呼びましょう」
・:.。.・:.。.
数分後、紺色の制服の警察官が二人やってきた、一人は見慣れない中堅の警官だった、でも・・・もう一人は・・・
みんなより頭一つ分突き出た背丈、広い肩から腰にかけて綺麗な逆三角形の背中、すっきりと刈り上げられた黒髪
ああ・・・彼は何処にいてもすぐわかる、ジュンはわざとらしくさめざめと泣くオーナーの手を握り・・・というか握られながら、事情聴取を受けていた
ユリアは終始落ち着きなく、厨房からホールを見渡せる小さな小窓からジュンの様子をチラチラ見ていた
「彼来てマスよ~♪」
チェンが忙しそうにウエイトレスの仕事をしながらユリアの耳元で囁いていく、その度なんでもないという風を装っているけど、ユリアの頬はピンク色に染まっていた
他のシェフ達がランチ前の小休憩に行った時でも、ユリアは一人だけ厨房に残って、雑用をこなしていた、だってここからならオーナーと話し込んでいるジュンが良く見える
彼のふるまいは優美で無駄な動きがない、彼の事を考えると膝から力が抜ける感じがするが、なんとなく悪い意味でそうなるのではない
今のユリアには良ちゃんとの未来を考えるべきであって、ジュンの事は頭から追い払うと決めたのに、どうしてこんなに彼と会ってしまうのだろう
そして会ってしまえば・・・彼に惹かれるなという方が無理だ、彼と自分の間では何かがあるのではないかとさえ勘ぐってしま
考えてはダメ・・・
「何してるの?」
「キャァ!!」
背後からしたジュンの声に考え事をしていたユリアは喉から心臓が飛び出しそうになった、余りの驚きに持っていた包丁を落としてしまい、包丁はまっすぐ床のコンクリートにカシャンと音を立てて弾けた
その拍子にユリアは足がもつれて大きな食器棚に体を打ち付けてしまった
「おいおい、落ち着いてよ、びっくりさせて悪かった、ただこの店の警備システムをもっといいものに変えないといけない事を言いたかっただけなんだ、君が気を失うほどまで驚くとは思っていなかった」
ユリアにはそんな言葉も耳に入ってこなかった・・・ジュンの甘くて低い声がする・・・彼の肩に額をあずけて手のひらを胸にぴったりつけていた
ジュンはユリアの体をしっかり支えている、ジュンの力強い鼓動を感じてユリアが少し落ち着いた、手のひらに感じている筋肉は鋼のようだ
雨の中にいたんだわ・・・外の雨の匂い・・・それにジャケットの皮清潔な石鹸・・・そして何かわからない・・・彼自身の匂い
夕べのデートの時から、ユリアは彼自身の匂いというものを敏感に感じ取っていた
それはとても好ましくて、官能的だ、ハッとしてユリアは弾かれるようにジュンから離れた、ヒステリーに陥ってしまいそうだった、じっと見下ろすジュンの視線が体に突き刺さる
彼をどう扱えばいいのだろう?まったくわからない・・・ジュンが目を合わなさいユリアに気を遣うように言った
「厨房の見取り図が欲しいんだ、誰がどこに侵入できるか把握したい」
ユリアはやることが出来たのが嬉しくて、いそいそとステンレスの戸棚のファイルを漁りだした
「ええっと・・・ちょっとまってね、たしかここに・・・」
「このレシピの数すごいね、君が書いたの?」
ジュンはステンレスの作業テーブルに乱雑に散らかしてる、春の季節限定ランチの考案レシピを眺めていた、そして何かを書かれている紙を見つけて、ジュンは目を大きくした
その一枚をマジマジと見つめる、ユリアはハッとしてジュンを見つめた
―大変!―
レシピの一枚の端にジュンの名前を書き散らかしていたことを思い出した、カタカナでジュンの名前を書き、こともあろうことか縁をハートで飾られている
アドレナリンが体中を駆け巡った途端に顏が真っ赤になるのを感じた、ジュンはマジマジとその落書きを見つめている、やがて頬が緩んだ
「それは・・・あー・・・その・・・」
ユリアは顔を両手で押さえる
「ただの落書き・・・ちょっとあなたの事を考えていたから・・・」
恥かしさで死ねるなら今よ!
ユリアはそう心の中で叫んだ、まるで片想いの中学生のような事をしているのをジュンに知られてしまった
ジュンはゆっくりと机を回ってきて、ユリアの前にそびえ立ち、優しく手を握った
「こんどいつ会える?」
そう言ってジュンはユリアに近寄った、ユリアが近さを意識してしまう距離に入り込んできたのだ、恋人同士の距離だ、ユリアは手をほどき警戒するように後ろに退いた
「やめて・・・夕べは近所迷惑だったんだから・・・」
そう言えばジュンに引き下がってもらえると思ったのだが、ユリアの決まり悪さなど、ジュンは感じていないようだった、さらにユリアが引き下がり、ジュンが前に踏み出すということを何度か繰り返すうちに、ユリアの背が壁にあたる所まで来てしまった
「頼む・・・次に会う約束をしてくれないと、事件がある度に、君に会えるんじゃないかって期待に胸を膨らませる変態になってしまうよ」
コーナーに追い詰められているのに、ユリアは思わず噴き出した
「でも・・・昨日会ったばかりよ・・・間隔を開けないと・・・」
「間隔ってどれぐらい?1日2日?まさか一週間ってことは無いよね?死んでしまうよ!」
深く息を吸いこんだら、乳房がジュンの胸に触れてしまいそうだ
「もう・・・いやぁね・・・ジュン私には―」
「彼氏がいるって言うんだろう?それでもかまわないよ」
今のところは・・・ジュンは心の中でつぶやいた
呼吸が止まりそうな気分だ、ユリアは身震いした、彼はあまりにも存在感が強い、そわそわして咳をした、あまりにもジュンの体が近くて、充分息が吸えない気がする
ジュンはさらに体を前に乗り出してきて、ユリアの髪の匂いを嗅いだ
「いい匂いだ・・・」
ジュンは結い上げているユリアのうなじにそっと指を這わせた、ユリアは驚いて飛び上がりそうになった
「びっくりした?」
「少し」
小さな声でユリアが答える
「かわいそうに・・・でもあんな可愛い落書きを見せられて、引き下がるなんてできないからね、絶対」
とジュンユリアは今こそ心を鬼にするべきだと思った、思い切って言った
「私・・・今の彼氏と結婚するかもしれないの」
これ以上この人の傍は無理と思った、ユリアは体をするりと横にずらした、二人の間に沈黙があった、ジュンの声が少し怖くなった
「本当に?」
「え?ええ・・・」
ユリアは何故が視線があちこちに彷徨った、ジュンは辛抱強く言った
「昨日あんなに舌をからめてくれたのに?僕にあんなキスをしておいて、君は他の誰かと結婚するの?」
「ジュン!やめて、ここは私の職場なのよ?」
ユリアがジュンを見上げたので、二人の視線が合った、ジュンの強烈なまなざしにユリアは思わず視線をそらしてしまった
―何か言うのよ、ぼんやりしてないで―
「そういうことだから、もうあなたとは・・・二度と会わないわ・・・」
ジュンはすぐに返事をしなかった、暫く二人の間に沈黙が走った、ユリアはジュンのその思いつめたような表情にハッとした
口をへの字に結んで両脇に深いしわが出来ていた、やがて静かに彼は言った
「わかった」
その言葉にユリアはみぞおちをドスッと殴られたような気さえする
「わかったなら、もう行って・・・」
ジュンは眉を寄せてユリアを見下ろした、厨房の窓から雨がしたたり落ちている音が聞こえる・・・雨足が強くなってきたのだ
奥の廊下の方から休憩から帰ってきたシェフ達の騒がしい話し声が聞こえてきた、休憩時間は終わった、ジュンは静かにユリアから離れた
そして一度も振り返らずに
厨房を出て彼は雨の中に消えて行った
・:.。.・:.。.
ユリア一人だけを残して傘もささずに雨は夕方にはやんだ、だか夜にはまた降りだしそうだ、夜のディナーの仕入れにチェンと心斎橋のスーパーの中を歩いている時、チェンがユリアのあまりにもの落ち込み様に気を使って声をかけた
「あの~・・・ユリア姉さん、あのイケメンポリスさんと何かありましたか?」
パプリカの新鮮さに睨みを効かせている時に、不意に話しかけられたので、ユリアの顔は眉間に皺が寄ってしまっていた
「なぁに?チェンさん、私には彼氏がいるのよ?他の男性とちちくりあっている暇はないわ」
スーパーのかごを持って心配そうにこちらを窴っているチェンに、ユリアは微笑みながら、パプリカを次々に籠に入れる、ユリアはチェンの不安そうな目を見つめ、安心させるように微笑んだ
それを見たチェンもほっとしたようだ
「そうですよね、ユリア姉さんにはグローバルな彼氏さんがいマス、あのポリスも素敵だけど、決めるのは姉さんデス」
チェンはなんとかユリアの役に立とうと一生懸命になっている、ユリアもそんなチェンについ本音を言ってしまった
「そうね、良ちゃんと会っていなかったら、たぶんジュンのこと気にしていると思うの・・・でも私、彼と結婚を考えているのよ」
その言葉に信じられないほど心が痛んだ、先ほどのジュンの顔が思い出された、チェンの顔が輝いた
「まあ!それは素敵です!」
ユリアはこの話はこれで終わりというように、近くにあるトマトの棚に移った、仕入れを終えて、大きな荷物を持って、二人で心斎橋を行きかう人ごみの中を泳ぐように流れに逆らって横道に進む
心斎橋には沢山の人が集まっている、ユリアは道行く人を観察するのが好きだった、いかにも観光客の中国人の団体だ、大声で中国語を叫んでいる、そして首から下げているカメラは日本製だ
ベビーカーでアイスクリームを食べてる赤ん坊、道沿いの大きなゲームセンターからはけたたましい音楽が流れ、店頭に並んでいる
ゲーム機からもなにやら騒音を出しているので、そこはひときわ賑やかだ、そして次に目に入ったのは、そこにたむろする学生服姿の不良達にくどくど説教する警官・・・
ユリアの心臓が1㎝跳ねた、チェンもすばやく彼を見つけた
「あれは・・・もしかしてイケメンポリス?」
こんな場所で何をしてるの?ユリアは立ち止まって思わず彼を見てしまった、さらに近くにある壁時計を見て納得した、なるほど・・・あの不良学生達は学校をさぼってここで遊んでいたのね
説教を終えたジュンは、両手を腰に当てて、自転車で退散する学生達を怖い顔で睨んでいる、かと思えば次の瞬間、一人の学生が言った冗談で、学生達と大笑いを初めた
少年っぽい笑顔が弾けているジュンは、不良達に恐れられながらも、親しまれているようにも思えた、さらに派手な服装のおばあさんがジュンに大きなパンフレットを見せて近寄って行った、彼はおばあさんの質問に笑顔で答えている
「あのコップはヒーローデスね」
いかにも微笑ましい光景を見たという感じで、チェンはユリアに振り向いた、その瞬間チェンはユリアをじっと見て、フクロウのように目をしばたたかせた
「大丈夫デスか?姉さん」
ユリアは涙をハラハラ流していた、
どうして・・・どうして遠目にジュンを見ただけでこんなに苦しいの?
どうして今すぐ駆け寄って彼に飛びつきたい衝動にかられるの?
どうしてあの時冷たく彼をあしらった事を、こんなにも後悔しているの?
チェンに見つめられながら自分のみっともない姿を何とかしたいのに、涙はとめどなく溢れ、ユリアは大きく鼻をすすった、
チェンが荷物を地面に置き、そっとユリアの荷物でふさがっている手を握り、真剣なまなざしで言った
「ユリア姉さんの気持ちが、あのコップに傾いてるなら・・・良ちゃんさんとは落ち着くべきではありまセン」
ユリアはずいぶん年下の、しかも学生のチェンに、もっともな事を言われて思わず涙がひっこんだ
ヒック・・・「まあ・・・チェンさん・・・ごもっともだわ」
「日本のドラマで学びました」
「でも私ジュンにはもう会わないって言ってしまったのよ・・・どうしたらいいかしら?」
チェンは口元に手を当てて考えこんだ
「う~ん・・・そうですね、それは・・・」
ユリアはチェンの顔を覗き込んだ
「それは?」
チェンはテヘッと笑った
「見当もつきまセン」
・:.。.・:.。.
仕事が終わってもユリアの心はまだ泥沼状態だった、いつもなら堺筋の24時間営業の外国食品専門スーパーへ寄って、お気に入りの食材を物色する
色とりどりの北欧のキッチングッズや、イタリアの食品などを購入して、ゆっくり体と、思考をオフ状態にする、そして今夜のネットTVを見ながら、自分のために自分が作るメニューを店内をゆっくり回りながら買い物をしていく
今日はバルサミコのドレッシングを大量に作らされた、しばらくバルサミコは見たくない、だから今からの自分へのごほうびディナーは、耐熱皿いっぱいのアップルクランブルにしようかな・・・
以前、ユリアの家の佳子達との女子会にはこれを大量に作った、みんな大喜びで食べてくれた、あの時に楽しかった光景を思い浮かべてみる、さらにハーブの株を何鉢か購入する、家で手入れをしてみると心が落ち着くかもしれない
大きく育ったら店に持っていこう、今までこういう行動が何よりもユリアのお楽しみで癒しだった、だけど今夜は心は少しも落ちつかない・・・
あの時最後に別れたジュンの顔が頭から離れない、何だか大きな穴あけパンチで心を空けられた気分
マッチョは嫌いだった、以前ユリアが通っていた宗右衛門町のフィットネスクラブでは、Y染色体と股間に一物をぶら下げているというだけで、女よりも優れていると思い込む愚かな男達が沢山いた
そんな男達はとりわけ筋肉の盛り具合をアピールして気取っていた、さらにユリアに向ける、いやらしいぎらついた視線には免疫も出来ていた、そんな輩を軽くあしあしらうのも得意だった
けれど朝倉淳は本物だった・・・彼は男であることを誇示するのではなく、ただ男としてそこにいた・・・
筋肉の問題ではない、彼からは男としての気概が力として放たれている
むせ返るような男性ホルモンとが相まって、傍に行くと、ユリアの心を高鳴らせる、ジュンには今までに感じたことがない引力がある
彼のような人とデートしたのは初めてだった、これまでの交際相手は都会的でスマートな男達だった、ジュンのように大柄でたくましい男はいなく、おしゃれな会話を楽しみ、服に糊が効いていて順序を踏み、長身でも細見で、中性的
セックスは真っ暗の中で、キチンとシーツをかぶってするタイプ、その代表的な人が良ちゃんだった
ジュンはどんな意味でも好意を隠さずに、駆け引きとは無縁の人だった、ユリアの得意とする男女の駆け引きはまったく通じない人・・・
率直で単純だけど、律儀で情に熱い人・・・自分が危機だとわかったら全身全霊で守ってくれる人・・・
ため息をついて大きな買い物袋を抱えながら、地下鉄に乗り込んだ、家までの帰り道を街灯に照らされながらトボトボと歩く
ユリアはつらくて目を閉じた・・・
唯一ハッキリしているのは良ちゃんとの関係をもう一度見直すべきだ、ジュンに心が傾いたのは良ちゃんのせいではない、自分は多少なりとも自尊心のある女だと思っている
ユリアの信条上・・・男性は香水のように気軽に取り換えのきくものではないはずだから
一人の男性を穏やかに敬意をもって、末永く愛する・・・その男性とも同じように愛し愛される関係・・・そして二人は将来を考えだす
これがユリアの理想だった、なのに今は激しいほどジュンを求めている、ジュンに恋して心から彼に惹かれていると分かった途端・・・彼を拒絶してしまった
もう彼には会うことが出来ない、こちらからどうアピールしたらいいかもわからない
もう会えない・・・それを想うと心が寂しさで縮んだ
自分はもしかしたら世界一の大バカものかもしれない、そう考えると涙が溢れてきた、自宅のマンションが見え、ふと視線を上げた時に、マンションの前に停車している大きな黒い塊をみつけた
あれは何?
ジュンのバッドマンの車だ!嘘でしょ!信じられない!さらに目をこらして見るとユリアのマンションの横の自動販売機にジュンがいた
何か買っている、取り出し口から缶コーヒーを取って、そしてこちらを見た
長い脚にぴったりした紺色のデニムに真っ白のシャツ・・・その上からカーキー色のMA1を羽織っている、これでサングラスをしたらアメリカ空軍じゃない!
でもとても似合っている、ジュンを見た瞬間・・・体全体がときめいた、心臓が大きくしっかりドキンドキンと音を立てはじめた
太古の原始的なリズムだ、ほとんど興奮してきたといってもいい、しかし同時にあまりにも怖い気もしてきた
小雨がパラパラ降ってきた
雨の霧がジュンを包み込み・・・体の輪郭に当たってオーラを放っているようだ
―本当にバッドマンみたい・・・―
女学校時代に同じクラスの「軽い」と有名だった和美ちゃんは、学校にナイショで水商売のバイトをしていた、セックスに奔放な学生だった
彼女は近くの男子校を狩り場にしていて、それこそ手当たり次第だった、そのかずみちゃんが町などで好みの男性を見つけた時にそっとユリアに耳打ちしたものだ
「もうとろけそう・・・」と・・・
その言葉の意味がようやくわかった、かずみちゃんが言っていたことはこういうことだったのか
彼を見た途端・・・体の奥から何かが溢れて、濡れてくる
彼にどれほど冷たくしただろう、失礼なことも沢山言ったわ、命を助けてくれて、そしてクレープを100枚買ってくれて、そして・・・ああ・・・なんてこと、私彼を叩いたこともあったわ
それなのにこんなに追いかけてくれる人っている?なんて諦めが悪いのかしら?それとも本当にヤバいやつなのかもしれない
ユリアの目からは涙が溢れていた
「・・・どうして泣いてるの?・・・」
ジュンが近づいて来て静かに言った
瞳はこちらの出方を伺っている、捨てられた子犬のような目をして・・・
―可愛いじゃない、卑怯もの―
・:.。.・:.。.
「あなたに捕まりそうだから・・・」
ユリアは涙声で言った、しばらく二人は見つめ合った
そしてジュンが少し首を傾けて微笑んで、優しい声で言った
「きみを逮捕していい?」
ああ・・・なんて愛しいの!!
ユリアは買い物袋を放り出して、ジュンに駆け寄った、ジュンも持っていた缶コーヒーを投げ出して、両手を広げた、そして飛び込んできたユリアをしっかり受け止めた
雨は二人を優しく濡らした・・・
自分のマンションの前で二人きりで抱き合っていることを、ユリアは強烈に意識した
ジュンにキスされる・・・見ればわかるジュンの体が発する言葉・・・その瞳のきらめき・・・急に赤くなった彼の頬のあたりの肌がピンと張り詰めている
そしてユリアはキスしてほしいと思った・・・体がそう訴えてきている、
この人相手に思考は無駄だ、呼吸が荒く浅くなる、乳房がちりちりと張り詰め、その頂が硬くなって痛い
脚の間にうずくような感覚が沸いてくる、二人とも何も言わない・・・
ジュンがユリアの瞳をのぞきこみながら、ゆっくり顏を下げてきた
あまりに真剣な目つきで見つめられたので、ユリアはゆっくり目を閉じた、すると唇にジュンの唇が触れ文字通り熱いキスをした
ユリアは心の中で一言つぶやいた
―さよなら良ちゃん―
・:.。.・:
.。.
・:.。.・:.。.
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