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店を出た私たちは近くのタクシー乗り場へと向かう。ちょうど待機中だったタクシーに一緒に乗った。帰る方向が同じであることは、私が経理課にいた時から互いに知っている。
タクシーが走り出して間もなく、太田は言う。
「……俺さ、笹本のこと好きなんだよな。俺と付き合わないか?」
「え?」
あまりにも唐突すぎて、その言葉の意味を理解するまで少し時間がかかり、最後には聞き間違いかと思った。今まで一度だって、太田からそんな素振りを見せられたことがなかったからだ。それなのにどうしてと困惑したが、すぐに思い至る。酔っぱらって冗談を言っているに違いないと納得し、私は彼に苦笑を見せた。
「そんな冗談を言うなんて、酔ってますね」
「酔うっていう程、酔ってるつもりはないんだけど。まぁ、酒を飲んだ後でこんなことを言っても、信じてもらえるわけがないよな。だけど」
太田は言葉を切り、真剣な目で私を見た。
「冗談じゃないって言ったら?」
私は言葉に詰まり、彼から目を逸らした。
太田のため息が聞こえる。
「こういうことは、素面で言わないとだめだって分かってたんだけどな。ちょっと焦ってしまったかな。勢いをつけるために飲んだのが裏目に出たみたいだ。……ところでさ」
太田の口調が変わる。
「俺、笹本の連絡先って知らないんだよ」
「特に言ったことがなかったので……」
新旧の上司である経理課長と総務課長、あとは親しい同僚としか個人の連絡先を交換していない。
太田はスーツの胸ポケットから名刺入れを取り出した。その中から抜き出した一枚に、ペンで何かを走り書きする。
「これ、渡しておく」
「名刺?」
「そこに書いたの、俺の番号。もし、俺と付き合ってもいいって思ったなら、電話をかけてきてほしい。待ってる」
受け取るのをためらう。
太田が私の手を取り、手のひらの上に名刺をぽんと乗せた。
「考えてみてほしい。……もう笹本のアパートか」
名残惜しそうに太田が言う。
その間にも、タクシーはウインカーを出して路肩に寄って行く。
「今夜は付き合ってくれてありがとう。また明日」
「おやすみなさい」
私はぺこりと頭を下げて、そそくさとタクシーを降りた。そのまま立ち去るのも失礼かと思い、太田を見送るために振り返る。
タクシーのドアが閉まり、その向こうで太田が窓越しに手を振る。
私もまたそれに応えるように、小さく手を振り返した。
タクシーが遠くなった後、太田の名刺を手に持ったままアパートに足を向けた。歩きながら今の出来事を反芻し、私はどうしたいのかを自分自身に問いかける。
太田のことは嫌いじゃない。同僚として頼りになるし、男性としても魅力的な人だ。帰り際、彼と視線が合った時には、甘い期待と予感に心が弾みそうになった。
しかし、私の心には過去の恋の欠けらが残っている。早くその欠けらを捨てて前に進まなければと分かってはいるが、もう何年も、その時の恋を引きずっている。
そんな状態で太田に応えてはいけないと思う。しかしその一方では、彼と交際すればその恋をすっぱりと忘れることができるかもしれないなどと、淡い期待を持つ。
いったいなんと答えようかと、私は名刺の裏に書かれた番号をじっと見つめた。