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雨だった。
静かな雨。
窓を叩く、小さな音。
シェアハウスの中も、
いつもより、
静かだった。
こさめは、
一人で座っていた。
リビングの端。
ソファの隅。
「……」
みんなは、
それぞれ別のことをしている。
なつは本を読んでいて、
いるまはスマホを見ていて、
らんは窓の近くに立っていた。
誰も、
こさめに話しかけない。
それが、
少しだけ、
安心だった。
そのとき。
ピロン
小さな音。
こさめのポケットの中。
「……っ」
体が、
固まる。
スマホ。
見たくない。
でも、
見ないと、
いけない。
震える手で、
取り出す。
画面を見る。
『どこにいる』
知らない番号。
でも、
わかる。
「……っ」
息が、
止まる。
『逃げたって無駄だからな』
『お前は俺のものだ』
『帰ってこい』
視界が、
歪む。
手が、
震える。
呼吸が、
できない。
「……や……」
小さな声が、
漏れた。
ガタン
スマホが、
床に落ちた。
「……っ」
音で、
みんなが見る。
「こさめ?」
いるまが、
立ち上がる。
でも、
こさめは、
動けない。
動けない。
頭の中に、
あの声が響く。
『泣くな』
『気持ち悪い』
『お前のせいだ』
『お前が悪い』
「……やめて……」
耳を塞ぐ。
でも、
消えない。
消えない。
消えない。
「おい」
低い声。
目の前に、
らんがいた。
「……っ」
体が、
反射的に、
後ずさる。
怖い。
また、
怒られる。
そう思った。
らんは、
床のスマホを拾った。
「……」
画面を見る。
「……見るな」
こさめが、
かすれた声で言う。
「……お願い」
知られたくない。
知られたら、
ここにも、
いられなくなる。
でも、
らんは、
全部読んだ。
「……」
沈黙。
数秒。
数秒が、
永遠みたいに長い。
「……こいつ」
低い声。
「誰」
「……」
答えられない。
怖い。
怖い。
怖い。
「……父親か」
「……っ!!」
心臓が、
止まった。
なんで、
わかったの。
「……図星かよ」
らんの声が、
少しだけ、
震えていた。
怒ってる。
そう思った。
やっぱり、
怒られる。
やっぱり、
ここにも、
いられない。
「……ごめんなさい」
口から、
勝手に出る。
「……」
「……ごめんなさい……」
止まらない。
謝ることしか、
できない。
その瞬間。
ドンッ!!
大きな音。
「……っ!?」
らんの拳が、
壁に叩きつけられていた。
「……ふざけんな」
低い声。
怒ってる。
でも、
こさめにじゃない。
「なんで」
震える声。
「なんで、お前が謝ってんだよ」
「……え」
理解できない。
らんの目は、
怒りで、
揺れていた。
でも、
それは、
こさめに向けた怒りじゃなかった。
「悪いのは」
拳を握る。
「そいつだろ」
「……」
「お前じゃねぇだろ」
涙が、
溢れる。
止まらない。
「……っ」
否定された。
初めて。
自分が悪いって、
言われなかった。
「……こさめ」
初めて、
こさめの名前を、
らんが呼んだ。
「……」
優しくない。
でも、
拒絶でもない。
「……もう、逃げてんだろ」
「……」
「なら」
少しだけ、
迷って、
それから、
言った。
「……戻んな」
「……っ」
「絶対に」
その言葉は、
強かった。
命令みたいに、
強かった。
「……ここにいろ」
「……」
「消えんな」
涙が、
止まらない。
「……なんで」
震える声で、
聞いた。
「……」
「なんで、そんなこと言うの」
らんは、
少しだけ、
目を伏せた。
そして、
小さく言った。
「……同じだからだよ」
「……」
「俺も」
拳を握る。
「逃げた側だから」
初めて知った。
らんも、
逃げてきた人間だった。
その日、
初めて、
こさめは思った。
ここは、
壊れた人間が、
いていい場所なんだと。
でも、
同時に、
気づいてしまった。
らんの中の傷は、
自分と同じくらい、
――深い。
夜だった。
みんなが寝静まったあと。
シェアハウスの廊下は、
静かで、
少しだけ寒かった。
こさめは、
眠れなかった。
布団に入っても、
目を閉じても、
昼間のことを思い出す。
らんの言葉。
『戻んな』
『ここにいろ』
「……」
どうして、
あんなことを言ったのか。
どうして、
あんな顔をしたのか。
知りたかった。
部屋を出る。
足音を立てないように、
ゆっくり歩く。
リビングの前。
電気が、
ついていた。
「……?」
こんな時間に。
そっと、
中を覗く。
らんがいた。
ソファに座って、
何もせず、
ただ、
床を見ていた。
「……」
初めて見る顔だった。
強くない顔。
怖くない顔。
ただ、
――壊れそうな顔。
入るか、
迷う。
でも、
気づいたら、
足が動いていた。
「……らん」
小さく、
名前を呼ぶ。
「……」
らんの肩が、
びくっと揺れた。
振り向く。
「……なんだよ」
いつもの声。
でも、
少しだけ、
弱かった。
「……寝ないの」
「……」
らんは、
少しだけ目を逸らした。
「……寝れねぇだけ」
「……」
それ以上、
何も言わない。
沈黙。
こさめは、
らんの向かいに立ったまま、
動けなかった。
帰ったほうがいいのか、
わからなかった。
そのとき。
「……見るなよ」
らんが言った。
「……え」
「……その顔」
「……」
「同情とか」
「……」
「一番、嫌いなんだよ」
胸が、
痛くなる。
違う。
同情じゃない。
でも、
言葉にできない。
「……俺さ」
らんが、
ぽつりと呟いた。
「……昔」
「……」
「殴られてたんだよ」
「……っ」
こさめの呼吸が、
止まる。
「毎日」
「……」
「理由なんてなかった」
笑った。
乾いた笑い。
「……気に入らなかっただけだろうな」
拳を見る。
少し、
震えている。
「……最初は」
「……」
「泣いてた」
「……」
「助けてって」
「……」
「でも」
目を閉じる。
「誰も来なかった」
静かな声。
感情が、
ほとんどない声。
それが、
一番痛かった。
「だから」
「……」
「やめた」
「……」
「泣くの」
「……」
「期待するのも」
目を開ける。
「そしたら」
「……」
「何も感じなくなった」
その目は、
空っぽだった。
「……逃げた日」
「……」
「嬉しかった」
「……」
「やっと終わるって思った」
少しだけ、
笑った。
でも、
その笑顔は、
壊れていた。
「でもさ」
「……」
「終わってなかった」
「……」
「中身が」
胸を指す。
「ここが」
「……」
「壊れたままだった」
こさめの目から、
涙が落ちる。
止められなかった。
「……なんで泣いてんだよ」
らんが、
少しだけ困った顔をする。
「……」
こさめは、
答えられなかった。
ただ、
一歩、
近づいた。
怖かった。
嫌がられるかもしれない。
怒られるかもしれない。
でも、
止まれなかった。
手を、
伸ばす。
震える手。
そして――
らんの服の袖を、
小さく、
掴んだ。
「……っ」
らんの体が、
固まる。
「……こさめ」
低い声。
驚いている。
「……ひとりじゃない」
こさめは、
震える声で言った。
「……」
「……ここにいる」
「……」
「ぼくも」
沈黙。
長い沈黙。
らんは、
何も言わなかった。
振り払うことも、
しなかった。
ただ、
少しだけ、
震えていた。
「……ばか」
小さく、
呟く。
「……」
でも、
その声は、
優しかった。
らんの手が、
ゆっくり、
こさめの手に触れた。
掴むわけじゃない。
ただ、
触れるだけ。
確認するみたいに。
「……あったけぇ」
小さな声。
消えそうな声。
その夜。
初めて、
らんは、
一人じゃなかった。
こさめも、
一人じゃなかった。
壊れたままの二人が、
初めて、
同じ場所に立った夜だった。
次の日の朝。
こさめは、
少しだけ遅く目を覚ました。
「……」
カーテンの隙間から、
光が入っている。
昨日の夜のことを、
思い出す。
らんの手の温度。
「……」
胸が、
少しだけ、
あたたかかった。
リビングに行くと、
すでに何人か集まっていた。
なつと、
らんと、
そして――
いるま。
「……あ」
思わず、
声が漏れる。
いるまが、
顔を上げた。
「……おはよ」
短い言葉。
でも、
ちゃんと、
こさめを見て言った。
「……おはよう」
こさめも、
小さく返す。
その瞬間、
らんが、
ちらっと、
いるまを見た。
気づいていないのは、
こさめだけだった。
朝ごはん。
隣の席は、
自然と、
いるまになった。
昨日までは、
偶然だと思っていた。
でも、
今日は違った。
いるまが、
自分のトレーを、
こさめの隣に置いたのだ。
「……」
何も言わない。
でも、
離れない。
「……ちゃんと食え」
ぽつりと、
いるまが言う。
「……え」
「昨日、ほとんど食ってなかった」
「……」
見てたんだ。
ちゃんと。
「……うん」
こさめは、
頷いた。
少しして。
「……っ」
手が、
止まる。
スマホが、
震えた。
ポケットの中。
あの番号。
「……」
怖い。
体が、
固まる。
そのとき。
「……出なくていい」
隣から、
声。
いるまだった。
「……」
こさめを見る。
まっすぐな目。
「……ここにいるなら」
少しだけ、
迷って、
それから、
言った。
「……無理しなくていい」
涙が、
出そうになる。
優しい言葉じゃない。
でも、
逃げ場をくれる言葉だった。
「……いるま」
名前を呼ぶ。
「……なに」
「……こわい」
正直な言葉。
隠せなかった。
その瞬間。
いるまの手が、
テーブルの下で、
こさめの手に触れた。
「……っ」
びくっとする。
でも、
離れない。
握らない。
ただ、
触れてるだけ。
「……大丈夫」
小さな声。
「……」
「俺がいる」
その言葉は、
なつの言葉とも、
らんの言葉とも、
違った。
もっと、
近い言葉だった。
こさめの指が、
少しだけ動く。
そして、
自分から、
いるまの手を、
掴んだ。
「……」
いるまが、
少しだけ、
目を見開く。
でも、
振り払わなかった。
「……消えない?」
こさめが、
聞いた。
「……」
「ぼく」
「……」
「ここにいていい?」
いるまは、
少しだけ、
息を吐いた。
そして、
言った。
「……もういるだろ」
「……」
「今さら、どこ行くんだよ」
ぶっきらぼうな言葉。
でも、
それは、
拒絶じゃなかった。
「……ちゃんといろ」
「……」
「俺の見えるところに」
心臓が、
強く鳴る。
そのとき、
遠くで、
なつが静かに笑った。
らんも、
何も言わず、
目を逸らした。
二人とも、
わかっていた。
こさめの隣は、
もう、
いるまの場所だと。
その日から、
少しずつ、
変わっていく。
こさめが、
一番最初に、
名前を呼ぶのは、
いるまになった。
困ったとき、
一番最初に、
探すのも、
いるまになった。
そして、
いるまもまた、
気づいてしまった。
守りたいと思ったのが、
初めてだったことに。
でも、
まだ知らない。
この平穏が、
壊される日が、
近づいていることを。
コメント
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やっばい続き楽しみすぎる!