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ヴィクターの美しい人間の指先が、乾いた音を立てて白骨へと戻ったあの日以来。
私たちが過ごす寝室を包む空気は
以前のようなただ甘く、どこかシュールで滑稽な溺愛だけのものではなくなっていた。
カチャリ、カチャリ。
クローゼットの奥、物理法則を無視して拡張された闇の中から響いてくる骨の音。
以前はその音を聞くたびに「また変な動きをしてるわ」と呆れ半分に笑えたのに
今の私には、それが形を持たない何かが泣いているような
不穏な旋律となって耳の奥にこびりついて離れない。
(……ヴィクター。貴方は、本当に何者なの?)
その問いに対する答えは
予想もしない形で、そしてあまりにも残酷な鮮明さを持って私のもとへ届けられた。
きっかけは、彼が「気分転換に」と淹れてくれた、いつものアールグレイだった。
ベルガモットの爽やかな香りが鼻腔を抜け、温かい液体が喉を通り抜けた瞬間──
視界がぐにゃりと歪み、世界の色彩が反転する。
公爵家の豪華な調度品も、窓の外に広がる王都の夜景も、溶けるように消え失せた。
代わりに現れたのは、埃っぽい紙の匂いと、安っぽいパイプ椅子の感触。
……そこは、見覚えのある大学の部室だった。
「……なぁ澪、この『ヴィクター』ってキャラ設定、やっぱり盛り込みすぎじゃないか? 立ち絵の指定も凝りすぎだし、何よりバックボーンが重すぎるよ。これじゃメインヒーローより目立っちゃうし、物語全体の整合性が取れなくなる」
「え……?」
呆然と顔を上げると、目の前には前世のサークル仲間が、困り果てた顔で私を見つめていた。
彼の手には、私が寝る間も惜しんで描き殴った、数十ページに及ぶ設定資料の束。
その一番上には、黒い正装に身を包んだ、金色の瞳を持つ美少年のラフ画が描かれていた。
「でも……! 彼は、誰よりも孤独なの。この世界の不条理を全部背負わされているのよ。彼こそが、本当の意味でヒロインを包み込める、救われるべきヒーローなの!」
「澪の気持ちは痛いほどわかるけどさ……これはあくまで、ユーザーが攻略対象を楽しむ『乙女ゲーム』なんだよ? 設定の整合性がつかないキャラを無理に出しても、物語が壊れるだけだ」
「……悪いけど、今回のプロットからこのキャラは外そう。ヴィクターは『ボツ』だ」
「……っ!」
その瞬間、全てのパズルが組み合わさるように、私は思い出した。
ヴィクター。
それは、私が自分の理想を、そしてこの世界の誰よりも深く
激しい愛を詰め込んで産み落とそうとした
けれど、私自身の手で「無」へと葬り去った、未完のキャラクターだったのだ。
(……ああ。そうだった。私が、彼を……「無かったこと」にしたんだ)
意識が急浮上するように、元の寝室へと引き戻される。
気がつけば、私の頬には熱い涙が幾筋も伝っていた。
目の前には、人間の姿を保ったヴィクターが
壊れ物を扱うような手つきで私の肩を抱き、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「……どうしたんだい、急に泣き出しりして。お茶が熱すぎたかな? それとも、また悪い夢でも見たのかい?」
「……ヴィクター……」
私は震える手で、彼の完璧な人間の頬に触れた。
滑らかな肌、高い鼻梁、深い慈愛を湛えた瞳。
その全てが、私がかつて設定資料の隅に、呪いのように書き込んだ「私の最高傑作」の通りだった。
(貴方は……私が完成させなかったから。物語を終えるための『出口』を与えなかったから…死ぬことすらできずに、ここにいるのね)
私が、彼に「エンドロール」を与えなかった。
だから彼は、この不完全なゲームの世界の狭間で
永遠に終わることのない「未完成」という地獄の中を、たった一人で彷徨い続けてきたのだ。
(そして……彼は、私の死を「バグ」として、狂気的なまでに拒絶している)
もし私が、シナリオ通りに処刑され、物語がエンドロールを迎えてしまったら──
世界が閉じ、データが消去されるそのとき
設定の外側にいる「未完成」な彼は、光のない永遠の空虚の中に、ただ一人取り残されることになる。
彼が私の死を阻もうとするのは、私を愛しているからだけではない。
「自分を置いて、物語を終わらせないでくれ」という、魂の叫びだったのだ。
「……ごめんなさい、ヴィクター。本当に、ごめんなさい……」
「謝る必要なんてどこにもないんだよ。君はただ、僕の愛に甘えていればいい。他のことは、僕が全部片付けてあげるから」
ヴィクターは人間の顔で、どこまでも優しく微笑んだ。
けれど、その金色の瞳の奥
底知れぬ深淵には、前世の仲間が口にした「整合性」という冷酷な言葉が
世界を切り刻む刃のように不吉な影を落としているのが見えた。
(……私の死は、この世界の絶対的なルール。シナリオそのもの)
それをヴィクターが「管理者」の暴力でねじ曲げ続ければ
いずれ世界そのものが矛盾に耐えきれなくなり、崩壊を始めてしまうだろう。
それは、彼という存在が、世界と一緒に消滅することを意味している。
「ヴィクター……貴方、本当に大丈夫なの? 無理をして、世界を壊してまで、私を……」
「大丈夫……? もちろんさ。僕は管理者だ。この世界のどんな英雄よりも、王族よりも、僕は強い。君を守ることくらい、造作もないことだよ」
ヴィクターは再び、完璧な「人間」の顔で強がりの微笑みを浮かべた。
けれど、その微笑みは、これまでに私に見せてきた「すべてを支配する神様」の傲岸なそれとは
あまりにもかけ離れた、脆く崩れそうなものだった。
(……彼は、ずっと独りだったんだ。私が彼を捨てたあの日から、ずっと)
終わることのできない、未完成のエンドロール。
その果てしない孤独を、彼はたった一人で背負い、私がこの世界に現れるのを待っていた。
私は、彼をボツにした「親」として。
そして、今この場所で彼を愛し始めてしまった一人の女として。
彼を、この呪いのような未完成から救い出さなければならない。
けれど、一体どうやって……?
(……もし、私が死ぬことで物語を終わらせるのではなく……私が『生きたまま』、この世界に新しいエンドロールを刻むことができたら?)
それは、ゲームのシステムを根本から書き換える、神への叛逆。
けれど、私を抱きしめるこの冷たい骨の持ち主に、本当の安らぎを与えるためなら。
その叛逆こそが、私たちがこの世界で綴るべき、唯一の真実の物語になるのかもしれない。